東谷暁「経済学者の栄光と敗北」(5)ハイエク

 
 ハイエクは「隷従への道」で「われわれは自由というものが一定の価格を払って初めて得られるものであるということ、そして個人としてのわれわれが自由を保持するためには、きびしい物質的犠牲を払う用意をしなければならないということに、目を開くことを虚心に再認識する必要がある」といっているのだそうである。なぜなら、イギリスをはじめとする先進国では、経済の計画化は政治の自由と両立する思われていたから。そして当時の進歩的知識人は計画化が歴史的必然であると考えていたかた。しかし、「きわめて同質的で教条主義的な多数派からなる政府のものでは民主主義が最悪の独裁政治と同様に圧迫的でありうる」のである。
 ハイエクはその思索の根元に西欧文明とは何かという問いをおいた。ハイエクから見ると、経済の計画化は「西欧文明をつくり出した個人主義的な伝統の完全な放棄」であると思われた。ハイエクから見れば、自由主義個人主義こそが西欧の文明なのであり、一方、民主主義とはそのための道具でしかないにもかかわらず、西欧は道具のためにその文明の背骨を放棄しようとしていたのである。
 ハイエクの思索の根幹には「人間の知識の限界」「人間の不完全性」という考えがある。ハイエクケインズを強く批判したが、それにもかかわらず、ハイエクの「隷従への道」をケインズは「偉大な著作」と呼び、「道徳的にも哲学的にも、私自身、あなたの書いていることにすべて同意します」といっているという。そうではあるがしかし、とケインズはいう。「問題はどこに線を引くかを知ること」である、と。「ヨーロッパ文明を成り立たせてきた諸価値を守ることは正しい。しかし、それがどこまでなされるべきかを、いまこそ論じるべきではないのか。たとえば自由と計画はどこまで折り合えるのか、それをあなたは示すべきである」と。そして「その線引きは論理的に突き詰めることは不可能」なのである、と。
 これを読んで、わたくしはちらっと思う。ケインズはエリートである。エリートであるケインズはすでにして自分の足の上に立つひとりの個人である。ヨーロッパの諸価値をまもっていくことは、自分たちエリートの使命である。あるいはケインズのような人間が生きているということがヨーロッパの価値が生きてそこにあるという何よりの証左である。しかし世の中には自由よりも明日のパンをという人もたくさんいる。ヨーロッパの価値などどうでもいい、飢えなければそれでいい、そういういうひとには「計画」なのではないだろうか。自由と計画(あるいは私と公)のあいだの線は一人の人間のなかで何%と何%というように引かれるのではなく、エリートと大衆の間に引かれるのではないか。ここにでてくるのはドストエフスキーの「大審問官」の問題なのではないだろうか?
 閑話休題
 ハイエクは「科学的誤りによる価値の破壊」ということをいう。科学的誤りがわれわれの文明の不可欠の基礎をなしている諸々の価値を排斥するようになっていくのであり、その科学的誤りが壊していってしまうもののなかには科学的努力といったもの(本来は西欧的価値に属するもの)もまたふくまれるのだという。
 ハイエクは法と立法を峻別する。法は(ハイエクの用語による)自生的なものであり、一方、立法は計画的で人工的なもので、しばしば法を破壊する。人間の自由をまもるのは法であり、立法は自由を破壊することもある。
 そしてハイエクは法の究極の形態が市場という秩序なのだとする。ハイエクの市場への見方はフリードマンらとまったく異なる。ハイエクは人間の能力に限界があるからこそ歴史のなかで試行錯誤のなかで育てられてきた市場にわれわれは依拠しなければならないとしているのに対して、フリードマンらは、市場は人間がもつ理性的な能力の精華であると考える。
 さて、そうなると現在進行中のグローバルな市場の形成は自生的なものなのであろうか? それは計画的に先進国から途上国に押しつけられようとしているのではないだろうか? その観点から、市場を自生的なものとみなすハイエクの視点への批判が、最近多くでている。
 ハイエク実証主義を批判する。ここでの実証主義とは、「頭のなかだけで考えたことを尊重する姿勢」をさす。このような「人間が知性によってすべてを判断すべきだとする主張」は、自らを「科学者」であると信じる傲慢な思想である、とハイエクは批判する。ハイエクによれば、ケインズは自らを有能で卓越した科学者であると認ずる傲慢な人間なのである。
 そこで東谷氏が疑問を提出する。それならなぜハイエクフリードマンを批判しなかったのか? フリードマンこそが実証主義者なのではないか? そして後年、ハイエクフリードマンを批判しなかったことを悔いる発言をしているのだそうである。
 
