朝日新聞夕刊の中村紘子さんの記事

 昨日の朝日新聞の夕刊に「人生の贈り物」という題の5回連載のインタヴュー記事があり、今週は中村紘子さんで、昨日が最終回。
 質問「日本人がクラシック音楽をする意味は何でしょうか」
 解答「若い頃からの一番の悩みでした。でも世の中がグローバルになって、いいものは、いいと納得できるようになりました。アジアをはじめ「非本場」の演奏家がこれだけ台頭していますし。」
 質問「クラシック音楽に未来はありますか」
 解答「役目を終えてはいないと思いますが、大きな未来があるとは思えないですね。表現形式も楽器も完成しているから。それを上回る魅力を持った音楽がこの先出現するかどうか。・・クラシックはそもそも、愛好人口が広がる性質の音楽ではなかったと思います。むしろ現代の日本はかなり広がっている方ではないでしょうか。」
 
 日本人がクラシック音楽をする意味はわからないけれど、それをするようになったのは日本が明治維新において西洋受容をこれからの自分の道と決めたからであろう。そしてグローバル化というのは西欧化のことだから、「非本場」の台頭も結局は「非本場」が西欧化してきているということの反映に過ぎないと思う。
 ヨーロッパから見れば米国だって「非本場」なのであろうし、事実かつてはそう扱われいた。今でも一部からはそういう扱いをされているのかもしれない。
 「非本場」であってもイスラム圏の「クラシック音楽」はどうなっているのであろう? トルコ人ピアニスト&作曲家のファジル・サイが非宗教的であるというので本国から問題にされているという記事をどこかで読んだことがある。サイの「ブラック・アース」などは濃厚に東洋的であるが、西洋そのものである楽器のピアノで西洋で発明された技法で演奏される。サイはイスラム信仰からは自由なひとなのであろう。敬虔なイスラム教信者でありながら西欧クラシック音楽の系譜の音楽を書くひとというのは私には想像できない。
 そもそもクラシック音楽というのはどの範囲の音楽を指すのだろう? ヴェルディプッチーニのオペラは当然クラシック音楽なのであろうが、これは文学にたとえれば大衆文学かもしれないから、われわれがイメージするクラシック音楽の代表選手とはいえないだろう。どうも少なくともわたくしがクラシック音楽という言葉でイメージするのは、バッハ、ハイドン、モツアルト、ベートーベンという路線で、マーラーだってショスタコーヴィッチだってその延長線の上にいるのだと思う。
 たぶん世界の歴史の中で「個人」というのは西洋のどこかにおいてただ一回だけ発明されたものであって、それとクラシック音楽というのは切っても切れない関係にあるのだと思う。そして「個人」という発明の徒花がロマン主義で、それゆえにこれも西欧でしか生まれなかった。21世紀になって(20世紀のおいてすでにそうなっていたと思うが)「個人」というようなものがもはや安易に信じることができないことになると、それを代償するものとしてクラシック音楽のなかのロマン主義に通じる何かが利用されてきたのではないだろうか?
 西欧を受容するとそれとワンセットで「個人」と「ロマン主義」はついてくる。それを一時的に解毒する手段としてクラシック音楽はなにがしかの有効性を持つのだと思う。しかし、すでに第一次大戦の経験のあとでは(まして広島の後では)「個人」も「ロマン主義」もとても旗色が悪くなってきたわけだから、クラシック音楽の需要が少なくなったのは当然なのかもしれない。しかし、「個人」も「ロマン主義」もともに時代遅れになっているとしても、西欧化(グローバル化?)した地域においては、それが完全に消えることはないだろうから(それが消失してしまえば、そこはもはや西欧ではないどこかである)、かって西欧には「個人」という信仰があり、それが産んだ「ロマン主義」という思潮があったことの追憶として、クラシック音楽はやはり細々とでも演奏され続けていくのではないだろうか? 日本にはまだクラシック愛好家が相対的に多くいるのであれば、それは西欧への信仰が日本ではまだまだ強く残っているということなのであろう。そして「個人」という思想と「ロマン主義」という思潮の何らかのデフォルメとしての「クラシック音楽」というのはこれからも完全には絶滅することはなく、わずかではあっても創られ続けていくのではないだろうか?
 そしてドイツ古典派音楽の問題が残る。ドイツ観念論哲学とこれをとってしまったらドイツには後には何も残らないような気がするが、これは昔むかしあるときにイオニアで何らか今日の科学に通じるものの見方が生まれたのと同じようなもので、ある奇跡がその時におこったということなのだろうか?