D・カーネマン「ファスト&スロー」(12)第25章〜28章

 
 25章からは、第4部「選択」に入り、行動経済学と直接かかわる話題になってくる。実際の人間(ここでの言い方では「ヒューマン」)は近代経済学が仮定する「経済人」(本書のいいかたでのエコン)とはまったく異なる行動をするという話である。
 以前、小室直樹氏の本を読んでいたときに、いわゆる「経済人」は現実の人間とはまったく異なるので、仮想の「経済人」を基盤にして構築される「経済学」は現実の分析には全く役に立たないではないかという批判を一蹴して、そういう批判は物理学が厳密に解けるのは2体問題までなのだから世界の現実の分析には役に立たないという批判と同じで、まず基礎的な法則を理解し、それでは解明できない部分については別の付加的なやりかたを追加していけばいいのであって、現実を100%クリアに分析できないやりかたには意味がないなどというのは、およそ学問のイロハを理解していない人間の戯言であるというようなことをいっていた。人間のやることはそれが経済にかかわることであっても、「経済学」だけで解明できるわけはないので、経済学のなすべきことは、「経済人」を仮定すれば経済はどうなるだろうということを示すことであって、それが現実と合わないとすれば、合わない部分を説明する別の学問が要請されてくるだけのことであるというようなことであったと思う。
 問題は経済学をやっている人間が、その理論の基礎にしている「経済人」(エコン)は「現実の人間」(ヒューマン)とはまったくことなる理想化された抽象的な存在であることを常に忘れずにいるかということであろう。カーネマンの学説が経済学界に衝撃をあたえたということは、どうも経済学者たちは「エコン」が現実の人間を表していると半ば思いこみはじめていたということを表しているのではないだろうか?
 医療は「人間は自分の命が少しでも長らえることができることを当然望んでいるはずである」ということを基本的な前提にしている。現場で仕事をしていれば、そんな前提がなりたつ時ばかりでないことはすぐにわかってくるが、問題は、それならばその前提を疑わなければいけないのはどんな時か疑った場合にはどうすればいいのかということもまた医療者が責任もって答えるべき問題なのか、それともそれは医療者以外の誰かがかかわるべき問題であるのかということである。
 狭義の医学がそれを自分の問題と思っていないことは確かで、その証拠には医学部の講義ではそのような話題が論じられることはない(あるいは「医学概論」とか「医学史」などでは触れられることがあるかもしれないが、そもそもわたくしが学生の頃には、そのような講義さえほとんどなかった。またかりにそのような講義があったとしても、そういうことが身に滲みて自分の問題であると思えるのは、ある程度臨床の場数をふんだ後であるので、20代の若僧にはそういう話は全然ぴんとはこない)。
 さて、カーネマンのよれば、経済学では「期待効用理論」が採用されている。それは合理的経済主体モデルを支える理論的支柱となっている。このような理論を提出したのは20世紀の知の巨人である数学者のフォン・ノイマンと、経済学者モルゲンシュタインであった。
 それに対して、カーネマンらは「合理的経済人」ではなく「ヒューマン」なら、リスクをともなう選択をどのようにおこなっているかを研究した。彼らは、合理的選択ではなく、直感的選択がどのようになされるかを探った。その成果が「プロスペクト理論」であり、その論文を「エコノメトリカ」という経済学関係の雑誌に投稿したことがカーネマンらにとっては幸運となった。心理学方面の雑誌に投稿していたら、経済学の分野から注目されることはほとんどなかったであろう、と。
 1738年にベルヌーイは、お金がもたらす心理的価値(現在では「効用」と呼ばれる)について、「効用は富の対数関係にある」といった。(100万円もっているひとにとっての1万円の価値は、1億円持っているひとにとっての百万円と同じ。つまり誰にとっても1万円が同じ価値を持つのではない。金銭そのものではなく、それが心理にもたらす価値が効用。)
 しかし、ベルヌーイは現在しか問題にしていないことをカーネマンは批判する。同じ100万円でも、昨日まで10万円しかもっていなかったひとの100万円と、昨日までは1000万円持っていたひとの100万円では全然違うではないか、と。しかしベルヌーイのいう通りであれば、二人にとっての100万円は同じ価値となるはずなのである。昨日まで10万円もっていたひとが今日20万円もっているなら、昨日まで千万円もっていたひとが今日は200万円しかもっていなくなっているひとよりもずっと幸福に感じているであろうと。幸福感は富の変化に依存する(以前持っていたお金が参照点になる)。
