東谷暁「経済学者の栄光と敗北」(2) ケインズ(2)

 
 この東谷氏の本は、それぞれの経済学者の学説を伝記的なエピソードもからめてみていこうとするものなので、ケインズの場合も、その「若き日の信条」などに描かれたアウトサイダー的なケインズ像と、後年英国のために粉骨砕身して献身するケインズ像との違いを東谷氏は問題とする。
 「若き日の信条」で回想されるのは、1938年9月のD・H・ロレンスを招いての朝食会でのエピソードである。ブルームズベリー・グループの会にロレンスを招いたのである。その会で見聞きしたことにより、ロレンスはケインズたちを油虫のようだといって蛇蝎のように嫌悪するようになった。このエピソードを最初に知ったのは、ここでもすでに何回か書いていると思うが、清水幾太郎氏の「倫理学ノート」を読んだときであった。この挿話に大いに興味を抱いたのは、わたくしのまったく個人的な背景からである。
 わたくしが最初に傾倒した文学者は福田恆存氏であり、その福田氏の担ぐ神輿がD・H・ロレンスであったことはいうまでもない。一方、現在のわたくしの神輿は吉田健一であり、吉田氏は若き日にケンブリッジに留学して、そこでの体験から決定的な影響を受けている。氏の「交遊録」に挙げられているディッキンソンとルカスはともにケンブリッジの人間であるが、ディッキンソンの友人がフォースターであって、かれらもまたブルームズベリー・グループの近くにいたのである。長谷川郁夫氏が「新潮」に連載している「吉田健一」では、デッィキンソンは「使徒会」の一員でブルームズベリー・グループとも親交を結んだとある。ルカスも「使徒会」の一員で、ブルームズベリー・グループに近い明晰な文体をもったとされている。
 しかし、ディッィソンもルカスも、われわれがブルームズベリー・グループに感じる傍若無人な知的エリートという印象をあたえるひとたちではない。そうはいっても、吉田氏はブルームズベリーの人たちに多くを負っている。「吉田健一の種本は、小説ではウッドハウス、批評ではリットン・ステレイチー」といったのは篠田一士氏だったと思うが、「ヨオロツパの世紀末」にでてくるエピソードのいくつかが、ストレイチーの「てのひらの肖像画」のヒュームやギボン、メアリー・ベリーなどの章にあるのを読んで、なるほどと思った。
 吉田氏の「ヨオロツパの世紀末」は、ヨーロッパの文明の頂点は18世紀にあって、明治期に日本が接した19世紀ヨーロッパは野蛮な堕落したヨーロッパだったのだということをいったものだが、最初に読んだ時、何と斬新な視点なのであろうかとびっくりしたものだった。しかし、ストレイチーの皮肉な「ヴィクトリア朝偉人伝」などを読むと、このような視点はブルームズベリー・グループの人たちには共通のものだったと思われるので、若き吉田健一ケンブリッジでじかにそういうことは見聞きしたのだろうと思う。そして、D・H・ロレンスが反発したのも、まさにヴィクトリア朝的な偽善についてであるから、同じものを敵とするものたちのあいだでの反発というのがなぜ生じるのだろうと考えたわけである。
 おそらく、知的エリートであるブルームズベリーの人たちから見ると、ヴィクトリア朝的偽善は知性の欠如からくる。一方、「血と肉体」を信仰するロレンスから見ると、ヴィクトリア朝的偽善は肉体の欠如からくる。ロレンスから見れば、ブルームズベリー・グループの面々もまた頭脳の人、知性の人であって心情(真情)を欠くのである。「彼らは、とめどなく、全くとめどなく話しますが、何一つ善いことは言いません。彼らは、自分自身の小さな殻に閉じこもっていて、そこから喋っているのです。一瞬の感情の発露もなければ、一片一粒の敬虔な気持ちもありません。」(清水幾太郎倫理学ノート」)
 竹内靖雄氏の「経済思想の巨人たち」に、彼らグループのやったいたずらとして「ドレッドノート艦のいたづら事件」が紹介されている。「ヴァージニア・ウルフなど何人かが共謀して、エチオピア皇帝一行になりすまし、イギリスでもっとも警戒厳重な戦艦の一つに栄誉礼をもって迎えられて乗り込み、見学し、歓待を受けて、最後まで正体を見破られることなく、悠々と退去したという事件」なのだそうである。「こういう自由奔放さ、傍若無人さ、自分たちには何でもできるのだというエリートの自負、これはケインズ自身も共有しているものである」と竹内氏はいう。
 経済というのが数学的に定量的に理解可能、解明可能、操作可能なものであるのかということは、東谷氏のこの本の一番根底にある問いであるのだろうと思う。ケインズは、人々の「心理」に経済は決定的に影響されることを説いたのであるが、それにもかかわらず、ヒックス以降のケインズ経済学の数学化の過程で、それが抜け落ちていってしまったというのが東谷氏の問題意識であろう。
 ケインズはその卓越した知性によって、経済がひとびとの「心理」というきわめて不確実なものによって大きく動かされることを指摘したにもかかわらず、(ケインズより知性の劣る?)後世の経済学者たちが、「科学」としての経済学によって、頭脳と理性による学問的なやりかたで経済が操作できると考えたことを、東谷氏は問題としているように読める。
