今日入手した本

音楽の科学---音楽の何に魅せられるのか?

音楽の科学---音楽の何に魅せられるのか?

 
 随分と分厚い本で600ページ以上。
 橋本治は「ロバート本」の中の「究極としてのモーツアルト」というコラムで「ヘイ、ご承知かと思いますが、私はズーッとクラシック音楽が嫌いでした。「なんかヤなヤツだなァ・・」と思ってると、やっぱりそいつはクラシックが好きだったりしてサ、そういうもんだったんだ。だから、素敵な人に会うと「どうかこの人がクラシックなんか好きじゃありませんように」って、どこかで思ってた。クラシックがそういうもんかもしれないし、俺が若かったのかもしれないし、それはどっちかはまだ分かんないんだ。今ンとこは前者であるこどが濃厚なんだけどね(まだ)。」といっている。はははは、である。たぶん今でも前者でしょう。
 治さんは偉そうでわかったような顔をしたインテリというのが大嫌いだから、そういうインテリもどきのハイカル趣味にはたえられないのだろうと思う。治さんには「恋の花詞集」なんて本もあって歌謡曲の本で、60曲ほどがとりあげられている。その最後の10曲は、「霧深きエルベのほとり」「アンコ椿は恋の花」「東京ブルース」「浪曲子守歌」「見上げてごらん夜の星を」「高校三年生」「赤いハンカチ」「東京ドドンパ娘」「誰よりも君を愛す」「山の吊り橋」。ということで、演歌というのかしら艶歌というのかしらはたまたド演歌というかしら、酒場の女の人がハンカチか何かを噛みしめながら去った男への未練を歌っているみたいな路線はなく、もっと明るいじめじめしていない路線。オカオケなんかにいくと、中年のオバサンがジメジメ路線・情念全開の演歌をもの凄い感情移入で熱唱していて、これがまた異様にうまい。コワいです。某看護師さんいわく、「オジサンだますのなんか簡単よ。カラオケで「天城越え」でも歌ってやればいいのよ。イチコロよ!」とのことです。これまたコワい。
 というようなことはどうでもいいのだが、最近「ロバート本」とかを読み返して、「究極としてのモーツアルト」や「鎧としての筋肉、または病理ではなく生理としての退廃」などのコラムで、バッハ・モツアルト・ベートーベン・ワーグナーを橋本氏が論じているのをみて、クラシック好きのヤなヤツであるわたくしとしては、もう一度、音楽について考えるのかなあと思い、こういう本を見てみることにした。
 クラシック音楽は、日本人にとっては完全に輸入品であって、日本に根をもたない音楽であることをどう考えるかということなのだけれど、まあ科学だって、政治体制だってみんな明治期の輸入ではある。そうではあるが、そういうものはどこか普遍を装っている。であるなら音楽もまた普遍性があるものなのかということである。音楽を持たない文化というのはないようであるから、ある点で普遍的なものであることは間違いない。しかし、クラシック音楽というのが西欧ローカルの音楽なのではないか、何ら普遍性を持たないのではないかということは十分に考慮に値することである。「アンコ椿は恋の花」とか「天城越え」とかが日本ローカルではなく世界に普遍的となる日がくるかというようなことを真面目に考える西欧の人間はまずいないだろうと思う。東洋の片隅で西洋音楽は普遍か?クラシック音楽は?というようなことを考えても仕方がないとは思うのだが、日本が明治期に西欧を受容して以来、日本の古典より西欧の古典のほうに親近感を感じる方が普通というおかしな状況が続いているので、やはりそうもいっていられないのである。
 この本は音楽全体を論じた本で、西欧音楽だけを論じたものではなく、ましてクラシック音楽を論じたものでもないが、はやりクラシックのことが中心になっている。世界のあらゆる音楽の中で西欧のクラシック音楽ほど学問的にさまざまな研究がなされているものはなくて、音楽について論じるとどうしてもそういうことにならざるをえないらしい。
(前に買ったはずなのだが、見当たらないので買い直し。最近、どうにも蔵書の管理がつかなくなってきて、こういうことが増えてきた。困った。)