東谷暁「経済学者の栄光と敗北」(1)ケインズ

    朝日新書 2013年4月
 
 株が暴落したようである。わたくしは株に関心がないのでそれ自体はどうでもいいのだが(などと書くところがすでに経済学をわかっていないことを露呈しているのだと思うのだが)、医療も社会のなかの一つの制度としてあるので、今回の事態だって医療の行く末にもいろいろとかかわってくるのだろうと思う。
 生来の経済音痴でかつてはインフレとデフレの区別さえわかっていなかったくらいだが、さすがに馬齢を重ねるうちに、そのどちらも経験することになったので、その違いくらいは分かるようにはなった。そんな状態ではまずいという思いはあって、大学にはいって以来、時々、経済学の勉強をしてみようと思うのだが、結局、何も身につかないままできた。経済音痴のまま一生を終わるのだろうと思う。
 それで過去のことを少し考えてみると、わたくしが大学にはいってころには、経済学というのはマルクス経済学のことをいったのではないかと思う。東大などでも経済学の教授の過半はマルクス経済学者だったのではないだろうか? 今われわれが経済学とよんでいるものは、そのころには近代経済学(近経)などとよばれて(ひとによってはブルジョア経済学などともいっていたかもしれない)、そんなものを学んでいる人間は資本主義体制の延命に手を貸す大悪人で、革命の暁には、絞首台におくられる運命だと思われていたのではないかと思う。大恐慌などというのは、資本主義の断末魔なのであって、もしもケインズが余計なことをして、それの延命を助けたのであれば、悪魔の所業というべきものなのである。もしもマルクス経済学が今も生きていたら、リーマン・ショックなどというのも資本主義崩壊を告げる鐘の音とされたかもしれないし、今度の株の暴落だって、これこそが、資本主義の終わりの始まりなどというひとの5人や10人はできてたかもしれない。
 そのころマルクス経済学を学んでいた人たちは、どこへいってしまったのだろうか? そのころ書かれたであろう膨大な量の教科書などはまだ図書館のどこかにはあるのだろうか? 剰余価値説というのはどうなってしまったのだろうか?
 わたくしが大学に入ってころには、近代経済学の分野ではもっぱらサミュエルソンの『経済学』であった。わたくしも買ったような気はする。読んだ記憶はあまりない。IS・LM曲線などというのがどうにも駄目なのである。なんだか抽象的で現実とは関係ない話としか思えなくて、身につまされないのである。別に抽象的なことが嫌いというわけではなくて、わからないながらも数学基礎論の概説書などを読むのは好きで、カントールの無限の濃度だとか、対角線論法などというのは無茶苦茶面白い。こういうのはいいのだが、数学を駆使した経済学というのは現実とは関係ない別の構築物だという気がしてしまう。
 本書はケインズ以降の近経?の経済学者14人をとりあげたものであるが、新書で14人もの学者の学説を精緻に検討するなどということは土台無理なので、それぞれの学者の人生などのエピソードを交えながら語るというスタイルをとっている。
 まずケインズ
 いったん東谷氏の本を離れて、竹内靖雄氏の「経済思想の巨人たち」からケインズの項を見てみる。ケインズマルクスが死んだ年に生まれているが、マルクスが宗教家であるなら、ケインズは医者である。マルクスは資本主義が不治の病にかかっていることを宣言し、早々と死亡宣告を書いてしまったが、ケインズは資本主義の病気を診断し、治療法を示して、十分に生き延びることができると保証したのだ、と。
 そしてもう一つ、ケインズは有能な実務家であり、実際には決して行動的な革命家ではなく生きた社会とのつきあいのない亡命者で「書物の中で生きた」独学者であったマルクスと、その点でも対照的である、と。今日の経済学者の多くが、経済学についての学を仕事とする「『経済学』学者」で、現実の社会をよくするためではなく、学会内部で認めらることを目標としているのに対して、ケインズは本当の経済学者であり、役に立つ本当の経済学を提示したのであるという。