 ケインズはなぜイギリスのために献身したのだろう。貧しいひとなど知ったことではないしどうなっても構わないという立場もあるわけで、ブルームズベリー・グループの多くはそうだったように思える。なぜケインズがイギリスの運命などということを気にかけ、英国のために尽くしたのかは、決して自明ではない。竹内氏はケインズを動かしたものも「ノブレス・オブリージュ」の意識だったのだとする。「自分のような優れた人間は世の中のために貢献するのが当然だ」と思っていたと。しかし、ストレイチーなどはそう思ってはいなかったはずで、だからブルームズベリー・グループのなかでも、ケインズは実業の側にいる人間として、やや異質のひととして扱われていたようである。
 若き日のケインズたちをふくむブルームズベリー・グループの人たちは、ロレンスから見れば《シニック》という病にかかっているように見えたのであろう。清水氏は「ブルームズベリー・グループの人々は「合理主義およびシニシズムの絶頂に立っていた」という。彼らはヴィクトリア朝時代を軽蔑していたにもかかわらず、インテリの両親の身分と資産というヴィクトリア時代の遺産の上に生きていたと「倫理学ノート」では書かれている。身分、富、才能、学問、文化は彼らには当然の前提であった。一方、ロレンスは炭鉱夫の息子であり、貧しい身分の生まれである。
 ブルームズベリーの人たちの当時のバイブルはムアの「倫理学原理」であった。(少なくとも、清水氏の「倫理学ノート」に紹介されているのを読む限り)清水氏が「この面白くもなく、役にも立たぬ学説」というのにまったく同感で、なんでケインズとかストレイチーらが、これに大感激したのか、まったく理解できない。それは「何一つ証拠らしいものを挙げずに、単純な断定を限りない連鎖のように叙述した著作」である。「『善とは何か』と聞かれるなら、善は善であるというのが私の解答で、これで問題は終りである。また、『善はいかに定義されるか』と聞かれるなら、善は定義することが出来ない、というのが私の解答で、これで私の言うべきことは終わりである。」「人間の交際の快楽および美しいものの享受・・。人間の愛情と芸術や自然における美の鑑賞とが、それ自体において善であることを・・・疑ったものはないであろう。・・人間の愛情と美的享受とは、私たちが考え得る最大の、真に最大の善のすべてを含んでいる。」 ロレンスが「いいとこの坊ちゃん、嬢ちゃんが何を言ってやがる」と反発するのは当然である。そこは「善」だけがある世界であり、「悪」のない、実に「静的」な世界なのである。ダイナミックなものが何もない。
 さて、ここで話は急に変なほうに飛ぶ。最近、思うところがあって、村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読み返した(ついでに「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」も読み返した。) 思うところというのは、このブルームズベリー・グループをめぐる問題が、村上春樹いうところの「デアタッチメント」と「コミットメント」の問題とどこかで関係しているのではないかということである。「羊をめぐる冒険」は氏の長編第3作であるが、その前の2作「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」は習作であるとして、翻訳を許可していないらしい。この3作はワンセットになっていて、主人公も副主人公も同じであるが、明らかに「羊・・」はそれまでの2作とは肌触りが異なったものとなっている。
 「村上春樹河合隼雄に会いにいく」で、村上氏はのっけから「日本にいるあいだは、ものすごく個人になりたい、要するに、いろいろな社会とかグループとか団体とか規制とか、そういうものからほんとに逃げて逃げて逃げまくりたいと考えて、大学を出ても会社にも勤めないし、独りでものを書いて生きてきて、文壇みたいなところもやはりしんどくて、結局ただ、ひとりで小説を書いてきました」という(この対談は1995年)。村上「あのころ(68年から69年の政治の季節)は、ぼくらの世代にとってはコミットメントの時代だったんですよね。ところが、それがたたきつぶされるべくしてたたきつぶされて、それから一瞬のうちにデタッチメントに行ってしまうのですね。」 河合「日本の場合は、どうしてもコミットしだすと、みんなベタベタになるというところがあるのです。一丸になってしまうという。」 村上「なぜ小説を書きはじめたかというと、・・いま思えば、それはやはり一種の自己治療のステップだったのだと思うのです。・・それが結果的に、文章としてはアフォリズムというか、デタッチメントというか・・。でも、ぼくは小説家としてやっていくためにはそれだけでは足りないということは、よくわかっていたのです。それで、そのデタッチメント、アフォリズムの部分を、だんだん「物語」に置き換えていったのです。その最初の作品が『羊をめぐる冒険』という長編です。」
