D・カーネマン「ファスト&スロー」(8)第18章〜20章

 
 われわれの直感的予測はしばしば間違いを犯す。その予測はシステム1がおこなうが修正はシステム2の仕事である。しかしシステム2が働くためには相当な努力が必要となる。だから合っていても間違っていても大勢に影響がない予測であれば、直感が担当しても問題は生じない。
 またシステム2がするバイアスを排したもっと客観的?な予測がいつも望ましいも限らない、明日晴れるか雨が降るかの予測はしばしば対称性をもたない。雨が降ることが非常に困る状況の場合、その可能性を過大に見積もることが整合性を持つ場合もある。
 タレブは「ブラック・スワン」のなかで、われわれはたえず自分の周りの出来事を解明しよう、解釈しようとしており、その結果「講釈の誤り」とタリブが呼ぶものが常に生じていると主張している。おこらなかった様々な事象は無視され、たまたまおきた衝撃的な事象に注意が集中する。したがって、最近、おきた目立つ出来事は因果関係をでっちあげる後講釈の題材になりやすい。グーグルの成功は創設者の能力や判断力の賜物とされ、グーグルに負かされた競争相手は先見の明がなかったとされる。
 しかしグーグルの成功話を読んで、どうすれば企業が成功するかを学ぶことができるだろうか? グーグルの成功は膨大な事象の積み重ねの上に成り立っている。その多くは平凡な目立たない日常的な出来ことである。しかし、人間の脳は平凡な事象は見落とすようにできている。グーグルの成功が非常に多くの「運」によっているとしても、われわれはそれを認識できない。われわれは世界は必ず筋道が通っているという信念を捨てられない。私たちは過去を理解していて、だから未来も知りえるという思い込みを持っている。
 
 本書では言及されないが、こういう論を見ているとすぐに想起されるのが、ポパーの「未来は開かれている」という主張である。あるいはその著書「開かれた世界とその敵」である(タリブの著書ではポパーは頻回に言及されている)。「未来は開かれている」というのは、未来がどうなるか解らないということであり、なぜそうなるのかといえば(ポパーによれば)われわれは愚かだからである。「開かれた社会の敵」となるのは、賢人には未来が予想でき、その賢人あるいは哲人が設計し指導する社会が望ましい社会であるとする行き方である。直接ポパーの念頭にあったのはマルクス主義であろうが、その思考の起源はプラトンであるとする。これはあらゆる人間が賢いとするわけではないが、一部には賢い人間がいて、その人間にはわれわれの社会がどうあるべきかがわかるので、われわれはその指導のもとに生きていけばいいとする(日本共産党はまだ「前衛」という雑誌を刊行しているのだろうか?)。日本だけの現象ではないのかもしれないが、日本の人文方面の学問世界では、誰それの専門家というひとがいて、自分が専門とするお師匠さんを批判的に検討するのではなく、その言ったことはすべて正しいという方向でお師匠さんが教祖になっているひとが少なからず存在する。かつてはその代表がマルクスだったのであろうが、M・ウエーバーなどもそうなっているようである。要するに世には賢人という存在があって、その人間には「世界の真理」を発見できるのだとするのである。
 真理ということにはおそらく3つの見方があって、1)世界に真理は存在する。われわれはその真理を発見できる。2)世界に真理は存在する。しかしわれわれはその真理には至れない。3)世界に真理などというものは存在しない。世界は絶対的なものではなく、すべて相対的である、とするものである。ポパーは1)に反対し、2)の立場をとり、3)の立場にも反対する。
 自然科学の分野には「真理」というものが存在するという見解については、われわれが「真理」と思っているのは、一つの説明の仕方なのであって、それが真理であるように見えるのは今までそれと矛盾するデータが得られていないということであって、将来、それと矛盾するデータが得られる可能性が残っている以上、「真理」ではなく「暫定的な仮説」にとどまるというのがポパーのいうところであるが、そうだからといって、それならばすべての説明は相対的なものであらゆる説のあいだに優劣はないとする見解にも反対し、われわれには至れないにしても、どこかには存在する「真理」に近づいているかどうかが大切であるとポパーはする。自然科学の世界においてわれわれは「真理」に至ることができたとする錯覚が人文社会科学世界でも「真理」に至れるという錯覚を産み、それが科学的社会主義などという言い方を作っていったとするわけである。
 ポパーはシステム2のする思考についていっているわけで、システム1のする飛躍や短絡を論じるカーネマンの視点とは全然方向が異なる。システム2が歴史には法則があるするのは、システム1がもともとあらゆることに因果関係を発見してしまうことに由来するとするわけである。
 世界についての見方は大きく二つにわかれる。それを「カオス」であると見る立場と「コスモス」であるとみる見方である。ポパーは自分は後者であるとする。宇宙は一見すれば「カオス」としかみえない。しかしそこに通低する物理法則があり、すべてはその法則下にあるとする見方は「コスモス」派となる。しかし、われわれの住んでいる宇宙は過去に起きたビックバンからのただ一回のできことの中にあるのだそうで、ただ一回のできごとに真理の存在を主張できるのかというのは反証可能性に科学の存在の根源をみるポパーにとってはなかなか微妙な問題である。
