V・S・ラマチャンドラン「脳の中の天使」(2)

 
 「はじめに−ただの類人猿ではない」では、脳の構造が紹介されている。
 わたくしは医者のくせに、脳の構造を一向に覚えられなくて困っている。さすがに脳を見て、どちらが前かくらいはわかるが、それは単なる灰白色の固まりで、ここからが頭頂葉、こちらが側頭葉などと色分けされているわけではない。ましてや下頭頂小葉とか前頭前皮質とかいわれてもちんぷんかんぷんである(後者が前の方にあることだけは見当がつくが)。
 人間も進化の産物であるから、それ以前の動物から構造をうけついでいる。人間の脳は解剖学的にみれば、類人猿に存在しない構造はない。しかし、人間において大幅な発達をとげており、事実上は人間にユニークといっていいような脳の構造として、左側頭葉のウェルニッケ野前頭前皮質、下頭頂小葉(IPL)があり、なかでもIPLから派生した縁上回と角回は類人猿の脳には存在しないのだそうである。そして、そのような人間に特徴的であるような脳領域の一部には、(1)で述べたミラー・ニューロンが存在する。
 ミラー・ニューロンは自分が何かしているときにも発火するが、ほかのだれかがそれと同じ動作をしているのを見ているときにも発火する。それがあることによって、われわれはほかの人に共感し、その意図を「読みとる」ことが可能となる。それこそが人間を人間たらしめているのだというのがラマチャンドランのいわんとするところである。
 ミラー・ニューロンは類人猿にも見られる。しかし類人猿においては、他者の動作に反応するだけだが、人間では他人の心までも「読みとれる」レベルにまで発達しているとラマチャンドランはしている。それによって人間は社会的学習が可能となり、模倣が可能となり、文化の伝達をすることができるようになり、さらには言語をもつことができたのだ、と。
 第1章「幻肢と可塑的な脳」はラマチャンドランを有名にした幻肢についての(フロイト的な精神分析学的)臆断ではない、脳の構造にもとづく解剖学的説明とそれに対するミラー・ボックスによる臨床的治療の紹介である。これは前著「脳の中の幽霊」でくわしく紹介されていたし、多くのかたにすでに知られているであろうと思うので省略する。ラマチャンドランが指摘するように、脳は従来考えられていた以上に可塑的であるということが、この章のポイントである。
 第2章「見ることと知ること」では、ラマチャンドランは人間の視覚は他の霊長類にくらべても格段に精密になっていることを指摘し(人間の視力が一番優れているということではない、たとえばワシはわれわれよりもはるかに視力がいい)、視覚がいかに多くの脳の機能の集合によってなりたっているかを示し、いきなり精神とか心といった方面に飛ぶのではなく、脳の構造自体が人間が人間以外の動物にくらべて大きく異なって複雑になっていることを示す。もちろん、視覚は人間の「精神」とか「こころ」と深く結びついているという方面に話はすすむわけなのだから、視覚の機能の優越ということは人間の優越という方面と当然結びつくわけである。ラマチャンドランはいう。視覚は眼のなかで生じるのではない。脳のなかで生じる。
 また行動と知覚はむすびつく。この10年のあいだに発見されたものとして、前頭葉にある「標準ニューロン」がある。枝やリンゴに手を延ばすという動作で発火するが、枝やリンゴを見ただけでも発火する。われわれは単に見るだけでなく、見ているものの意味も発見している。
 そしてわれわれは視知覚と視覚的想像の境界があいまいになってきている。類人猿もバナナやボスのイメージを思いうかべることはあるいはできるかもしれない。しかし翼のある子供(天使)や半人半馬のケンタウルスといったものをイメージすることは決してないであろう。
 われわれは《見れば解る》のではない。脳の障害によっては見えているがわからないということがおこりうる。視覚はまた情動と関連する。それは芸術作品の起源を説明するかもしれない。
 