 自己治療のためだけに書いた作品は、やせたものとなってしまう(すでに第2作の「ピンビールで自己模倣が始まっている。このままいったら袋小路であることは明白である)。村上氏に治療効果を持つ小説であれば、村上氏と同じ病理をもつ読者にも治療効果を持つ可能性はある。しかし、それは《同病相憐れむ》である。自分と同じ感受性をもつもの同士の共同体がそこにできるのかもしれないが、そして従来からの文学作品というのは多くはそのようなものだったのかもしれないが、村上氏はそれではまずいと思ったわけである。
 「羊をめぐる冒険」は荒唐無稽というもおろかというような筋書きで、日本政治を裏であやつる「先生」だとか、「羊博士」だとか「羊男」だとか、よくまあこんな変なことを考え出したというような物語である。通常、SFなどでは作者の設定した舞台装置を受け入れることを読者は要請されて、それが駄目なひとは読むのをやめるだけである。しかし、「羊・・」では、その荒唐無稽な話のディテイルを村上氏は懸命な努力で埋めていこうとしている。一二滝町の歴史や地誌などの綿密な描写は氏の筆力を物語るものであり、どうしても読者に伝えたいことがあるという熱がそこから伝わってくる。つまり、「風の歌・・」や「・・ピンボール」よりも「羊・・」のほうが面白い。作品を公共のものたらしめようという意思が作品を強くしている。(そして、わたくしが感じるのは、「1Q84」book3以降、氏の書くものが、ふたたび同病のためのものに回帰しつつあって、公共性が失われようとしているのではないかというようなことである。)
 東谷氏の本に戻ると、ムアの「倫理学原理」というのはブルームズベリー・グループという仲間たちへのメッセージであった。一方、ロレンスの思想はもっと根源的で普遍的なものであった。「倫理学原理」は1903年に刊行されている。
 ケインズをムアの「倫理学原理」のひとからイギリスに献身するひとに変えたのは、第一次世界大戦の経験だったのでないだろうか? ヨーロッパは第一次対戦で、近代が終わり、現代へと移行した。しかし、日本は第一次世界大戦をほとんど無傷でやり過ごしたので、近代にとどまり、第二次大戦の敗北によって、現代へと移行した。吉田健一ケンブリッジで「近代」を学び、戦前の日本でそれを培養したが、敗戦によって現代への移行を模索することになったのではないだろうか? とすると、ここで東谷氏がいおうとしていることは、経済学はいまだに近代にとどまり、現代にはまだ対応できていないのではないかということになるのかもしれない。
 松原隆一郎氏の「経済学の名著30」では、スミス、ケインズハイエクの3人が2冊の著書がとりあげられている。ケインズは「一般理論」と「若き日の信条」である。松原氏によれば、1900年ごろのイギリスでは二重規範や偽善が横行していた。それに反発したケインズはムアの「倫理学原理」に不道徳であることの正当化を教えられたのだという。だがムアは将来は不可知であるという理由で、行為を常識的な道徳律や一般規則に服させることを唱えた。この部分にはケインズは反発した。ムアの論は確率についての誤解から生じると考えた。それで執筆したのが「確率論」である。しかし、そのような「若き日の信条」を後年の「一般理論」を書くころおケインズは反省するようになっていた。ケインズは経済学を自然科学とは異なるものとみなすようになっていたのである。
 などと抽象的なことばかり書いていても仕方がないので、もう少し具体的なことをみていく。
  

倫理学ノート (講談社学術文庫)

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交遊録 (講談社文芸文庫)

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ヨオロッパの世紀末 (1970年)

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てのひらの肖像画

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ヴィクトリア朝偉人伝

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経済思想の巨人たち (新潮選書)

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羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

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風の歌を聴け (講談社文庫)

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1973年のピンボール (講談社文庫)

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村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

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経済学の名著30 (ちくま新書)

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