 竹内氏の本によれば、古典派の経済学においては、貨幣は交換手段であり、貨幣供給量を増やすと物価の上昇をもたらすだけ(貨幣数量説)としたのに対して、ケインズは投機的動機による貨幣需要があることを知ってい。それはケインズが現実に投機もおこなう人間であり、象牙の塔のなかの学者ではなかったからである。とはいっても、ケインズには資本主義のメンタリティへの嫌悪もあったのだという。「たかが金儲け」ではないか、自分の利益を追求するのは当然であるとして、金儲けしか考えない人間は尊敬に値しないとしたのだ、と。
 次に、松原隆一郎氏の「経済学の名著30」によれば、ケインズの「一般理論」は、ミルやマーシャルなどの新古典派の中心にいたワルラスの経済理論を批判するもので、新古典派の理論は、ある特定の状況でしか成り立たない「特殊理論」なのであり、自分のものこそがもっと一般的になりたつ「一般理論」であることを言おうとしたものであるとされている。しかし、そうではあっても、経済学は多くの場合、時点時点で斉一的でない現象をあつかうので、その点で、時空を超越してなりたつ現象をあつあう自然科学とは異なるのだとした、と。
 そこでまずケインズはその当時であった20世紀前半のイギリス社会を観察し、制度や心理のモデル化をおこなったのだという。さてそこでいわれるのは《未来は不確実》ということである。ヨーロッパで戦争がおきる見込み、20年後の貨幣の価値、利子、ある発明がすたれてしまうかどうか、未来における社会組織のなかでの個人的な富の所有者の地位、といったものは『不確実』である。
 松原氏の本での説明によれば、資産のなかで、もっとも流動性の高い資産は貨幣である。もしも商品や資産が売れにくいと誰でもが感じるような状況(不況)が生じるならば、すべてのひとが貨幣を持とうとする(流動性の罠)。資産価値が下がると思えば、ひとはそれを売って貨幣にしようとする(流動性選好) 株式投資は未来の時点での会社の業績の予測に依存するが、それは自分がどう思うかではなく、他の投資家がどう思うかが重要であるので、「市場の心理の予測」であり「他の投資家を出し抜くゲーム」となる。将来が「楽観」されるならば、すなわち社会心理が上向きであるならば、インフレになり、時にバブルとなる。将来への不安が高まると、デフレや金融危機が生じる。とすれば景気循環の真相は実質的なものではなく、不確実性のもとでの社会心理の揺れなのである。
 とすると、最近の株価高騰は将来の楽観が(日銀の誘導によって?)生じたためであり、今回の暴落?は「他の投資家を出し抜」こうと思った一部のひとの行動によるのだろうか?(コンピュータに組み込まれた指標によって売ったり買ったりしているという話もあるから、もはや心理ですらないのかもしれない。しかし、コンピュータに指標を入力するのは人間かと思うので、入力する人間は社会心理を読んでいるのだろうが・・)
 ビブンというひとの「誰がケインズを殺したか」(これは1989年に書かれ、1990年に翻訳が刊行されている)によると、ルーカス(東谷氏の本でも後からでてくる)が1970年代の後半に「ケインズの死」ということをいっているのだそうである。ビブンによれば、戦後の30年は「ケインズ経済学」といっていいようなコンセンサスが世界で共有されたが、1970年代には、それが破綻してしまった。したがって、ノーベル経済学賞を受賞した二人の経済学者が、一つの問題について、大統領に正反対の助言をするようなことが実際におきる。ビブンによれば、ケインズの見解は基本的に短期を対象にしたもので、長期的な経済成長の問題などにはほとんど言及していないだそうである。
 さて、ようやく東谷氏の本に戻るが、戦後のアメリカの経済学は、ケインズ経済学によって、不景気になりかけると財政出動によって景気を回復させた。60年代にはそれらの政策は「ニュー・エコノミックス」と呼ばれた。しかし、ケインズの偉光は60年代後半には翳りをみせ、70年代になると経済停滞の原因とされるようになり、80年代には反ケインズ経済学が完全な勝利を収めた。ケインズ失墜の最大の原因は不況のなかでのインフレ(スタグフレーション)であった。ケインズが提唱した「乗数理論」は当初10倍などともいわれたが、実際には1.0台であることも明らかになってきた。M・フリードマン(後ででてくる)はケインズの「消費性向」の考えを批判した。ブキャナンは、ケインズのエリートによる政策決定への志向を「ハーヴェイロードの前提」と呼んで批判した。1980年代のサッチャーレーガン政権の経済政策は、ケインズ政策の死亡通知となった。マネタリズムサプライサイド経済学によって長い好況が招来されたようにみえ、ケインズ経済学は過去のものとなったようにみえた。しかし、2007年のサブプライム問題の顕在化と2008年9月のリーマン・ショックによってアメリカ経済が危機に陥ると、ケインズはふたたび蘇りつつあるように見える。
