D・カーネマン「ファスト&スロー」(9)第22章「エキスパートは信用できるか」

 
 「エキスパートの直感は信用できるか」と題されているこの章では、「信用できない」派であるカーネマンが、「信用できる」派であるクラインと、「経験豊富な専門家が主張する直感はどんなときなら信じてよいか」について共同研究したエピソードが紹介されている。その共同研究をしている最中に、グラッドウェルの「第一感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい」が出版された。この本には、ギリシャ彫刻の真贋を美術専門家が鑑定する場面があり、複数の専門家が何となくおかしい、これは偽物であると感じるが、なぜそう感じたのかはうまく説明できないという事例が紹介されており、これこそが直感の威力であるとグラッドウエルはしていた。
 カーネマンは臨床的予測がアルゴリズムに劣るとするミールの研究に影響された。一方、クラインは消防士の作業に密着して取材し、現場で彼らがどのように決断するかについて研究してきた。クラインの研究によれば、彼らは現場でほとんどただ一つの案だけを検討する。はじめから二つの可能性の比較検討などはしない。最初の案がどうしてもうまくいかない場合にはじめて第二の案を検討する。適切な案が見つかるまでそれを繰り返す。消防士だけでなく、チェスのエキスパートも同じである。本書でのカーネマンの説明によれば、このやりかたでの最初の連想記憶の発動はシステム1の分担であり、それの検討はシステム2の仕事である。
 サイモンという人が「状況が手がかりを与える。この手がかりをもとに、専門家は記憶に蓄積されていた情報を呼び出す。そして情報が答えを与えてくれるのだ。直感とは、認識以上でもなければ以下でもない」といっているのだそうである。カーネマンによれば、「なぜかわからないままにわかるという神秘性は、直感に固有の特徴ではない。脳の活動においては当たり前」ということになる。直感をの神秘的な能力であるとする必要はないということである。それには鍛錬が必要で、チェスの名人が一目で盤面がわかるようになるために必要な時間は一万時間くらいであるとされている。
 共同研究の結果わかったことは、ふたりの意見が一致しないのは、想定しているエキスパートの種類が異なっているためだということだった。クラインは消防隊長、看護師などを対象にしていた。一方、カーネマンは、臨床医、ファンドマネージャー、政治評論家などを対象にした。(看護師と臨床医が異なるカテゴリーに分類されているが、看護師は現場での判断、臨床医は予後の長期予測についての話である。現場での判断についてなら、看護師も臨床医も同様であろうと、わたくしは思う。)
 カーネマンによれば、世の中には疑似エキスパートがたくさんいる。自分の判断は信頼に値すると熱心に説く輩は絶対に信用しないほうがいい。直感的な判断があてになるのは、それが十分に予見可能な規則性を備えている事象であること、長期間の訓練によってそうした規則性を学ぶ機会がある場合に限られるという。だからファンドマネージャーや政治評論家のする長期予想は、基本的に予測不可能なことを予測しているので当たらなくて当然なのである。
 単純な答えがでない分野に手をだせば、成績が悪くなるのは避けられない。だからノイズの多い環境では、統計的アルゴリズムは人間を大幅に上回る成績を示す。一定の規則性が存在しない状況では、直感は信用できない。プロフェッショナルでも自分の専門分野の一部以外では初心者同様のこともあり、外科医でも得意分野と不得意分野がある。臨床心理士は経験を積むにしたがって、自分の言葉がクライアントにどのような影響を与えるかについて学んでいくであろう。しかし、その経験もクライアントの長期予後を予想することにはあまり役立たないことが多い。
 