 わたくしはハイエクの著作はほとんど読んでいなくて、知識のかなりは渡部昇一氏の本にあったヒューム論のなかでのハイエクの紹介によっている。渡部氏の論では、ハイエクはヒュームの直系である。ヒュームは人間を愚かなもの、その能力には大きな限界のある存在と考えたが、その思想的な後継者がハイエクであるとしていた。ヒュームは奢侈が、経済を発展させまた社交を通じて文化を発達させ、それにより都市化や国際化が進み、われわれの感覚が洗練されていき、その結果「文明」が生まれてくるとした。
 わたくしの色眼鏡かもしれないが、ケインズは投資をしても投機をしても、それが奢侈を通じて洗練につながるような生き方をしたひとであったように思うのだが、投機をするフリードマンはどうにも文明のひととは思えないのである。洗練とか優雅というようなこと無縁のひとであったとしか思えない。
 そしてこれも色眼鏡かもしれないが、ハイエクも(後から述べる)ポパーもやはり洗練とか優雅とかとはあまり関係がなかったひとであるような気がする。つまり彼らがいう文明は頭のなかでの理解による文明ではあっても、体に染みついた文明ではなかったのではないだろうか?
 若いころ、ハイエクの名前をきくことはあっても、ハイエクを持ち上げているひとの顔ぶれをみると何だかなあと思うひとが多く、ハイエクのことを「まあ反共の人ね」と思っていた。はじめてそれだけのひとではないのかなと思うようになったのは、ポパーの自伝を読んでいて、何カ所もハイエクへの尊敬の念が表明されているところを見てからである。
 ポパーの本で今でも鮮烈に覚えているのは、啓蒙主義についての見方であった。啓蒙主義というのはわれわれは無知で愚かな存在であるから、お互いに、相手の主張を尊重しあいながら、少しでも賢くなっていこうというものであるといっていた。啓蒙主義というのは何でも知っている偉い知識人が無知蒙昧な大衆を教化し先導していこうという路線だと思っていたので本当に驚いた。
 もしもポパーのいうのが本当の啓蒙主義であるのならば、ハイエクもまた啓蒙主義の人である。そして多くの知識人は何でも知っていて、理性と知性でなんでもできると信じているのだから、反=啓蒙のひとということになる。ケインズもまたおのれの知性に絶対の信頼をもつ傲慢のひとであり、反=啓蒙の人である。
 人間の能力には限界があり、知性などいたって頼りないものだという議論が、だから文化と伝統の擁護であるとか、あるいは国柄がどうだとか、という議論につながっていくのもしばしば見る。ハイエクの自生的秩序というのもそういう議論のなかで利用される場合もあるようである。文化とか伝統とかいうひとは全体を個人の上におくという方向を好むらしい。石原慎太郎さんなどの言動にもそれを感じる。個人主義というのが大嫌いな様であるから、リバタリアンなどには虫酸が走るのだろうと思う。
 ハイエクリバタリアンの方向のひととはいえないとは思うが、サッチャー首相などはそう思っていたのかもしれない。戦前のマルクス主義者は転向すると国体思想のほうに走るひとが多かったようである。個人よりも全体という方向では共通のものがあるということかもしれない。
 日本の思想においては「個人」という方向がきわめて微弱であるように感じる。つまり日本での「個人主義」というのは西欧からの輸入品であって血肉化していない。ハイエクは氏が西欧文明の背骨であるとする「個人主義」を擁護しようとするのであるから、実は日本人にはきわめて理解しづらいひとなのかもしれない。
 わたくしは若いころ吉田健一カール・ポパーにいかれて、どうしてこのように肌合いが違うひとにひかれるのだろうということが自分のなかでうまく説明できなかった。そのうちに吉田健一は西欧をずっと深いところで理解した文明開化のひとであると思うようになり、一方、ポパーはもっとも正統的な西欧文明擁護者のひとりであると感じるようになって、ふたりの間の接点が少し見えてきているような気がしている。
 だから、西欧思想の伝統につらなると思えるひとには評価が甘く、そう思えないひとには辛くなる傾向がある。フリードマンは「軽薄な科学のひと」、ハイエクは「深淵な哲学のひと」と思えるのはそういう背景からくるのだろうと思う。
 ポパーは、「われわれ知識人は何千年来となく身の毛もよだつような害悪をなしてきた・・。理念、説教、理論の名のもとでの大虐殺−これがわれわれも仕事、われわれの発明、つまり知識人の発明でした」という。しかし、とポパーはいう。「われわれの客観的な推測知は、いつでもひとりの人間が収得できるところをはるかに超えでている。それゆえいかなる権威も存在しない。」 ケインズフリードマンも「権威」としてふるまっているわけである。かれらの理論は大虐殺こそおこさないかもしれないが、多くのひとの職を奪ったり、困窮に陥れたりする可能性はあるわけである。