 したがって悪い選択肢しかない場合の起業家や軍の司令官はリスク追求的となる。どうせだめである可能性が高いなら、万が一でもうまくいく可能性に賭けてしまう。最近の宝籤のコマーシャル「なんと、当たりたければ買うしかない」というのは実にうまい(というかひどい)もので、ほとんど潰れそうな会社の経営者、敗色濃厚の軍の司令官はまずうまくいく可能性のないことであっても、それがうまくいく可能性がゼロではない限りそれに賭けてしまう。そして医療行為の選択でもしばしばこれがおこなわれていると思う。「この治療がうまくいく可能性はほとんどない。しかし、助かる可能性はこの治療がうまくいった場合以外にはない」というのと宝籤を買って6億円を期待することは同じなのかもしれない。
 富の絶対量ではなく、富の利得あるいは損失として経済をみていくやりかたをカーネマンらは追求した。そして、利得と損失が対称的でないことを発見した。ひとは確実に900ドルがもらえる場合には、90%の確率で1000ドルもらえる賭けには手をださない。しかし、確実に900ドルを失うのよりも、90%の確率で1000ドル失う方に賭ける。10%でも手元にお金が残る可能性があるなら、90%の確率で1000ドル失うことを許容できるのである。
 確実な損失は非常にいやなものなので、そういう場面ではわれわれはリスクをとってしまう。われわれは勝つことを好む以上に負けることを嫌う。損失は利得より強く感じられる。これはおそらく進化の過程に由来するのであろう。好機よりも脅威にすばやく反応する生命体のほうが生き残る可能性が高い。われわれは損失回避的生物である。大体において、われわれは損失を利得の2倍くらい大きく感じる。
 しかしカーネマンらの論がうまく説明できないのは、かなりの利得がみこまれる可能性がある場合には、われわれは再びリスクをとるようになってしまうことである。参照点が変わってしまう。6億円もらえた場合が参照点になってしまう。だから宝籤がなりたつ。
 近代経済学の一番の基礎にある理論として「無差別曲線」がある。同等の好ましさをもつ二つの財をしめす。たとえば所得と休暇。一日休暇が増えることとそれにより所得が減ることのトレードオフである。ある所得とある休暇日数で、同じ満足感が得られる組み合わせをグラフにする。しかし、そこで考慮されていないのが、現在の所得と現在の休暇日数である。たとえば労使交渉では現在の状態が参照点となる。ここでも当然、プラスよりもマイナスに敏感に反応するわれわれの生得の傾向が反映するから、現状よりの悪化はきわめて受け入れにくい。休暇が増えても給与が減る選択は損失を強く感じるわれわれの性向によって受け入れがたい。
 またわれわれは現在保有しているものを手放したがらない傾向をもつ。よいワインを手にいれる喜びよりも、よいワインを手放す苦痛のほうが大きい。使用目的で所有するものの価値と交換目的で所有するもの(典型的にはお金)は価値が異なる。
 合理的経済主体(エコン)であれば、あるものをいくらで買ったかは問題にならない。現在の市場価格だけが問題であるはずである。しかし、買値が実際には参照点となってしまうので、合理的判断を妨げる。
 エコンを前提とする経済学にとっては、損失回避を優先するという行為は非合理である。しかし、ふつうの人間であればそれを当然と考える。
 だから大体の場合、大きな改革は失敗に終わる(改革は多数の勝ち組を作るかもしれないが、一部に負け組をつくる。改革で不利益を被るひとの動向は無視できない。そのためにわれわれは基本的に保守的となる傾向を持つ)。景気が悪くなって、自分の会社の周囲の給与レベルが下がってきた。だからあなたの給与を下げるよ、といわれたら多くのひとは納得しない。参照点は現在の給料である。しかし、今度の新入りは周囲の企業と同じ給与とすることにはあまり抵抗はない。参照点は周囲の企業の給与水準となる。
 だから、プロゴルファーは、バーディパットよりパーパットをより慎重に打つ。
 ある絵をごく短い時間(本人が見たことを意識しないくらい短い)みせた場合、それが不快なものである場合、本人は気がつかなくても、脳の扁桃体(感情的刺激を受けたときに活性化する部位)は気づいている。危険にかんする情報は「見る」という意識的行為をおこなう視覚野をバイパスして扁桃体に伝えられる。われわれの脳には悪いニュースを優先的に処理するメカニズムが組み込まれている。マイナスはプラスを圧倒する。
