計見一雄「戦争する脳」(6)

 
 終章「日常と戦争」
 ここでは現代の戦争は、日常と戦争との境目が消失してきているということがいわれている。宣戦布告してはじまる戦争といった古典的な戦争はもはや過去のものとなり、テロのようなある日突然巻き込まれるといったものとなってきている、と。戦争が正規軍の兵隊がするものではなく、私的軍隊が主役になる。9・11のテロ、地下鉄サリン事件・・。
 だが考えてみると、1931年の満州事変から45年にようやく終わる「十五年戦役」もそこに生きていた中国の人々にとっては、普通に暮らしていたらある日戦争の中にいたという感じだったのではないだろうか?
 さて、精神科医である計見氏は、精神疾患もまた同じなのではないかという。昨日まで正常、今日から異常というようなものではなく、患者さんの主観からすれば、日常の生活を続けていたら、いつの間にか狂気のなかにいたという感じなのではないだろうか、と。そうだとすれば、患者が自分の状態を異常と認識しないのもまた当然なのではないだろうか? そういうひとを何とかこちらに引き戻す。その時に、ちょっと一休みできる場所、ほっとできる場所、ほっとできる心の持ち方ができるかどうか、それが予後に決定的に大きな影響をすると計見氏はいっている。そういう場を持たないひとが以前の環境に戻るとすぐまた再発してしまうという。
 そういう場所にいるかいないかが、どうやってわかるか? そこにいる時に、時間が刻々とたっていくのがわかる、静かに降り積む時間がわかる、そういう時間や場所があるか否かである。自分の場所にいて、自分の時間がたっていく、そういう経験ができるかどうかである。そういう経験のない人の治療はきわめて困難である。ほとんど不可能かもしれない、そう計見氏はいう。そういうもののない人の時間はとまっている。自分では「時間がない、時間がない」と感じる。何かが迫ってくる。こうしてはいられない。なんとかしなくてはいけない。焦燥と不安が募る。その圧力がどんどんと強まってくる。これは発病の前の状態と同じなのである。
 たとえば、特定の季節になるとあらわれるリクルート・スーツの集団。かれらは「なんとかしなくては」「何をしなければいけないのかわからない。とりあえず,他人がしていることをしておこう」と思っているのではないか、彼らは危なくはないだろうか? 発症予備軍なのではないだろうか?
 ここから話が急に変なほうへ跳ぶ。これらのリクルート・スーツ集団の心理は、昭和10年代の日本の知識人とどこか似てはいないだろうか、というのである。「時代閉塞の原状を打破するべく吾人は何をなすべきか」と煩悶していたインテリたちとである。さらに変なほうに話がいって、これらインテリたちが陥っていた気分が「倦怠」であったといわれる。そこで急に吉田健一「時間」からの引用があって、近代は第一次世界大戦第二次世界大戦で終わったとするのが吉田氏の直感であるとして、この崩壊を起こさせた元凶が19世紀末の気分である倦怠であったと吉田氏が喝破したということがいわれている。そして、「何かがやってくる、急いで対処しなければ、しかし何をすればいいのか? 焦燥と不安が増すばかり」ということは現代でもおきていて、そのやってくる何者かというのが、グローバリゼーションという名の経済原理主義と地球環境変化なのだ、ということがいわれる。
 では、それにどう対処したらいいのか、ということへの氏の回答が、肉体の復権ということであり、日本の山紫水明の回復ということであることは(1)で述べたように思う。
 
