V・S・ラマチャンドラン「脳のなかの天使」(6)

 
 第6章「片言の力−言葉の進化」は言葉の問題を論じる。
 ラマチャンドランは人間は人間以外の動物とはまったくレベルを異にする動物であるとの立場であるから、人間を人間以外の動物から区別するものとしての言語に注目するのは当然である。
 言語というのは本当に不思議なもので、これが進化の産物であるといわれても簡単に納得できるようなものではない。眼の進化も同じであるが、これはドーキンスの「利己的な遺伝子」でかなり納得できる形で説明されていたように思う。しかし、それが可能であるのは眼球の構造の変化が化石資料によってたどれるからである。言語は化石化されることはないから、それができない。またコンピュータ・シミュレーションで言語の進化を再現することも(おそらく)不可能である。ラマチャンドランは生物学の側の人間として、言語もまた進化の産物であると信じる。ということで、本章で展開されるのは、ラマチャンドランによる言語の進化についての仮説である。
 医学を学ぶ過程で、言語にはブローカ野とウエルニッケ野の二つの中枢があることを習う。前者の障害による失語が「運動性失語」と呼ばれるもので、後者の障害によるのが「感覚性失語」である。というか、このような病態とそれに対応する障害部位の同定から、そのような中枢の存在が仮定されるようになったというのが実態に近いのかもしれない。
 本章を読んでびっくりしたのだが、ブローカ野の障害による失語の患者でも歌はしっかりと歌えるのだそうである。発話できない患者でも歌は歌える。その理由は不明なのだそうだが、言語は左半球がになうが、歌は右半球が担当しているからと想定されているのだそうである。わたくしが勉強したころにはそういうことは習わなかった。自分が受け持った患者さんにも、歌をうたってもらおうなどと考えたこともなかった。
 こういう失語症患者からわかることは、脳は言語に特化した回路をもっているということである(プレマックのいうモジュール)。そして回路の別々の部位で言語処理の各段階がになわれているということである。ブローカ野は統語(文法規則)にかかわる。言語学者はしばしば文法規則は意味から独立していると主張し、脳のなかの何かほかのものから進化したとは考えない(チョムスキーは言語は自然選択によって進化したのではないとしている)。一方のウェルニッケ野は意味に関与する領域である。ウエルニッケ野の障害では、患者は文法的には正しいが意味のない言葉を流暢にしゃべる。
 このようなことは一世紀以上前から知られているが(だからわたくしも習った)、その細部については多くの疑問が残されているし、それがどのように進化したかもわかっていない。なぜ75000年から15万年前に言語が生じたのだろうか? 
 ベルベットモンキーは3種の警告コールを持つ(ヒョウのコール、ヘビのコール、ワシのコール)。それぞれに対して、近くの木にむかって逃げるとか、後ろ足で立って草むらをのぞきこむとか、空をみあげてやぶのなかに隠れるとかする。しかし、これは言語ではないとラマチャンドランは主張する。
 脳の研究でひとびとを魅了し、天才と変人をひきつける分野がある。意識の問題と言語の進化の問題である。
 従来の言語学者は言語の構造的な面を重視しすぎてきており、それがほかの認知プロセスとどのようにかかわるかについては関心をしめさないできていた。だから既存の脳構造からそれがどのように進化したかという問題意識がでてこない。
 言語の進化についての説は大きくいって4つのものがある。
1)言語は神によってわたしたちに与えられた(ウォレス)。
2)創発の原理(全体は部分の和よりも大きい)による。(チョムスキー・・・ラマチャンドランによれば、神をひきあいにだすことはしないにしても、その考えはウォレスに近い。)
3)外適応。コミュニケーションのためではなく、ほかの目的で進化したものがのちに言語に転用されるようになった(S・J・グールド)。
4)コミュニケーションのために進化した(S・ピンカー)。
 ラマチャンドランによれば、1)と2)は検証不能である。残りの二つも正しくない。として氏が提唱するのが「共感覚的ブートストラッピング説」というものである。
 ところ変われば言葉が変わることは誰でもみとめる。しかし言語規則がそうかどうかは見解が一致しない。
A)規則が脳に完全に組み込まれていて、大人の言語との接触は、その規則のメカニズムをオンにするために働く。
B)言語の規則は聞き取りを通して統計的に抽出される。
C)規則を獲得する能力(LAD・・言語獲得装置)は生まれつきだが、実際にその規則を身につけるためには、言語との接触が必要である。
 ラマチャンドランは、C)に賛成する。
 氏は問題の提示を少し変える。「言語はいかに進化したか?」→「言語(をすみやかに獲得する)能力はいかにして進化してきたか?」
 言語が異なると、同じものを指す言葉はまったくことなるが、それはまったく恣意的に採用されるのだろうか?(言語学者の多くはそう考える)
 ここでラマチャンドランが持ち出すのが「ブーバ/キキの実験」というものである。星形のとげとげがある図形と丸みをおびた図形を披検者にみせて、それがブーバという名前かキキという名前かをえらばせる。すると多くのものが星形をキキ、丸いほうをブーバとする。ということはその選択は恣意的ではないということである。視覚的形状は(おそらく)発音の時の口唇の形状(発音のときに唇が尖るか、丸くなるか)と連結されてその名前の選択に一定の傾向をあたえる。同様に大きいものを指す言葉、小さなものを指す言葉には、口唇が大きくなるか小さくなるかが影響をあたえる。このように視覚と聴覚は独立のものではなく、第3章でとりあげられた共感覚のような何らかの連結がある、そうラマチャンドランは主張し、それを共運動とよぶ。それが「身振りという運動」と「発音という運動」を結びつけたのである、と。そしてまたしてもミラー・ニューロンをもちだす。それらを結びつけるのがミラー・ニューロンなのではないか、と。
 