 医者は初期の勉強段階で必ず鑑別診断ということを学ぶ。ある症状を呈する患者がきた場合に、その症状からどのような病気を考え、この病気であるとすると現在の症状とどこが合致し、どこが合わないかといったことから、次の確定のための検査を考え、病気を絞り込んでいくといったやり方である。
 しかし、臨床の実際を経験していくにつれ、まずそのようなやり方はしなくなる。そもそもその患者の診断名は何かということさえほとんど考えなくなる。鑑別診断の前提は、目の前にいる症状を訴えるひとが病気であるということである。これは病気ということの定義にもかかわってくるが、身体に生じた何らかの変化を病気とすれば、病気でないひとは外来にたくさんくる。(もちろん、症状があればすべて病人であるとすれば、そういうひともまた病人である。)だから、実は考えていることは、いま目の前にいるひとが放置してはいけない重大な病気であるかどうかということがほとんどである。
 「重症感」という言葉が現場ではしばしば用いられる。「これは放っておくと危ないぞ」「直ちに対処が必要だぞ」というような反応を医療者に引き起こすような何かをもった患者さんである。では医療者がなぜそのような感じを抱いたのかということはなかなかうまく言語化ができない。いわゆる直感、第六感に近い何かで、臨床経験を積むにしがたってその「直感」能力が向上していくとされる。そして「重症感」という言葉があるのであれば、(使われないけれども)「軽症感」という言葉もあっていいはずで、われわれは「軽症感」のただようひとはほとんど病気であるとはみなさない。「医療の場にくる必要もないのに。家で寝ていればいいのに」と実は思っている。
 わたくしの知り合いの医師で、外来に初診できた患者さんがなにを問題にして、どういうことを希望して来たのかが、患者さんが診察室に入ってきてほんの数秒で、あるいは一言二言病状を語りはじめただけで、ほとんどわかってしまうというひとがいる。これはナースや医師が経験を積むにしたがって身につけていく「直感」とは異なった能力なのだろうと思う。患者さんの表情とか身体言語を読むことについて非常に卓越しているのだろうと思う。ちなみにこの先生のクリニックは非常に繁盛している。わたくしはその方面についてはさっぱりだめで、だから占い師や呪い師には絶対になれないと思うのだが、それでわたくしがとっている戦略は、患者さんがしゃべるのを待つ行き方である。たとえば、何でこんな軽微な症状でわざわざ外来に来たのだろうなあと思う患者さんが少なからずいる。ちょっとした頭痛、あるいは腹痛などで来院している。この場合、「しばらく前に親戚がくも膜下出血で倒れまして」とか「父に最近、膵臓癌が見つかりまして」とかいう言葉を聞き出さない限り、双方向の会話が成立しない。だったらはじめにそう言ってくれれば話が簡単なのだが、医者は頭痛といえば必ずくも膜下出血も考えるだろうとか、腹痛といえば膵臓癌も鑑別に加えるはずとか思っているようで、自分からそんなことを言い出すのは越権行為と思っているようである。それで、こういう言葉は診察の終わりあたりで、「ところで・・」という形で、患者さんが自分が心配していた方向に話が進まないことがわかった段階で、切り出してくる場合が多い。だからなるべく患者さんに話をしてもらうというのは大事だと思う。高圧的な雰囲気があると、そういう話は切り出しにくいようなので、なるべく何でも話せる雰囲気をつくっていくというのが戦略である。ちなみに上記の超能力?先生は、しばらく患者さんが話した後、「ねえ、あなた、もっと他に心配していることあるでしょう。言ってごらんなさい」というような方向で進めるらしい。わたくしは、患者さんとの間に短時間でそういう言葉を交わせるintimate1な関係に入ることは苦手だし出来ないので、そういうようには進められない。何か心配があることがすぐわかる、それを患者さんが話せる関係にすぐ入れるというのはやはり特殊な能力なのだろうなと思う。本書のはじめのほうにあるように、人間は他人の表情とかからきわめて多くのものを読みとるわけだから、その先生は身体全体で患者さんを安心させる何かを発信しているのであろう。