 ということで、少なくとも20世紀以降の経済学の歴史はケインズをめぐって展開してきていることは間違いないので、まずケインズの再検討から本書をはじめることにするという。
 まず、伝記的部分。ケインズは神童でエリートであった。ケンブリッジ大学使徒会に属し、ブルームズ・グループの一員であった。使徒会を指導していたのは、倫理学者のムア、哲学者ラッセル、歴史家リットン・ストレイチーなどであり、ムアの1903年に出版された「倫理学原理」がこのグループに決定的に影響をあたえていた。「倫理学原理」は功利主義を徹底的に批判しようとするものであった。19世紀英国の経済学はベンサム功利主義を前提としていた。ムアはあることが何かに役立つから「善」なのではなく、「善はただ善なのである」とした。ケインズもまた「倫理学原理」の虜になった。英国ヴィクトリア朝の偽善こそが、彼らグループの共通の敵だったのである。
 ケインズは同性愛の傾向を持つ者であった。それがヴィクトリア朝的偽善への反発のどの程度の要因となったかは明らかでないと東谷氏はしているが、シュンペーターケインズ経済学を「子供のいないビジョン」としたことは紹介している。子供がいないので、その生の哲学は本質的に短期の哲学だった、というのである。
 ブルームズ・グループはヴァージニア・ウルフ姉妹を中心にした文化人グループであるが、「平和主義と男女関係の乱脈ぶりで知られた」のだそうである。ケインズはこのグループの中では異質の官僚で学者であり、芸術家ではなかったので異端ではあったが、その投資の才をもって彼ら仲間の資産を何倍にもした。ケインズは死んだ時に現在の日本円にして20億円ほどの財産を有していたが、その大部分は投資と投機によるものだったのだそうである。
 同性愛傾向をもつものではあったが、ロシアのバレリーナと結婚している。正式の結婚は1925年(相手の離婚がてこずったため)。
 ケインズは1919年に刊行した「講和の経済的帰結」で世に知られるようになった。1930年には「貨幣論」を出している。また1921年には「確率論」があるが、これはムアの「倫理学」のなかでの同意できなかった部分、「われわれの因果的知識は、あまりに不完全なので、因果関係を見切った上で行動することはわれわれにはできない。したがって行動については、一般にみとめられ、実行されている規則の大部分にしたがうべきである」への反論として書かれたものなのだという。東谷氏の本に引用されている松原隆一郎氏の指摘によれば、将来が合理的に予見できるので革命を正当化しうるとする共産主義の合理主義と、将来の不確実性ゆえに過去の規則を踏襲するだけの保守主義の反動主義の中間としてバークの自由主義ケインズは位置づけている。ケインズは長期的な方向についてもある程度、確率論で予見できると考えたのである、と。しかし、それは若いラムジーによって根源的な批判を受けた。東谷氏は、ケインズが確立論で想定していたのはケンブリッジのエリート達なのであり、それが問題だったとしている。
 ケインズの「一般理論」は、不況期という「確信の危機」の時代を念頭に書かれたものであり、「確率論」の問題意識の延長線上にある。「確信」こそがケインズ経済学の中心の問題となった。ケインズは確信の崩壊の時代に生きた人間だった。
 「一般理論」がわかりにくいのは、総需要を決めるさまざまな要素が、人間の心理や期待から成り立っているからである、と東谷氏はいう。しかしケインズの理論はヒックスによって「IS・LM曲線」として数学的に表現されるようになり、それがアメリカに普及していったのだが、数学的曲線にはどこにも人間の心理は期待が入り込み余地はなかった。 