 さて、カーネマンによれば、われわれは予想外の事象がおきると、それにあわせて自分の世界観を修正する。問題は修正すると、修正する前に自分がどのように考えていたかをはっきりと思い出せず、過去の自分の考えを後から修正して、たとえばその予想外の事象についてすでに予想していたといった方向に軌道を修正してしまう(後知恵バイアス)。
 これの問題は起きた結果によって、事前の判断が正しかったかを判断しがちになることである。医者や政治家、投資アドバイザー、企業の意思決定者などにこれは残酷に働く。結果が悪かった場合には、なぜその予兆に気がつかなかったかと非難される(結果バイアス)。
 結果が重大であればあるほど「跡知恵バイアス」は大きくなる。9・11テロのあと、その予兆をすででCIAは入手していたが無視したというようなことが盛んに指摘された。しかし、それに類するような情報はきわめて多くあり、その中でこの情報が特に重大であるということを示すものは何もなかった。しかし事件がおきてしまえば、なぜそれにもっと注目しなかったのかと言われる。
 このような非難への対策として、意思決定者はお役所的やり方に走り、リスクをとらなくなる。医療過誤訴訟がひんぱんにおきるようになると、医者は検査の回数を増やし、すぐに患者を専門医に送り、慣例どおりの治療をしていれば安全を思うようになる。実際、現場ではIT化、ペーパーレス化の時代だというのに、どんどんと紙が増えるばかりである(検査説明書、手術承諾書、輸血説明書&承諾書・・・それらは長期保管しなくてはならない。これらは自分たちの身を守るということばかりでなく、そういうことをしていない病院は「インフォームド・コンセント」の時代の流れに沿わないとして、病院を評価する機構から低く査定されてしまうことにもなる)。説明責任を増やすことはよい面ばかりとはいえないとカーネマンはいうのだが、しかし今は「インフォーム」の時代なのである。そのようになったのは「パターナリズム」への反動で、医療の世界は極端なパターナリズムで来ていたから、そのゆり戻しがおきている。しかし医者というのはパターナリズムへの親和をもつひとが選択することが多い職業なのか、それを発揮できる機会があると「偉そうな顔」をしたいひとも多いようで、禁煙に熱意を燃やす医者の一部にはそういうひともいるのではないかとわたくしは邪推している。
 一方、後知恵バイアスは一部の果敢なリスク探求者に不当な見返りももたらすことがある。大部分は失敗するにしても、一部は(運によって?)成功するわけで、彼らは成功を探り当てる嗅覚をもつ先見の明の持ち主と評価される。
 ほとんどのビジネス書は、成功例をもとにしている。その著者はひょっとして運がよかっただけなどとは決して考えない。そして読者が求めているのも、企業の成功や失敗を明快に説明してくれる本なのである。しかし、そういういった本でとりえげられた成功しか会社とうまくいかなかった会社の差は、執筆された後に経過を見ていくと縮小し、ほとんどゼロになっていくことが多い。つまり「平均への回帰」がおきるのである。
 第20章で、カーネマンは若いころ、イスラエル国防軍で幹部養成学校に送り込む候補者の選抜にかかわっていたときの経験について書いている。初対面の8人にチームを組ませ、長い丸太を1.8メートルの壁の上に引き上げ向こう側に移す課題をさせる。そうすると誰がリーダー役になるか、誰が自己主張が強いか、傲慢か忍耐強いか、根気があるかなどが解り、それらから誰がリーダーとなるにふさわしい人材かを評価する。試験官たちは、こられのテストから誰が幹部にふさわしいかを選別できることは自明であると考えた。しかし、その後のかれらを追跡していくと、そこでの評価がまったくあてにならないことが明らかになった。問題は、そういう事実が明らかになった後でも、実際に選抜試験の場に立ち会うと、目の前の候補者たちの行動から将来の適正が予測できるという信念にはいささかも揺らぎがしょうじなかったということである。「自分の見たものがすべて」なのである。
 後年、カーネマンたちはウォール街の証券会社の投資マネージャーの調査をした。株の取り引きが成立するためには、売るひとがいて買うひとがいなくてはならない。この株は会社の実態より安いと思うひとと高いと思うひとがいることで売買はなりたつ。もしもちょうど適正な値付けがされているのであれば、売買はなりたたないはずである。ある調査によれば、頻会に売り買いする投資家のほうが、あまり売り買いしない投資家より儲けは少なかった。
 そして証券会社のプロもアマチュア投資家から巻き上げることについては有能であっても、投資家としてはアマチュアと変わるところはなかった。そこにスキルはほとんど存在しなかった。しかし、その事実を会社幹部に示しても、それは「なかったこと」にされてしまった。業界の大前提を否定する論は脳が消化できないのである。同じ考えを持った人間の共同体に指示されているときは、どれほど馬鹿げた考えであっても、揺ぎなく信じ続けることができるものだと、カーネマンはいう。