 脳科学の本を読んでいると、視覚というのがいかに複雑な絡み合いからなりたっているのかがわかり驚嘆する。人間は深く視覚に依存的であるから、コウモリが超音波で外界を認識していると説明されても、それを想像することさえできない。「コウモリであるとはどんなことか」はわからないのである。本当かどうかは知らないが、カエルは動くものだけを認識するのだそうである。一方、われわれの嗅覚は著しく退化しているから、外界の認識を嗅覚に大幅に頼っている動物の世界もまた想像できない。ヒゲが重要な役割を演じる動物が体感しているものもまた同じである。
 このような問題についてはじめて考えたのはユスクキュルの「生物から見た世界」を読んだときだと思うが、そこに示されていたダニの世界がわれわれのものとはまったく異なることはいうまでもない。ダニは視覚をもたない。聴覚ももたない。しかし表皮が光覚を感じるから、外界の明るさはわかる。ダニの雌は交尾をおえたあと、その光覚を利用して灌木の枝先までよじ登る。ダニは酪酸の匂いを知覚することができる。哺乳類の皮膚腺からは酪酸の匂いがでる。それを知覚すると、ダニは灌木から落ちる。うまく混血動物の上に落ちることができれば、敏感な温度覚によって目的を果たせたことを知る。後は触覚をたよりに、皮膚組織に頭をつっこみ、血液を吸い込む。ダニには味覚がない。血液に似た温度の液体であれば、何でも吸い込むことが実験で示されている。もしも落ちた場所が冷たい場所の上であれば、また木登りをやりなおす。ダニにとっては、光覚と温度覚と酪酸にたいする嗅覚があればいい。このダニの世界もわれわれには想像すらできない。
 ユスクキュルがいっていたのは、生物それぞれでその世界が異なるということである。どれが優れているということではない。それぞれの動物がもつ世界は、それぞれの動物が生き残るために必要なもので構成されている。
 それではわれわれのもつ(ラマチャンドランのいう)特有の性質もわれわれの生き残りに必須なものなのだろうか?ということが問題となる。それは必須のものではなく、われわれはすでに淘汰の圧を脱していて、いわば贅沢品としてさまざまな特有な性質を持つようになってきているのだろうか?
 養老孟司さんの多分一番最初の本である「ヒトの見方」に「剰余とアナロジー」という文がある。そこでの設問は「サルにもゲームがあるだろうか」というものであった。だが、そのような問いにまともに答えようつすると「ゲームとは何か」という定義の問題に後退し袋小路に迷いこんでしまうかもしれない。それでこの問いをもっと大きな問題の一部とみて、そちらを考えるという戦略を養老氏はとる。大きな問題とは「ヒトと動物はどこが違うか」 カッシラーは言った。ヒトは「象徴、すなわちシンボル、を操るもの」である。すなわち、言語、宗教、芸術、歴史、科学・・・。
 養老氏によれば、ヒトは生存に不可欠なもの以外の余剰を抱え込んでいる。それは脳に生じた。それは生存に不可欠なものではないから、生存に必要という観点から人間と人間以外の動物を比較しても意味がない。比べるなら、人間以外の動物もまた生存に必要でないことをするか、という観点から問いをたてなおす必要がある。それで問いは「チンパンジーは暇つぶしには何をするであろうか」というものになる。チンパンジーも暇つぶしにあおむけにひっくりかえって手で腹をたたくといったことをするのだそうである。しかし、チンパンジーが何かの儀式をすることはないし、お金に目の色を変えるということもない。だからサルにはゲームは無い、と氏は結論する。
 以前読んだときは、面白いと思って読んだのだが、この論のたてかたの問題点は、余剰というは生存に不可欠なものではないとされている点で、役に立たない「余剰」はお荷物なのだから生き残りにはマイナスなはずである。進化論的に説明ができない。われわれがゲームをすることもまた、われわれの生き残り上有利というようなことがあるだろうか?
 たとえば音楽などというものが、われわれの生き残り上必須なのだろうか? あるいは酒は? もっといって「文明」は? われわれは「野蛮」であっても生きられるのでは? あるいは「野蛮」な方が生き残りには有利なのではなのでは?
 ラマチャンドランはミラー・ニューロンに起因する「共感」ということをいうが、「共感」というのは人間に普遍的なものなのだろうか? それは限られた「文明」世界でのみ通用することなのではないだろうか?
 ラマチャンドランは、養老氏がしれっとして「余剰」といって済ましてしまう部分を進化の延長線上になんとか位置づけようとする。以下の章でそれを見ていく。
 

脳のなかの天使

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脳のなかの幽霊 (角川文庫)

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コウモリであるとはどのようなことか

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生物から見た世界 (岩波文庫)

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ヒトの見方 (ちくま文庫)

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