 本書においても、ここでとりあげたそのほかの本においても、ケインズがエリートであったことが常に指摘されている。「ハーヴェイロードの前提」である。少数のエリートが経済を運営するほうがうまくいくという話である。これはどう考えても民主主義に反する話であるが、わたくしには中央銀行制度というのも、そういう制度であるとしか思えない。そしてかつて社会主義圏でおこなわれていた計画経済というのも、エリートが経済を指導するというものであったのだと思う。そういうものは駄目で市場経済体制のほうが効率がいいというのが現在のコンセンサスであるように思うのだが、社会主義圏の官僚がまともでなかったのでそうなってしまったのだろうか?
 小室直樹氏の「日本人のための経済原論」(1998年刊行)で、小室氏は「かっての大蔵官僚は、世論の迎合しない、強い批判を浴びても、これは大事と思ったことは逃げないで頑張りとおす」存在であった。そして、国民も「蒙昧な世論に迎合する政治家なんかあてにできないが、役人がしっかりしているから大丈夫だ」と思っていた。「大蔵官僚こそ真のエリートであった。エリート亡ぶ国は滅びる」と。「バカな民主主義を大蔵キャリアがカバーして間違いなく導く」と1996年ごろまでは、大蔵官僚はこんなことを臆面もなくいっていた。しかし1998年には悄然としてしまった。「基本的にわれわれが苦手な部分は、予測です。」「いくら何でもバブル崩壊ってこんなものだとは思わなかった。大蔵官僚から見ても想像もつかなかったことです。」(テリー伊藤「お笑い大蔵省極秘情報」) 「大蔵官僚が本音として一番困っているのは、デフレの経験者がいないことなんですよ。デフレが起こり得るって考えたことが一度もない。経験したことがないどころか、想像したこともない。世界に冠たる東京大学であっても、デフレを研究している経済学者なんて聞いたことがない」(テリー伊藤「大蔵官僚の復讐」)
 大蔵官僚というのは勉強するひとではあっても、創造的研究をするひとではないようだが、かつては優者の義務(ノブレス・オブリージュ)の意識、小室氏のいう「天下の志」をもっていた。
 竹内氏はケインズを動かしたものも「ノブレス・オブリージュ」の意識だったのだとする。「自分のような優れた人間は世の中のために貢献するのが当然だ」と思っていたと。しかし、それがケインズのようなエリートにまかせれば経済はうまくいくという、日本の言い方での「霞ヶ関の前提」「東大出身者の世界観」「エコノミストを名医のように見る考え方」につながっていったが、それは崩壊してきているのだ、と。ケインズは「孫たちにとっての経済的可能性」で2030年までには、経済的問題は解決されてしまうか、解決の方向がみえてきているだろうという、まことに楽観的な予想をしている。ケインズがいかに優れた人間であったとしても、先を見通すことはできなかったわけで、われわれはすべて何かがおきた後ではじめてわかる人間なのだと。だから、もしケインズが今に生き返ったとすれば、ケインズ経済学とはまったく別の処方箋を新たに提出するのではないかといっている。
 ビブンの本によれば、ケインズ共産主義の教義にまったく関心を示さなかったのも、そのエリート意識によるのだ、とする。粗野なプロレタリアートに何が期待できるだろうか? また政府部門の役割を評価したが、強力な政府を求める国有化論にも与しなかった。政府が知的エリートによって運営されることを期待しただけである。
 
 いろいろ回り道をしているうちに、長くなってしまったので、ケインズの項も、稿をあらためてもう少し続ける。
 
 ほとんど忘れていたが、ビブンの「誰がケインズを殺したか」については、ここで以前、感想を書いていた。id:jmiyaza:20020227
 

経済思想の巨人たち (新潮選書)

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経済学の名著30 (ちくま新書)

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日本人のための経済原論

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お笑い大蔵省極秘情報

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