 そこでわからないのが、経済というものが人々の気持ちによって大きく左右されるらしいということである。もしも、人々がある人を権威であると信じ、その権威が明るい未来を提示しているのを信じてお金を使い出すことで本当に景気がよくなったりすることがあるとするならば、「権威」への信仰が消失することはマイナスに働くかもしれない。
 実はこんなことを書いていて、頭にあるのは医療の問題である。医者は患者さんから信用されていると治療効果があがる。だとしたら医者を権威のままにしておいたほうが、医療全体のパフォーマンスからいっていいのだろうかということである。
 ポパーはいっている。「知識人にとっての古い命令は、権威たれ、この領域における一切を知れ、というものです。あなたがひとたび権威として承認されたなら、あなたの権威は同僚によって守られるであろうし、またあなたは、もちろん同僚の権威を守らねばならないというのです。/ わたくしが叙述している古い倫理は誤りを犯すことを禁じています。誤りは絶対に許されないことになります。この古い職業倫理が非寛容であることは強調するまでもありません。そして、それはまたいつでも知的に不正直でした。それはとりわけ医学においてそうなのですが、権威を擁護するためにあやまちのもみ消しを招くのです。」
 わたしが臨床の場にでて、最初の日に指導者からいわれたことは、「絶対に他の医者の悪口をいうな。どんなに変なことをしているように見える医者がいても批判するな。そのうちに自分がしていることも、またしばしばおかしいことが自然にわかるようになる。だから同業者を批判するな」ということであった。まさにポパーのいう通りである。
 しかし時代は変わった。現在の医療は誰でも間違えるという前提でおこなわれることになった。間違えるのは当然、ミスがおきるのは当然、医療事故がおきるのは当然であるが、それを少しでも減らしていくための努力をしようではないかという方向へ、である。医療事故を論じる本のタイトルが「To err is human」である。これは誰か詩人(ポープ?)の言葉らしいが、「間違えるのは人の常、それを許すのが神の仕事」といった言葉の一部らしい。
 しかし、手術がおわって、医者がでてきて、「すみません。ミスしました。でも、ぼくも人間だから、ときどきミスするのは仕方がないですよね」などといったら、家族は許さないだろうと思う。人間は神ではないのだから許せないのである。それで以前は「手術してみたら想像していた以上に病気が進行していました。なんとかがんばって手術しましたが、患者さんの体力からいって予断を許さない状況です」などと隠蔽にはしった。
 医者のがわの大義名分は、おれも人間だからミスは仕方がない。しかし、ミスといったら家族が納得しないであろう。だから、家族の気持ち、あるいは患者本人の気持ちを忖度して、これは病状からいってやむをえないことだったことにしておこう。これは自分を守るためではなく、家族の心情に配慮してなのだ、というものである。もちろん、嘘なのであるが、その嘘がでてくるのは医療の場においては失敗はないという神話があるからで、これは必ずしも医者の権威をまもるためではなく(それが非常に大きいのだが)、医療の場というのが、そのような虚構がなくなると、なんだかぎくしゃくしてきて今までうまく機能していたこともしなくなるということもあるという側面も、一部にはあっただろうと思う。
 患者さんの側にも権威への信仰、依存、期待が歴然とあることは、名医であるとか神の手であるとかへの期待がくりかえしマスコミにでることからもわかる。医者が白衣を着て、聴診器を持っているのは、医者であるというデモの機能がほとんどなので、聴診器でわかることなどがそれほど多くあるわけではない。まったく同じことを白衣と聴診器の人間とTシャツにGパンのひとがしていたとしたら、Gパン青年よりも白衣のおじいさんの方が信用されるかもしれない。
 しかし、話がそれたので、次は、ポランニーとドラッカーに。
 

果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

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よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

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ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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