東谷暁「経済学者の栄光と敗北」(4)フリードマン・ベッカー・ボズナー・ルーカス

 
 フリードマン
 ケインズ派の旗色が悪くなったのは1960年代後半からのスタグフレーション(インフレ下での失業の増大)にサミュエルソンたちが何ら有効な処方箋を提示できなかったからである。
 スタグフレーション以前ではインフレ率と失業率はトレード・オフの関係にあり、そのどちらを重視するかは政策的な判断であるとされていた。フリードマンは失業を意図的に下げられるという考え方自体を批判した。自然失業率というものが存在し、それ以下に失業を抑えようとすると失業は減らないのにインフレが悪化するだけであるとした。これが正しければ、ケインズ経済学者がいっていたインフレと失業の調整という政策自体がなりたたなくなる。
 またフリードマンケインズの消費性向という考えにも反対した。統計的データも所得の増加と消費の増加は結びつかない可能性を示唆していた。そうであるなら、ケインズ政策は無効ということになる。
 ここでフリードマンの金銭感覚というエピソードが紹介されている。ポンドの空売りをしようとして、「資本主義の世界では、儲かるときに儲けるのがジェントルマンなのだ」といったというものである。わたくしには投資とか投機というものの感覚がどうしてもわからなくて、労働の対価としての収入ではなく、金銭を右から左に動かすことによって得られる収入(不労所得?)というのには非常な抵抗がある。もちろん「恒産なければ恒心なし」なのであるから、儲けるのはいい。しかし投資とか投機というのは、何となく後ろめたい気持ちで、どことなく恥ずかし気におこなうものであって、胸をはっておこなうものではないという気持ちがどこかにある。そういう気持ちの多くは見栄に由来するのだろうと思うが、見栄というのが文明の基盤であるという思いを捨てられない。武士は食わねど高楊枝である。そういう感覚を持つひとは世捨て人であり血気を欠く人間なのだろうなあと思うが、いかんともしがたい。最近の言葉では草食系なのかもしれない。とにかくそういう人間なので、フリードマンが文明人には見えないのである。紳士にもみえない。そして、後から出てくるベッカーとかボズナーも同じく文明人には見えない。
 ケインズも投資?投機?をして貧乏文化人?であったブルームズベリー・グループを助けたのだでそうである。芸術家気取りのグループのなかでは異色の世俗的な人間であったわけであるが、東谷氏は、一時は財務省の役人であったケインズの投資?投機?は今ならインサイダー取引をいわれかねないものであったろうといっている。ケインズは投資・投機により死ぬときは現在の日本円に換算すると20億円ほどの資産を有してしたのだそうである。しかしケインズは儲けられるときには儲けるのが紳士であるなどとはいわなかったであろうと思う。武士であっても貧すれば鈍するのであるから、必要悪として投資もするというような感覚だったのではないだろうか? 竹内靖雄氏はケインズには資本主義的メンタリティに対する嫌悪感があった、という。たかが金儲けではないか。自分の利益を追求するのは当たり前として、それしか考えない人間というのは尊敬するに足りる人間ではないし、自分の同類と見なすに値しない人間である、というのがケインズのホンネではなかったかといっている。
 さて、フリードマンの主張は大恐慌がなぜ起きたかという問題と深くかかわっているらしい。フリードマンによれば、FRBが恐慌にさいしマネーサプライを減らしたことが、本来はそれほどの規模でもなかった不況を大恐慌にしてしまった。その主張がマネタリズムにむすびつくのであるが、東谷氏によれば、マネタリズムをふくむフリードマンがした提言の多くはうまくいっていない。逆に、フリードマンがもらたした最大のものは「賭博場と化した金融市場」なのだという。
 
 ベッカー&ボズナー
 ベッカーの名前を初めて知ったのは竹内靖雄氏の本によってであったと思う。ボズナーの名前はベッカーと二人で物議をかもすブログを書いてる法律家ということで知った。
 竹内氏の本を最初に読んだのは「経済倫理学のすすめ」だったと思うが、これは後から思うとベッカー路線そのものである。それにもかかわらず、竹内氏の本の読後感が爽やかであるのに、ベッカーの本の印象はきわめていやな感じである。何故なのだろう。
 確か「経済倫理学のすすめ」の副題は「感情から勘定へ」であったと思う。あることがいいか悪いか侃々諤々、額に青筋をたてて議論しているところに、まあまあと割って入って、みなさんの気持ちはわかりますが、感情的になるといつまでも解決がつきませんから、損得におきかえて、損がないようにする方向を考えたほうがいいのではないですか?、といっている感じで、決して、経済で考えることが最善であるとはいわないが、本当の解決がない問題については次善の策として、損得に判断に持ち込むという方向を提案している印象が強かった。
 人間というのは複雑で度し難い存在であって、強欲で浅薄、愚かなのに自信過剰、だからせめて損得という数字化できるところに落とし込まないかぎり、平行線の空漠な議論が続くだけという諦念のようなものが根底にあると思う。ところがベッカーもボズナーも様々な問題に対する最良の回答が経済学から得られると思っているように見えてしまう(竹内氏はそうではないといっているが)。わたくしから見ると愚かだなあと感じられて仕方がない。
 それに対して竹内氏は大教養人で、その読書範囲はわたくしの何百倍何千倍ありそうである。人間にとって本当に大事な問題には永遠に解決がないということは百も承知で、経済学というとても真の科学とはいえない学問でも、使いかたによっては暫定的な提言くらいはできるのでだという姿勢にみえる。
 竹内氏は確信的なリバタリアンであり、公文俊平氏によれば、日本にはまれな強い個人、本当の自由人ということになる。シカゴ学派というのはリバタリアニズムに親和を持つように思うので、その方面のひとに竹内氏は少し甘いように感じられる。
 
