P・C・ディヴィス「ブラックホールと宇宙の崩壊」

    岩波現代選書 NS 1983年
 
 この本を取り上げるのは二度目。今回これを思い出したのは、雑誌「考える人」最新号の特集「数学は美しいか」での「私が世界で一番美しいと思う数式・証明」で竹内薫氏がカントールの「対角線論法」をあげていたのを読んでである。このディヴィスの本の第2章は「無限大とは何か」と題されていて、無限大ということについて数式などを使わずにわたくしのような人間にもわかりやすく説明している。これを読んだのは1983年でいまから30年前、わたくしが35〜36歳ごろで、最初読んだときの驚きというかなんとまあとんでもないことを考えるのだろうと感嘆は今でも鮮明におぼえている。
 そこでディヴィスはいう。

 これから議論することは、現実世界の理論ではなく、数学であることに注意してほしい。どんな数学も、基本的な公理から出発して、具体的で普遍的に受け入れられる論理に基づいて定理を証明するので、その結果は何の疑いもなく正しい。これは強調しておく必要がある。数学の与える結果は、信じにくいことも多いが、正しいのである。

 まず、これにつまづいた。世の中には正しいか間違っているか決定できないことが多いが、数学の世界においては正しいことは正しいのだというのである。このころポパーを読んでいて、人間は真理には到達できないのだという議論に魅せられていたので、そういっていいのかなあと感じた。ここの議論においても、公理は証明なしの前提である。もしもその公理を受け入れるならば、それ以下に展開される定理は正しいとしても、公理は正しいかどうかを超越しているのだから、数学の与える結果は正しいというのは、公理を受け入れるとすれば、という但し書きがつくのではないかと感じた。数学はトートロジーをどこまで拡張していけるかという試みなのではないかというのがその時の感触で、A=BならばA=Bというのは確かに正しい。しかし人間が猫ならば人間は猫である、とか、人間が不死であるならば人間は不死であるというのは、そこで正しいのは論理の形式であって、その内容ではない。
 ユークリッド幾何学で用いられる点とか直線とか平面というのはわれわれには直感的にわかるような気がするけれども、もしもユークリッド幾何学が正しいのであれば、その論理が正しいのであって、点とか直線とか円とか直角とかというのは任意の語に置換可能であるという考えが後世でてきたらしい。そしてユークリッド幾何学におけるいわゆる平行線公準にでてくる「限りなく延長されると」というわれわれの直感にはいささか抵抗のある表現が「無限」の問題とも関係してくるらしい。
 ユークリッド原論では、点は「位置をもつが部分を持たないもの」である。線は「幅のない長さ」である。面とは「長さと幅のみをもつもの」である。長さとか幅とかはここでは無定義語である。部分をもたない点を集めて線を作れるか? 幅をもたない線を集めて面をつくれるか? というのが無限大の問題と深く関係するらしい。
 本書によれば、

 無限大は、どんなに大きい数より大きい。しかし一方、大きい数には際限がないのである。無限大とは、あらゆる極限的に大きい数よりも大きく、ある意味では、それ以上に大きくできないくらいに大きいのである。

 われわれは「際限がない」というのと「無限大」とを区別することが難しい。
 議論が進んで、カントールの無限大へと進んでいく。まず有名な番号がつけられる無限。自然数がある。1 2 3 4 5 6 ・・・。それをすべて二倍する。2 4 6 8 10 12・・・。後者は偶数の列である。そうなら前者は後者の倍あるか? 正解は同じ。カードを用意する。表に1、その裏に2と書き、次に表に2、裏に4、以下同様に続ける。同じカードの裏表なのでカードの数は同じ、よって自然数の数=偶数の数。とすると無限大x2=無限大となる。その延長で無限大x無限大=無限大。さらに、自然数だけでなく分数を数に加えても同じ。なぜなら分数は自然数の比で表すことができるから。二つの自然数で表すことのできる分数は数えることができる。数えることができる数は、無限に数を数えることにすれば同じ数しかない。
 しかし、カントールのとんでもない思考は数が数えられる無限よりももっと数の多い無限があることを示した。ここに対角線論法がでてくる。
 数について考えてみる。数には自然数と分数しかないわけではない。古くから円周率πであるとか正三角形の対辺であるとか、自然数でもなく分数でもない数がたくさん存在することが知られていた。ルート2が自然数の比で表せないことの証明は簡単である。これらは無理数と呼ばれてきた。無理数無限小数であらわすことができる。1/3などの分数も無限小数で表せる。0.333333・・・。
 さてすべての小数を書いて並べてみる。最初の小数では下一桁、次は下二桁というように、ならんでいる小数のそれぞれの数をとっていって新しい小数をつくる。それからそれぞれの数から1ずつ引いて(ゼロでは1をくわえる)新しい小数をつくる。できた小数は、それのもとになったすべての小数とすくなくともどこか一ヶ所で違っている。よってすべての小数を数えることはできない。一方、有理数は数えられることが証明されている。よって無理数の無限大のほうが有理数の無限大より大きい。(証明おわり)
 さて、ここからがわからなくなるのだが、点は長さをもたない。とすると点をいくら集めても線にはならない(ように思える)。有理数の集合である無限大は「離散的」あるいは「可附番」と呼ばれ、いくら集めてもすかすかで線を形成しないのだが、無理数をふくめた無限大は「連続的」と呼ばれ、それを集めることで直線を形成できるらしいのである。
 0x∞というわけのわからない問題なのだろうと思う。可附番の無限では、=0となり、連続的な無限であれば、=実体?となるらしいのである。1cmの直線と2cmの直線ではそこにふくまれる点の数は上記の論から同じである。とすれば無限に長い線の上にある点の数と1cmの線分の上にある点の個数は同じであることになる。とすれば、宇宙に存在するすべての点は1cmの線分にある点と同じ個数であるし、もっと短くして長さをゼロにしても、そこには宇宙全体の点がふくまれてしまうというのである。
 「ゼロと無限大をかけ合わせると問題が生じる」とディヴィスはいう。1を無限大で割ったものが0、1をゼロで割ったものが無限大。しかし、0=1/∞ 0=1/(1/0) 0=1x0/1 というのは何か変である。∞/∞=1にはならないだろうからである。
 われわれは無限ということに、通常は二次曲線の接線の問題でであうのだと思う。二次曲線上の2点を通る直線がどんどん接近していってついには一つに収斂する、その点が接点であり、そこでの直線が接線である、という説明をされてなんとなくごまかされてしまうわけだが、二つの点が近づいていってついには一つになるというのがどこかにごまかしのある説明なのだろうと思う。まったく理解していないが、デデキントの切断とかいうのがどこかでこの問題と関連しているような気がしている。接線ということが成り立つためには、二次曲線が「なめらか」であることが前提であるように思うが、無限に2点が接近していったときに、急に曲線がでこぼこにならないということが証明なしに前提にされているのでごまかされた気になるのであろう。
 
