村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

   文藝春秋 2013年4月
   
 読了して、何だかつまらないなあと思い、自分だけなのだろうか?とアマゾンを覗いてみたら、低い評価もずいぶんと多かった。それなら屋上にまた屋を架すことはないわけだが、なぜつまらないかを少し考えてみる。
 まず、この小節では時間が流れない。現在がない。主人公のつくる君は過去のある経験によって時間が止まってしまった人間として描かれている。大学に入ってすぐの経験で時間が止まってしまっているから、36歳ということになっているが、まるで高校生みたいである。大学に入り、社会に出て何をしてきたのか、そこで経験してきたことが、つくる君になにをもたらしたか、それがほとんど何もないように書かれている。そんな生き方をしてきたのなら、エリさんがいうように「それは君が馬鹿だからだよ」である。
 そんなつくる君も、食べ物にはうるさく、音楽にも一家言を持っている。しっかりと女の子ともつきあってきている。
 食べ物を旨く感じるためにも生命力が必要であるし、音楽というのもどこかの虚空に客観的に浮かんでいるものではなく、自分が生きていることのなかで様々に聞こえ方が違ってくるはずである。しかしつくる君は欠落した自分を嘆きながらも、美味しいものはそれとは関係なく美味しく、音楽もまたそれとは関係なく美しいのである。
 それよりも何よりも、「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」4人組と無色透明のつくる君の5人が高校時代に作っていた完全無欠の美しい共同体というのが、そういうものがあったとただ書かれているだけで、実際には何も描写されていないので、まったくリアリティがない。
 その共同体からある日、理由も告げられずに追放されたことが、つくる君をいたく傷つけたというのがこの小説の骨格なのだが、後半で明かされるその理由と経緯で、クロ君がなぜつくる君に、そっとその理由を教えることができなかったのだろうかというのが読者に納得できるものとしては提示されていないので、非常に困る。教えることができなかったということでないとこの小説は成立しないのである。
 それでつくる君は、過去の傷を引きづりながら、うじうじぐだぐだと生きてきて、36歳にもなってようやく、恋人の沙羅くんに言われて過去を解明する旅にでるのである(しかし、この沙羅さんとつくるくんの関係を作者は恋愛のように描写しているが、これを読んで恋愛を感じる読者が果たしているのだろうか?)。
 この小説で描かれる「巡礼の年」でつくる君のしていることは自分のルーツ探し過去探しのようなことなのである。小説というのは行動することでひとが変わっていくことを描くものなのではないだろうか? 行動が過去探しということでは困るのである。
 この小説の現在で描かれた「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」4人組と無色透明のつくる君の5人をみると、かつてある時期でも美しい共同体を形成できたなどということなど到底信じられない。「アカ」くんも「アオ」くんもまったくつまらないひとである。そして「シロ」さんは精神を病んだひとである。ここにでてくるひとたちは、なぜ揃いも揃って過去にあれほどこだわるのだろうか? 精神分析学の悪しき影響としか思えない。
 「1Q84」のbook3から、村上氏の描く世界は急に狭くなってきているように思う。この小説にでてくるひとはほとんどみな同質のひとである(例外はエリさんのご主人だけ?)。村上氏が書きたいという全体小説の正反対である。
 この小説を最後に、村上氏の小説が何十万部も売れるというようなことはなくなるだろうと思う。しかし、今日、本屋にいったら、「色彩を持たない・・・」はただいま品切れで、予約受付中とあった。
 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年