 ルーカス
 このひとはよく知らない。「合理的期待形成」という考えで多くの信者をもつ人らしい。その理論によれば「すべての経済政策は無効である」ということになるらしい。読んでいておもしろかったのが宇沢弘文氏の回想で、「一人の女性の研究者が、ルーカスの論文を、全部暗記していて、議論するごとに、その論文の何ページに、こういう文章があるといって、眼をつぶって、あたかもコーランを暗唱するかのような調子で唱え出す光景は異様であった」というのである。向坂逸郎氏などはマルクスの著作をこんなふうに唱えるひとだったのではないかという気がする。
 ルーカスはフリードマン、ベッカー、ボズナーなどとはまったく印象が異なるひとである。ヒュームがいう物事を深淵に考えすぎて真理を通りこしてしまうひとであるように思う。読んでいるときはもっとも思うが、読み終わって周囲を見回したとたんに絵空事と思えてくるような説を主張したひとなのではないだろうか?
 
 松原隆一郎氏の「経済学の名著30」ではフリードマンの「資本主義と自由」がとりあげられている。松原氏によれば1980年代以降、世界の経済運営は新自由主義支配下にあった。本書はその新自由主義聖典なのだそうである。フリードマンハイエクの深さには遠くおよばないのだが、それにもかかわらず本書が大きな影響力をもったのは、その知的な「単純さ」にあるのだと松原氏はいう。
 フリードマンによれば、18世紀のスミス以降、自由主義は順調に進展してきたのだが、1930年代の大恐慌により資本主義が不安定なものと思われるようになると、自由主義は市場における個人の自由の制限を指すようになってしまった。「資本主義と自由」でいわれているのは「個人のみから成る国家」「多様性の許容」「他人に迷惑をかけない限りでの個人の自由」といった単純なものなのだそうであるが、そこから引き出される「政府活動の制限」と「政府権力の分散」の主張のほうが重要であったのだと。ケインズ経済学では経済が発展すると、平均消費性向が減少するため、民間投資が減衰するので、それを公共投資で補わなければならないとしていた。しかし、それは間違いであると主張したフリードマンの経済学が20世紀の最後の四半世紀を支配したのだと。
 「知的単純さ」というのは言い得て妙であって、フリードマン、ベッカー、ボズナー、ルーカス、みんな単純なひとだなあ、という気がする。わたくしには経済というのはそんな単純なものとはどうしても思えない。どうもわたくしはハイエクとかドラッカーのように一筋縄ではいかないひとのほうが好きである。そして同時に経済学というのはまだまだ学問とはほど遠い段階にいるのだなあ、ということも感じる。最近の「アベノミックス」云々の動向をみていると、経済界は政府(というお上)の動向に一喜一憂しているようにみえる。フリードマンの時代は終わったのであろうか。しかし現在提言されているのは、規制撤廃とか「新自由主義」路線であるようにもみえる。
 一方で、中央銀行という「見える手」、他方で規制撤廃という「見えざる手」への期待というまったく方向の異なる路線が混在しているように、わたくしのような素人には感じられる。よくわからない。公共投資という方向での「見える手」は否定されたが、貨幣量の調整という「見える手」は有効とまだ考えられているのだろうか?
 わたくしは「個人」というのは西欧が発明したものと思っているので、西欧由来の学問である経済学にもそれが否応なくついてまわるのだろうと考えている。そしてそのことが、経済学をわかりにくくもし、ある意味で学問以前にとどめる原因ともなり、またそこでの議論が感情的になり、それ故に「感情から勘定へ」という冷めた見解もでてくることにもなるのだろうと思う。
 そうだとすると、「個人」というものへの洞察の深さが経済学の奥行きを決めてしまうのかもしれない。わたくしにはフリードマンよりもハイエクのほうがずっと深い洞察をもっているように思える。
 ということで次はハイエク、ポランニー、ドラッカーを論じる「市場経済秩序の社会哲学」を見ていく。
 

経済思想の巨人たち (新潮選書)

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経済学の名著30 (ちくま新書)

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