 とすれば、人間関係をうまくやっていくためには、よいことを追い求めるよりも、悪いことを避けるほうがいい。「よい」と「悪い」の区別が人間には生物学的に組み込まれている。
 交渉の多くは相手に自分の「参照点」をわからせ、こちらの「参照点」を相手に伝えることに費やされる。こちらの譲れない点はどこか、相手はどこまで譲歩する気があるか?を探り合う。
 
 ここで言われていることは何もことさらに言われなくても、ごく常識的に考えても理解できることが多い。本書で言われているように「ウチのおばあちゃんだってよく知っていること」なのかもしれない。しかし、そういう非合理な「ヒューマン」を前提にしたのでは、経済など分析できないというのが「経済学」の側の言い分なのであろう。
 カーネマンらの主張が「学問」になったのは、一見非合理に見える行動についても(合理的?に)分析できるということを示した点にあるであろう。つまり不合理な行動にもそれなりの合理性?がある、あるいは一貫性があるということである。
 
 「ある重大な病気があり、それに対する確実な治療法はないが、現在開発中の治療法がひょっとすると効果があり、非常にまれには完治も期待できる。何もしない場合、余命は一年以内である」というような場合、合理的な選択というのはどのようなものだろうか? ここには、この病気にかかったひとの情報が何もあたえられていない。たとえば、4歳の子供であれば、20歳であれば、60歳であれば、95歳であれば、どうだろうか? また、治療にかかるコストが示されていない。10万円? 50万円?、百万円?、千万円? また、この治療によるマイナス場面も示されていない。うまくいけばと書いてあるが、うまくいかない場合、副作用で一ヶ月で死んでしまうことも50%あるということなら、どうなるだろうか?
 「何もしなければ一年以内」と「うまくいけば完治」ということの間には対称性がない。このようなケースでは、ひょっとしてに賭けるひとが多いのではないだろうか? 医療費の相当部分は公費で負担される場合には特に。日本の今の制度では、現在開発中の治療手段については保険が適応されることはないが、保険適応されている治療については、高額医療制度というものがあり、相当部分については公的に費用が負担される。一月に500万円医療費がかかる治療があり、保険が3割負担であるとしても、150万円が自己負担ではなく、おそらく自己負担は10万円をこえないことが多いはずである。私見によれば、現在の「がん保険」などの一部はその事実を伏せて、高額の治療法が増えてきている事実のみを強調して、加入を誘導しているという印象を持っている。
 一ヶ月に500万円の治療などというと例外的と感じられるかもしれないが、それほどまれなことではない。そのような高額の治療をおこなうと、われわれ医者はなぜそのような治療が必要であるのか説明する書類を書かなくてはならない。以前、病室を担当していたときは月に一枚くらいはそのような書類を書いていたと思う。決して例外な事態ではない。そしてわたくしが病室を受け持っていた10年以上前にくらべ、最近は格段に高額な治療が増えてきている。
 ふたたび私見によれば、医療費の高騰の理由の最大のものは、高齢化の進行ではなく、有効であるがとても値のはる治療法がどんどんと増えてきていることなのではないかと思う。10年位前まで進行した大腸癌に対する有効な治療法はほとんどなかった。最近では続々と登場してきている。みなとても高価である。その平均的な効果は半年くらいの延命であるとされている。月何百万の費用と半年の延命が見合うのかという議論は日本ではしていけないことになっているが、問題は平均半年ということで、平均だから、一年という人もあるわけだし、例外的には2年・3年ということだってある。2年・3年頑張っているうちに、さらにもっと有効な治療法が開発されるかもしれない。この治療にはかなりの副作用もある。しかし副作用がでるのも生きているからである(副作用のために、何もしなかった場合よりも余命が短くなるという場合も当然ありうるわけだが、そういうケースもふくめ平均すれば治療群のほうが延命している)。3年前に身内が病気になり、7ヶ月入院し、わたくしの推定では相当高額な医療費となるであろう治療をうけ(合計すれば千万円をこえることは確実であろうと思う)、退院後2年以上、病気なしできている。本人の支払った医療費は月に10万以下、医療保険に入っていて、そこからでる費用がちょうど個室代を充填できるくらいの額、ということでかかった費用の十分の一以下の自己負担で済んでいる。ということは誰かがその残りを負担しているわけである。