 ここで「倦怠」という言葉がでてくる部分は、大部分の読者にとってはちんぷんかんぷんなのではないかと思う。さらに吉田健一「時間」の引用にいたっては何のことやらであろう。わたくしは吉田健一の本をかなり読んでいるほうであるかと思うので、計見氏が何をいわんとしているのかはある程度理解できる。しかし、そうでないひとにとってはこの部分は理解不能であろうと思う。
 わたくしが計見氏の本を結構読んでいるのは、最初に読んだ「脳と人間」で吉田氏の「時間」から長々と引用がされていて(「冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のやうに流れるものに洗はれてゐるのを見てゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかといふのでなくてただ確実にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのである。・・・」)、計見氏はそこで「読書子は全編を読まれんことを願う」といい、こういう時間が普通の暮らしの中であればいいといい、「精神分裂病の人から、ほとんど決定的に奪われてしまうのが、かくの如き時間である」といっているのを読んだからである。この本は1999年の刊行で、1990年刊行の「吉田健一頌」に収められた丹生谷貴志氏の「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」(精神科医中井久夫氏の精神分裂病についての論文「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という精神分裂病の発症直前に現れる「奇妙な静穏期」を論じた論文をもとに吉田氏を論じたもの)とあわせ、吉田氏の論が精神病理学的な見地からみて大きな興味をひくものであるらしいということをわたくしに教えてくれた。
 中井氏も計見氏もともに統合失調症を主に論じているわけで、わたくしが吉田氏の論について感じていた「何だか話がうますぎるなあ」という印象に一つの回答をあたえてくれているように思った。吉田氏が述べていることは、人間はそうであるというのではなく、そうあるべきであるといっているのであり、さらに意志的にそうすべきであるということであるとすると、吉田氏の論が腑に落ちたものとして受け取れるように思えてきたのである。
 つまり吉田氏が近代という言葉で述べていることは、精神病理学的用語に翻訳すれば、統合失調症的、あるいはその病前期的、またはその発症母地的精神が充満している時代ということになるのであり、その病理精神を壊したものが二つの大戦で人がたくさん死んだこと、つまりいくら頭でいろいろなことを考えていても、鉄砲の弾が当たれば人は死んでしまうのだということなのである。
 近代は「頭」の時代、あるいは「頭でっかち」の時代、現在は「肉体」の時代、あるいは「肉体の復権」の時代である、ということになる。
 しかし、吉田氏はそういったかもしれないが、現代だって相変わらず「頭」の時代、「頭でっかち」の時代が続いているのかもしれないわけで、であるからこそ、ひとは死んではならないことになっていて、何か災害がおきるたびに、対策はなかったのかという話がいつもでてくることになる。「十九世紀の後半頃からの短い期間は災害にはその対策があり、例へば渇水は貯水池、疫病は薬、飢饉は食料の輸送、戦争も国際会議で防ぐことが出来るといふ考へが行はれてゐてその結果が人為的な災害も自然のものも既になくなつたも同然といふ気持ちでゐることに人を馴れさせて来た。・・どういふことにでもその対策があるといふ種類の考へ方が既に理性が許さない筈の何かに対する過信であつて人間は人間の状態を忘れる時に醜くなる。(吉田健一「覚書」)」
 吉田氏は「十九世紀の後半頃からの短い期間」というが、二十一世紀の今現在でもこの人間の醜い状態は続いている疑いが濃厚である。そうであるなら吉田健一流の用語法を受け入れるならば、われわれはまだ近代にいて、現代はきていないということになる。大変示唆的な文章「獣としての人間」(「吉田健一集成5」月報)で丹生谷貴志氏は「吉田健一は或るところで二回にわたる世界大戦に触れて、これだけの人間が目の前で死んで行けば、人間は人間の姿を取り戻さざるを得ないと書いている」ということを紹介している。その論法でいえば、さらにもっともっと多くのひとが死んでいかなければ、現代はこないということになるのかもしれない。
 つまり吉田健一の用語法としての近代はきわめて特殊なもので、誰にでも通じるものでは決してないのだが、その用法に親しんでいて、その用法を受け入れていている計見氏は、近代という語を読者に吉田氏の用法として提示しても通じるかのように書いてしまう。それでこの辺りがきわめてわかりにくく性急な文になってしまっている。
 もう少し丹生谷氏の文章から引く。「観念や理念は人間から「人間であること」を覆い隠すものとして嫌悪されるのである。だから逆に、あらゆる観念の行き詰まり或いは崩壊として示される「世紀末」、そして「戦争経験」が吉田健一においてむしろ「人間の取り戻し」として現れるのはこれ故である。観念や理念を失うことにおいて人間は「人間」に戻る。本来の姿に戻ること、吉田健一においてそれは文字通り「獣としての人間」に戻ることを意味すると言ってよい。・・そしてその状態を、如何にも逆説的だが、吉田健一は「文明」と呼ぶのである。」
 計見氏のいっていることも同じことなのだと思う。観念や理念の過剰、つまりは頭の過剰が病をつくる。そうであればまず肉体の取り戻しを! つまり人間もまた獣であるという当たり前の地点に戻ること!
 しかし、吉田氏の論はきわめて「逆説的」である。論理として素直にその論を受け入れるひとはまずいないであろう。そしてこれは何よりも吉田氏自身にとっても、容易には納得できないきわめて変な話であったのであろうと思う。だからこそ、それが氏の晩年の異常なくらいの著作の数となって現れているのではないだろうか。これらの本はまず自分自身を説得するためのものであったのではないだろうか? あの膨大な著作とのバランスでようやく納得できるような危ういバランスの上に氏の晩年はあったのではないだろうか?
 つまり吉田氏も晩年まで「近代」をひきづっていたのではないかということである。計見氏は、吉田氏が晩年に「時間」のなかで描いたような境地にいて「倦怠」をすでに克服していたとして論を進めているように思う。それは本当なのかなという疑念のようなものがわたくしにはある。
 「近代」の「倦怠」の力というのはとても強力なものであって、吉田氏にしてもあの晩年の膨大な著作によってようやく悪魔払いできたようなものであるとすれば、吉田氏の本をよむことでそう簡単に乗り越えられる甘いものではないのではないかと思える。昭和10年代の日本の知識人の姿はまだ過去のものとはなっていないかもしれないのである。
 

戦争する脳―破局への病理 (平凡社新書)

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脳と人間-大人のための精神病理学 (講談社学術文庫)

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時間 (講談社文芸文庫)

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吉田健一集成〈5〉/随筆〈1〉

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