 ベナー「看護論」という本がある。こういう邦題になっているが、原著は「From Novice to Expert」で「初心者からエキスパートに」であり、看護師が初心者の段階から経験を積んでいくにつれ「直感」の能力を養うことにより、状況を一挙に把握できる能力を身につけていくようになることを論じたものである。カーネマンが述べていることを具体的な事実で示しているわけであるが、ちょっと気になるのがベナーがハイデガーの論を自己の主張の根拠にしようとしているように見える点である。看護とハイデガーとどんな関係があるのだと思うが、言わんとすることは、初心者が教育されるマニュアル的な勉強法(本書での言い方ではアルゴリズム的な行き方)は西洋的な理性偏重の浅薄な行き方であり、一方、直感はもっと深いもので、人間の奥底に潜むわれわれの持つ(東洋的?)能力の顕現なのであるというようなことである。
 カーネマンはいたって合理的なひとで神秘主義的なものへの傾きのようなものは一切みられない。対立するクラインというひとがどうなのかはよくわからないが、カーネマンが「私たちは、異なる傾向、感情、好みを持っており」といっているのは、示唆的である。カーネマンはきわめて合理的な人間ではあるが、その主張するところは、われわれは全然合理的には行動してはいないということである。氏がノーベル経済学賞を受賞したのも、従来からの経済学が依拠していた合理的「経済人」という像は、実際のわれわれとは似ても似つかない、理性が作り上げた虚像であるということを示したことによるのであろう。氏はわわれが非合理な存在であることを合理的方法で示した。
 そしてわたくしが考えるには、もともとわれわれがどのような政治的あるいは思想的あるいは学問的見解を支持するようになるのかは、いろいろな立場を熟慮検討した結果としてではなく、われわれがもともと持っている性向、感情、好みによるのであり、いわば「直感」によるのであって、支持する理由というのはその後から「システム2」がもっともらしく作り上げるのではないかということである。
 自分自身のことを考えると、ずっと「合理」と「非合理」のあいだで揺れているのだなと思う。いわゆる進歩的文化人が嫌いなのは、彼らがの言っていることが頭だけの浅薄な理屈と感じられるからである。一方、人文学の方面の人たちが「人間の神秘と不可思議」というようなことを言っているのを見ると、少しは脳科学の方面も勉強したら、と思ってしまう。合理の方向の人をみると非合理を擁護したくなるし、非合理の立場のひとをみると合理性の側にたちたくなる。中学から高校にかけてなまけものの文学青年だった人間が医者になったので、一番の基礎には文学的な「非合理」への志向があるのだと思う。一方、医学が自然科学であるかは断定できないとしても、一応は理科系の学問の驥尾にふすわけだから、自然科学の方法や思考法は人文系の人たちよりは身につけることになる。それでどっちつかずの人間になってしまったのだろうと思う。
 ドーキンスの主張などを見ていると余りに合理の方向に拘泥するのでちょっと滑稽に感じてしまう。さりとてハイデガーも困る。それで目指すのは合理性を人間から動物一般に拡張していく方向である。もしもわれわれが合理的であるとするならば、それは動物一般にも存在する合理性の延長にあるはずである。とすれば、われわれの合理性は進化の産物として説明できねばならない。われわれは理性を持つ点で他の動物とは隔絶した他の動物とは次元の異なる存在であるというような主張が一番嫌いで、これは一神教(特にキリスト教)に由来すると思うので、それに近寄らないですむように生きるのが上等な生き方だと思っている。そうかといって科学でなんでもわかるという話も(これまたキリスト教的な「万物の霊長」の裏返しからくる人間観だと思うので)大嫌いで、人間がそんなに聡明なわけはないだろうと思う。
 だから、心理学という科学の方法によって、人間はあまり(全然?)合理的ではなく、聡明ではないという説明をしてくれるカーネマンは、わたしにとってはとてもうれしいひとなのである。

ファスト&スロー (下): あなたの意思はどのように決まるか?

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ベナー看護論―初心者から達人へ

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