 こういう議論から想起されるのは、クーンの「科学革命の構造」における「ノーマル・サイエンス」という概念である。科学者は真理の探究をしているのではなく、科学者共同体内で共有されている信念の補強作業をしているのだという説である。そういう共同体内で共有されている信念の否定(科学革命)はめったにおこらず、大部分の時期は信念の補強に明け暮れるという。ポパーはそれは科学者の事実であるかもしれないが、科学者のあるべき姿ではないというのだが・・。
 あらゆることが、後知恵でみれば意味を持つ。金融評論家はその日の出来事について説得力のある説明をできる。歴史家は歴史について説明できる。しかし、ヒトラースターリン毛沢東の出現は必然ではない。その受精の瞬間、ほんのわずかのタイミングのずれで女の子が生まれていたかもしれない。もしも彼らがいなかったら20世紀の歴史は変わっていたとするならば、われわれの歴史は偶然の産物である。
 専門家の政治予測がどれだけ的中するかを調べた本がある。惨憺たるものであった。サルがダーツを投げたほうがまだ増しというような成績であった。しかし彼らは自分の誤りをみとめようとせず、どっさりと言い訳を用意している。特にハリネズミ型で自説の固執するものの成績が悪い。キツネ型の現実は複雑でさまざまな要因によって動かされていると思うもののほうがまだよかった。程度問題ではあるのだが。
 われわれは近い将来についてならある程度の予想は可能である。しかし遠い未来の予測は不可能である。そして「近い」と「遠い」のあいだの区分がどこになるのかは誰もしらない。
 
 昨今の新聞では、これから日本の株価はどこまで上がるかといった記事がたくさんでている。これは「近い」未来の予想であるのだろうか? それについてもさまざまな意見があるが、それはそのひとが持っている情報の差なのだろうか? それとも情報は平等に与えられていて、ただその情報をどう見るかということについての差なのだろうか? 一年前に現在の株価を予想していたひとはほどんど皆無なのではないだろうか? 半年前は?
レーガン大統領は経済学的に無知で、その政策の根拠はラッファー曲線とかいって、レストランでナプキンに書かれた簡単なグラフであったとかいう説がある。「ブードゥー経済学」とか揶揄するものもあったようだが、少なくとも一時期はアメリカに活況をもたらした。安倍首相も経済はまるでわかっていないとかいうひともいるようだが、なんだかその経済政策?で株が上がり、円が安くなっている(なんで株が上がると円が安くなるのか、それさえわたくしにはよくわからない)。その依拠しているのはリフレ派という学説らしい。かなり以前、クルーグマンの経済学の入門書を読み、その流れでリフレ派の本も読んだことがあるが、なにしろギリシャ文字式の経済学はさっぱりわからない人間なので、ほとんど理解できていない。うっすら理解したところでは、どうも経済学というのはいかにしてインフレをおこさないようにするかということをもっぱら研究してきた学問のようで、いまどき日本のような先進国でよもやデフレがおきるなどというのは完全に想定外のことであったらしい。デフレというのはお金を使わずにじっと持っているだけで利息がつくような状態なので誰も投資しようなどとは思わない。とにかくインフレに持っていかなければ駄目で、だったらお札を刷って刷ってすりまくれというようなものだったように思う。とにかく何もしないのより何かをしろ、して駄目だったらまた考えればいい、というようなものだった。要するに実験で、経済学というのは頭で考えてもその通りになるかどうかはやってみなくてはわからないということらしい。だからそんなことをしたらハイパーインフレになるぞというひともいるし、自分の仕事はインフレをおこさないことと考えている日銀は「イヤだ、イヤだ、だから馬鹿は困る」と思っているようである。
 しかし、無責任なリスク追及者も成功してしまうと、先見の明があったことになり、それに懐疑的であったひとは凡庸で臆病で弱気とされてしまうということはつとに本書が指摘するところである。もしもアベノミックスとかいうのがしばらくの間でも成功するなら、安倍首相は先見の明があったとされることになるのかもしれない。
 いよいよ馬鹿なことを書くが、本書によれば「顔つき」というのは人の評価に非常に大きな影響を与える。どうも今の日銀総裁の顔は元気がないというか自信があるようには感じられず積極性も感じられない。いまの安倍首相の顔を前に首相をしていたときと比べると随分と「陽」になったというか、自信があるものになってきているように感じる。昨年、維新の会の橋下氏が自分の会のトップには安倍前首相はというようなことを言い出したとき、「え、まだそんなひといたんだ、もう過去のひとでしょ。時代錯誤でしょ。」と思った。しかし考えてみれば、わたくしなどよりずっと若いわけで、久しぶりに見ると、前よりも元気なように見えた。そういえば麻生さんというひとも以前よりも人相がよくなったような気がする。マスコミに悪口を書かれ続けていると人相も悪くなるものなのだろうか? 説明責任を増やすことはよい面ばかりとはいえない、というカーネマンの主張の一つの例なのかもしれない。
 経済というのは気分に大きく左右されるもののようで、今の安倍首相の顔は鳩山・管・野田の3人とくらべると「陽」であると感じる。それも少しは経済の動向にかかわっているのだろうか?
 というようなことは経済音痴のたわごとであるので、読み飛ばしていただければ幸い。
 

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