V・S・ラマチャンドラン「脳のなかの天使」(5)

 
 第5章は自閉症の問題をあつかっている。わたくしは内科の医者であるので、自閉症児をみた経験はない。接する可能性があるのは高機能の自閉症アスペルガー症候群の一部で、しばしば職場の問題として相談される。その病因については広く容認されているものはないようであるが、それが脳の異常にもとづくという点については見解の一致が得られているようである。
 ラマチャンドランは、自閉症がミラー・ニューロンの機能不全によるという説を1990年代後半から提唱しているらしい。それは必ずしも一般に受け入れられているわけではないようだが、この章はその自説の宣伝といった側面もありそうである。
 ラマチャンドランによればミラー・ニューロンは心を読みとる細胞のネットワークである。それは共感、意図の読みとり、模倣、ごっこ遊び、言語学習などをつかさどる。そしてそれこそがまさに自閉症において傷害されるものであるのだから、自閉症はミラー・ミューロンの障害によることは明らかではないかという。(わたくしは、ここを読んで自閉症でおきる症状の逆をミラー・ニューロンの機能であるとしているように感じる。ごっこ遊びがミラー・ニューロンの機能であるという証明はどのようにしてなされたのであろうか?)
 ラマチャンドランが提示する具体的な証拠とは以下のようなものである。脳波でのミュー波の抑制が正常者では他人の行動をみてもおこるが、自閉症のものでは、それがおこらなかった。fMRI自閉症患者では視覚皮質と前部前頭葉ミラーニューロン領域)の連結が弱い。
 
 わたくしが感じるのは、ラマチャンドランはミラー・ニューロンに惚れ込んでいて、それによっていろいろなことをみんな説明してしまいたいという思いが強いすぎるのではないかということである。
 自閉症あるいはアスペルガー症候群について、わたくしが今まで読んだ本のなかで一番、記憶に残っているのが、バロン=コーエンの「共感する女脳、システム化する男脳」である。これは平均的にみて男の脳と女の脳には差があり、男の脳はバロン=コーエンが「システム化」と呼ぶ能力に秀で、一方女性の脳は共感能力に優れているとする説で、したがって自閉症男性脳の極端な場合であるとするわけである。このような説はジェンダー役割の別は文化によって規定されるとするフェミニズムの陣営からは厳しい批判をうけることになるわけだけれども、脳の機能は大きく二つの方向にわけることができて、一般的にいえば「理論的」「理性的」な方向と、「心情的」「感情的」の方向であるとすることには(それが男性や女性に特有なものであるとしないかぎりは)異論はでないのではないかと思う。
 従来は理性的な方向こそが人間を人間たらしめているのであり(homo sapiens)、感情なら人間以外の動物にだってみられるとされてきたのではないかと思うが、実は感情的な方向こそが人間的なものであるという方向がでてきているのだろうと思う。カーネマンの「システム1」と「システム2」にしても、「システム2」が「理性」「合理」の方向であることはいいだろうが、「システム1」は必ずしも「感情」とはいえないと思われる。そうではああるが、それを「暗黙知」などと綺麗事でいわず、「好き嫌い」(これも感情の一種だろうか?)や「直感」の方向とすれば、われわれはそれで多くのことに対応していて、日常生活では通常は大きく過つことは少ないということである。つまりわれわれは日常の生活においてほとんど理性などは使わなくても生きていける。
 ラマチャンドランが屈折するのは「共感」という感情に近い方向から、「言語」といった理性に通じる方向を導きだそうとするからなのだろうと思う。ラマチャンドランはやはり「理性」や「言語」といったものをもったからこそ、人間は人間以外の動物とは次元を異にする、他を圧する圧倒的な存在になったとしたいようなのである。だから「共感」よりも「模倣」に重点がおかれる。ラマチャンドランは男性脳の持ち主なのだろうと思う。
 「知性」と「感性」、あるいはもっと敷衍して「理科」と「文科」・・。しかし二分法というのはどうもすっきりしすぎて、そこからもれてしまうものがある。プラトンによれば、人間には理性と欲望と気概の3つがあるのだそうである。人間性を賞賛するひとは「理性」をもちだし、「人間もまた動物に過ぎない」派は「欲望」をもちだす。さてそうすると「気概」はどうなるか? プラトンによるとそれの座は胸にあって脳にあるのではないらしい。頭と臍から下だけだとどこか欠けるところができてしまうようなのである。
 だが、最近では「気概」の座もまた脳にあるとされるようになってきているからややこしくなる。ダマシオなどは感情を身体的なもの、全身的なものとしているようであるが、ラマチャンドランがミラー・ニューロンに非常にこだわるのは、「心」の座もまた脳にあることにしたいからなのではないだろうか?
 もしも、ラマチャンドランのいうことが正しく、またバレン=コーエンのいうことも正しいのだとすると、テストステロンは胎生期におけるミラー・ニューロンの形成を抑制する方向に働くということになるのだろうか?
 「心の理論」は「他者の心の動きを類推したり、他者が自分とは違う信念を持っていることを理解できる能力」のことであり、自閉症あるいはアスペルガー症候群ではここに障害があると考えられている。「心の理論」はプレマックらが提唱した概念であるが、プレマックは人間とチンパンジーの間に明確な線を引いていないようである。しかしラマチャンドランは前章の「文明をつくったニューロン」で、《「心の理論」と呼ばれる能力は人間に特有なものである》と言い切っている。バロン=コーエンは、「共感こそ、人間とほかの動物との間に一線を画し、人間が人間らしくあるためにもっとも大切な特質」といっている。しかし、同時に、「ゴリラ、チンパンジー、オランウータンなどの大型類人猿やイルカ、それに救助犬セント・バーナードなどは、共感を働かせていると考えるにじゅうぶんな証拠がある」ともいっている。
 どうも、ラマチャンドランは人間は特別なものであるという思いが強すぎるように思う。
 

脳のなかの天使

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共感する女脳、システム化する男脳

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心の発生と進化―チンパンジー、赤ちゃん、ヒト

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