 数学というのがわれわれの頭のなかだけにあるものなのか? それとも外界に存在する規則をわれわれの言葉であらわしただけのものなのかということが以前から気になっているのだと思う。よく言われていることばを使えば、なぜ自然法則は数学の言葉で表せるのかということなのであろう。無用な知的遊戯がなぜ自然と対応するのか、である。
 スタートは自然数である。しかし計算の必要から正の数だけでなく負の数も必要とされてくる。さらには分数。無理数。一番の問題は虚数で、それは外界に対応するものを持たない頭のなかだけに存在するもののはずである。しかし、それが量子力学の法則の中には普通にでてくるらしいのである。
 われわれ人間は宇宙のなかのまことにとるに足らない存在であって、宇宙そのもにはなんの影響もあたえれることができない(と思う)。だから人間がいようといまいと宇宙は自らの法則のもとで自らを展開していくはずである。その自らなる展開の規則を人間は自分たちの言葉で書き記すようになった。しかし、その記載が破綻をきたす場所があって、それがブラックホールであり、特異点なのであるというのが本書の主張なのであるが、それが無限大と深く関連しているらしいのである。ここで問題となる無限大はカントールのいう「連続性」無限のほうらしい。
 人間は、ほぼ平らな地面の上で、地面のほうに引っ張られ、上から陽が差し、「硬い」ものにぶつかればそこに留められる世界なかで生きてきたので、それが体のなかに自明の前提として埋め込んでいるらしい。そうでなければユークリッドが平面などというのを公理とすることはできなかったはずである。だから本当は物体はすかすかで、われわれが「硬い」ものにぶつかると跳ね返されるのは電気的な反発力によるなどといわれても容易に納得できるものではない。
 だから不連続な飛躍をする量子などというものは理解の外であるわけだし、量子論でいわれているさまざまな奇妙奇天烈なことなど、嘘としか思えない。観察者問題などというのはもうどうにもならない。観察するひとがでてくるのでは知的生命体がいるところでしか話が成立しない。
 ファインマンは「光と物質のふしぎな理論」で次のようにいう。「量子電磁力学のもっともショッキングな特徴は、振幅で組み立てられている奇妙きてれつな理論体系そのものです。それ自体がすでの何らかの問題点をさらしているのではないかと思う人もいるでしょうが、・・私たちが観察できる新しい現象も、新しく発見された粒子も、一つ残らずこの振幅で組み立てられた理論体系が導き出す予測とぴったり合うのです。」 いくら変てこりんであっても、その仮説は今まで実験において否定されてきていないということらしい。文庫本p182の注1で以下のようにいう。(もちろん、引用者は何もわかっていないで引用している。) 「この難点は次のように言い表すこともできる。つまり二つの点が無限に近くなり得るという考え方自体、またぎりぎりのところまで幾何学が使えると思うこと自体、間違っているとする考えである。私たちが可能な最短距離を10の−100乗センチ(現在実験で確かめることができる最少距離は10の−16乗センチ)に制限して計算すれば、無限大は消えてなくなる。その代り、今度は事象の確率の総和が、ごくわずかながら100%より多かったり少なかったりするとか、非常に微量の負のエネルギーが出るとかいうような矛盾が起きてくる。」
 こういうことを考えることができるようになったというのも、人間の栄光なのだろうと思う。もちろん、その過程で、当然、原子力という途方もないエネルギーも理論的に予想され、それを軍事的に利用することがおこなわれていくわけであるが。
 そして、それを実現するために、カントルートという数学史上でも稀な奇人・変人が思いついた対角線論法などというのがどこかで関係しているのであろうと思うと、人間というのはつくづくと奇妙な生き物であると思う。
 

ブラックホールと宇宙の崩壊 (岩波現代選書 NS 535)

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考える人 2013年 08月号 [雑誌]

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光と物質のふしぎな理論―私の量子電磁力学 (岩波現代文庫)

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