 最近、近藤誠氏がさかんにがんは治療するなというようなことを書いている。治療が効かず、ただ苦しい思いをしただけという場合が多々あることは事実である。医療者の側が治療効果の現実を伝えず、過大な期待を患者家族に持たせているケースもあるだろうと思う。その背景には製薬会社の治療効果についての宣伝攻勢ということがあるのも間違いない。
 しかし、最近の薬はかつてのペニシリンなどのように偶然発見されるというようなものではなく、理論的にここをブロックする薬剤が開発できればこの病気にきくはずということから開発される。それをめがけて膨大な投資をする。多くはうまくいかない。しかし、うまくいくものも時にはでてくる。その薬には、うまくいかなかった薬の開発費までみな上乗せされる。医療費の高騰は必然である。
 これを止めるには、強制的にある条件のひとにはこの治療は適応されないというようなことしかないだろうと思う。たとえば80歳以上のひとには癌の治療はしないとか? しかし80歳すぎても元気なひとはたくさんいる。では、80歳過ぎて自立できていないひとにはしない? しかし、自立できていなくても頭がしっかりしてるひとはたくさんいる。それでは80歳を過ぎて自立できておらず、認知症のひとにはしないというのは? 認知症の程度のどこに線を引くのか? そもそも認知症のひとには人権はないのか?・・・。たぶん。そういう線引きは誰にもできないであろう? それは暗黙のうちに密かにどこかでおこなわれていくのであろう。
 いずれにしても近藤誠氏のいうことは現在の医療のある種の行き過ぎに対する一つのアンチテーゼとしては有効性を持つであろうが、それが一人歩きすると困ったことになるように思う。わたくしは近藤氏と直接にかかわったことはないが、一人だけ数年前にかなり進行した乳癌の患者さんをみたことがある。何も治療をしていない。不思議だなと思って聞いてみたら近藤氏のところに通院しているのだった。近藤氏はそうは思っていないかもしれないが、わたくしは乳癌についてはそれなりに有効であまり副作用のない治療法があると思っているので、なぜそれを試みないのかがちょっと不思議であった。近藤氏はたしか乳癌の放射線治療の専門家であり、日本での乳房温存手術の普及に貢献したひとであるはずである。それがいつのまにか何もしないのがベストという方向に凝り固まってしまっているように思える。もちろん何もしないのがベストのこともあるし、何もできないことも多々ある。しかし、時には有効なこともあるということまで否定するのがよくわからない。
 医療の歴史においては「治療懐疑主義」あるいは「治療虚無主義」といわれるような動向がくりかえし登場する。医者が治療としておこなっていることはしばしば患者を害するだけなのであるから、自然治癒力に期待して「待機的」に経過をみるのが一番であるとするような方向である。われわれが日常臨床でおこなっていることのほとんどは、自然治癒に期待して時間稼ぎをしているだけである。しかし、自然治癒には期待できない疾患も確かに存在する。そしてそのような疾患こそが「医学」が何とかしようと懸命に力を注いでいる部分である。今、われわれがおこなっていることは、後世から見ると「なんと野蛮なことをしていたのか」といわれるようなことであるかもしれない。「昔は手術などという野蛮なことをしていたのだ。今は薬を一粒のめば治るのに!」という時代もくるかもしれない。
 われわれは病気になると、それも重い病気になると、「溺れる者は藁をも掴む」という心理状態になるようである。それにつけこんでとんでもないことをしている輩もまたたくさんいることは確かである。それでも「残念でした。有効な対策など何もないですよ!」とはいわないのが医療なのではないだろうか? 中井久夫氏のいう「希望を処方する」こともまた医療者の大事な仕事なのではないかと思う。近藤氏は現代における治療虚無主義者なのだと思う。だが、ピネルらが治療懐疑主義者であった時代の瀉血や下剤にくらべれば、現在われわれが取り得る治療の選択肢は相当に増えている。やはり医療はそれなりに前に進んでいるのだと思う。そして、前に進めていく力は「何とかしたい、何とかできないか?」という気持ちなのであって、はじめから「治るものはほうっておいても治る。治らないものは何をしても治らない」と決めつけてしまうと、そういう力がどこからもでてこなくなってしまうだろうと思うのである。

ファスト&スロー (下): あなたの意思はどのように決まるか?

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