 若い頃(といっても30歳過ぎ?)、丸山圭三郎氏の著書を介してのソシュール言語学から非常に大きな影響を受けた。ソシュールが述べていることは言語全般にわたるのであろうが、今でも覚えているのが、丸山氏の言い方での「身分ける」「言分ける」という区分で、人間以外の動物は(ベルベット・モンキーのように)身体全体で外界に反応するのに対して、人間は、ある事態にそのまま反応するのではなく、言葉という概念的なもの(それも一切の根拠を欠く恣意的なもの)を通して間接的に反応するので、人間は他の動物が持つ健全性を持たない「劣った動物」「狂った動物」(ホモ・デメンツ)なのである、というようなものであった。
 丸山氏は人間がいかにダメな動物であるかということを嬉々として語っていた。同じころ「ものぐさ精神分析」などの岸田秀氏からも大きな影響を受けたが、氏もまた人間を「本能の壊れた」ダメな動物であることを語っていた。ラマチャンドランとは反対に、人間は他の動物よりも劣った狂った動物なのだという方向である。それで、岸田秀伊丹十三路線を通じて、精神分析学などにも一時はまったものだった。
 ラマチャンドランと丸山氏は正反対の方向ではあっても、人間は特別だという指向では同じであるわけで、結局、そういうのはダメ、と思うようになり、紆余曲折を経て「人間は動物である」路線にたどりついた。「人間は動物にすぎない」ではない。ただ「人間は動物である」である。
 丸山氏にはまっていたころには、言葉というのはまったく恣意的なものと思いこんでいた。ある果実を「りんご」と呼ぶか「アップル」と呼ぶかはまったく恣意的、それどころか「りんご」と「梨」をわけるのも恣意的、そもそも果物と野菜をわけるのも恣意的、虹を七色とみるか、3色とみるかも恣意的・・・なにもかも恣意的で、対象を言葉でわける(言分ける)ことに一切根拠はない。そういう何ら根拠のないものに徹底的にとらわれている点で、人間は狂っているというような話だった。
 しかし、そう主張する丸山氏はとても嬉しそうで、それをみて、なにも病気を自慢することはないではないか? 健康になる努力をしろよ!と思うようになったのも事実である。
 後年、脳科学を少し勉強してみるようになると、言語が恣意的であるという主張自体に問題があることがだんだんわかってきた。脳のなかには顔を認識する部分があるらしい。顔というのはわれわれが恣意的に言語によって「言分け」したものではないようなのである。わたくしが言語の恣意性の極致であると思いこんでいた数の概念についても、それに対応する数直線のようなものがちゃんと脳のなかにあるらしいことも知った。1、2、3といったものは外界には存在せず、われわれが外界を認識するためにつくりあげてだけの概念であり、対応する実体はないと思いこんでいたのであるが。
 チョムスキー言語学のことを知ったのは、ソシュールよりもずっと後だったが、ただもう驚いたものだった。ありえない説だと思い、この人、進化論を知っているのだろうかとも思った。そう思ったのだから、少しは進化論を勉強した後だったのだろうと思う。どう考えてもチョムスキーの説では人間の脳のなかに文法の基礎が出生時にすでに組み込まれていることになる。しかし、そういうものがあるんだ!、とただいわれても困る。それを説明するものがほしい、というのでラマチャンドランがその役を買ってでているのだろうが、現在われわれが知っていることはあまりにもまだ乏しく、当然、そこで提示される仮説もとても説得的とはいえないものにとどまっている。
 いまのところこの本から感じとれるところは、ラマチャンドランの信念である「人間は決して単なる動物にすぎないのではなく、他の動物とはレベルを異にする「天使」のような?動物である(邦訳題名は原著の題名とはなれているのだが)」という見解と、霊長類の脳で急速に発達してきて人間で目立つ(といっても人間での実験はほとんど不可能であるので、類推からそうされているのだと思うが)ミラー・ニューロンをなんとか結びつけられないかというラマチャンドランの情熱というか執念のようなものである。
 それで、美と芸術を論じる7・8章は飛ばすことにして、最後の第9章「魂をもつ類人猿」(魂である・・)だけ最後にみてみようかと思ったのだが、どうもここも面白くないので、ラマチャンドランのこの本についての感想は、ここでいったん打ち切ることにする。
 

脳のなかの天使

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心の発生と進化―チンパンジー、赤ちゃん、ヒト

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利己的な遺伝子 <増補新装版>

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ものぐさ精神分析 (中公文庫)

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