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〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告

〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告

 計見一雄氏の「現代精神医学批判」などを読んでいて、そこでのDSM批判(第5章「DSMー3に始まる診断体系への疑問」)を読んだりしたことから購入したもの。DSMというのは「精神疾患の診断と統計マニュアル」(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Diaorders) の略号であり、2013年5月に最新の第5版が発表された。著者はいう。「1980年まで、DSMは目立たないちっぽけな本で、たいして注目されていなかったし、読まれてもいなかった。そこへ突然、DSM−3が現れた―この分厚い本はすみやかに文化の象徴となり、息の長いベストセラーになり、精神医学の「バイブル」としてむやみな崇拝の対象になった。」
 わたくしがDSMという言葉をはじめて耳にしたのがいつのことであったのかは覚えていないが、ここ10年以内ではないかと思う。マニュアルというものに偏見をもっているので、精神疾患をマニュアルで診断しようとするなんていかにもアメリカ的だなあなどと思っていたのだが、いつの間にか世界を席巻したらしい。精神科を専門としている人間ではないので、いくつかの病名の診断基準については見たことはあるが、全体を通読したことはない。
 たとえば「内科疾患の診断と統計マニュアル」といったものはない。強いていえば、いろいろな学会が個別に発表している治療のガイドラインといったがそれに近いのかもしれないし、最近大きな影響をもってきているEBM(Evidence Based Medicine)とも関係しているのかもしれない。例としてC型肝炎の治療のガイドラインというものを考えてみる。この場合、C型肝炎であるということの前提は、患者さんの血中のC型肝炎ウイルスが検出されるということである。C型肝炎ウイルスが検出されるということが即C型肝炎という病気であるということにはならないが(肝臓機能にほとんど異常がみられない場合は少なくない)、それが検出されないケースが治療の対象となることはない。この場合、病気のひととそうでないひとをある程度はクリアにわけることができる。ところが精神科疾患では「客観的」な検査で診断名を確定することがいまのところはできない。だからAという精神科医躁鬱病と診断した患者を別のBという精神科医統合失調症と診断するといったことは起こりうし、さらにはCという精神科医がそのひとを精神科疾患でないと診断することでさえありうる。精神科疾患というものは存在せず、現代社会に適応できない、あるいは社会に敵対してる人々に社会がはるレッテルに過ぎないという主張さえ精神科医から提唱されたことさえあった(今の社会に適応できるひとのほうが異常なのであって、適合できないひとのほうが正常である、云々)。そうだとすると、ある薬が「うつ病」に有効であるということをどうやって判定するのかが深刻な問題となる。どうやって「うつ病」と診断したのかということがはっきりしないと、薬効の判定の根拠がゆらぐ。そういうことがあるので、ある程度、こういう条件がそろったひとを「うつ病」という診断にしましょうということがないと困る。そういう事情から便宜的に作成されたものなのだろうと、部外者として、わたくしは思っていた。
 連続して変化するもの、血圧とか血清コレステロール値などについては、どこかで線を引いてここまでは「正常」ここからは「異常」という線引きをしなくてはならない。それでガイドラインというものが作られる。それが年々厳しくなってきており、今までは「正常」とされていたひとが、新しいガイドラインでは「異常」あるいは「境界領域」とされることがあちこちでおきてきている。それで「正常高値血圧」などという奇妙な言葉が作られたりする。
 精神科領域でも同じことがおきていて、今までは「正常な反応」とされていたもの(親しい人が亡くなって落ち込んでいる状態)がPTCD(心的外傷後ストレス障害)という立派な病気になったりする。そういう批判は以前から存在していた。一家言ある精神科医であれば、DSMにいちゃもんをつけたくなるのは当然かもしれない。だから計見氏などはいろいろいう。「どうも変だなと、古手の精神科医はみな何となく不審に思っている。」「(DSMー3以降)精神科の世界がガラッと変わってしまいました。私のような古手の精神科医も最初は感心していました。あまり深くも考えず、よくできているよと。よくまあこんなに金かけて立派なものを作ってくれたものだと。」 計見氏がいうには、その背景には生物学的精神医学の台頭による精神分析学派の思想の一掃という思潮があり、「もっぱら脳の病変に精神疾患の原因をもとめるという、一種の唯物論の勝利」があるという。DSM−3作成の動機として、1)精神分析学と生物学的精神医学の併存という混乱の整理、2)生物学的精神医学の復興、3)EBMへの欲求のたかまり、4)専門家以外は何のことかわらかない用語ではなく、門外漢にも理解可能な用語を使うことへの要望のたかまり、などがあったのではないかと推測している。計見氏によれば、DSM−3によって「神経症」という概念(俗にいうノイロノーゼ)が消え、「心因」という言葉も消え、「病因論」も不要になったという。
 計見氏は精神科医ではあるが、DSM作成に関しては門外漢である。だからある意味、いいたいことがいえる。ところが本書の著者のA・フランセスは前版であるDSM−4の作成委員長なのである。そして、DSM−4作成のあと、それには功罪があるが、「注意欠陥・多動性障害」とか「自閉症」といったものが非常に安易に診断されるようになるという罪の方が大きいと感じていたらしい。診断のインフレがおき、アメリカでは成人の5人に一人が精神的な理由から何らかの薬を服用していて、2010年の時点で、全成人の11%が抗うつ剤を服用しているという状況になっているのだという。背景に製薬会社という巨大資本の攻勢があることはいうまでもない。そして、DSM−5をみて、それがさらに助長されていく危険性をつよく感じ、本書を執筆したということのようである。
 日本はアメリカほどは極端なことにはなっていないが、「うつ病はこころの風邪」などという製薬会社の宣伝はすでに一般化している。内科の外来は症状はないが病気(高血圧、糖尿病、脂質異常症・・)の患者さんと症状はあるが病気ではない患者さんがほとんである。後者のかなりは病気であることへの不安から症状がおきているようにみえる。そういうひとの相当部分は病気ではないことを説明することで症状は軽快する。しかし、そういうひとに「不安障害」とかいった病名をつけて薬を処方することがこれから増えていくのではないか、そういう方向をDSM−5が助長するのではないかというのが著者の大きな懸念なのであると思われる。
現代精神医学批判

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