今日入手した本

ふたつの講演――戦後思想の射程について

ふたつの講演――戦後思想の射程について

 加藤典洋さんの本は「敗戦後論」を読んだのが最初で、そこで太宰治アーレントや「ライ麦畑・・」などが斬新に論じられていて驚いた。それで一時アーレントの著作なども読んだ。あと「小説の未来」なども面白かった。加藤氏は知識人の陣営の人で、一般の思潮に影響をあたえるひとではないと思うが、思想界には一定の影響があるひとなのかもしれない(アーレントなどもそうであろう)。本書はこれから読むが、鶴見俊輔の「アメリカ哲学」論などは面白そう。鶴見俊輔というひとは苦手なのだけれども。
  著者の堀井氏のことはよくしらない。わたくしより10歳くらい若い人で、週刊誌などにいろいろ書いているひとというくらい。凄い題名の本だけれど、序章「たどりついたらいつも晴天」はおおむね以下のようなことをいっている。
 明治は「坂の上の雲」を見上げてあるけばいい時代だった。平成からみれば昭和が同じように見える。19世紀後半からの「近代社会へのいきなりの無理デビュー」が叩きつぶされて、再出発。1980年代が異様な好景気の最後。いまになって思えば、あの狂騒は、もうこんな騒ぎは二度とできないという予感があったからこそではないか? こんなこと続けられるわけないよという未来への不安から大暴れした。90年代は停滞した。不景気の時代と思われた。問題は気分だったのではないか? 豊かになってわがままになっていただけでは? 経済に罪を押しつけて・・。不景気というのは「楽しくお祭り騒ぎができない」という気分を反映しただけのものでは? つねにお祭り騒ぎなんて無理だろうというような反省はどこからもでてこなかった。そのまま21世紀になった。その気分は拍子抜け。なんだこんなものか・・。21世紀になるとこれから素晴らしいものがはじまるぞとは思えなかった。だから00年代は「何も期待されない10年」だった。しかし、実はそのあいだに、いろいろなものが大きく変わった。圧倒的な変革がおきていた。1991年に戦後の全目標は達成されてしまっていた。世界標準に追いついてしまった。この先、何を目指せばいいのかわからない。それでしていたことはまわりの不要と思われるものを取り除くこと。80年代までの幸福は世界のことは考えずに自分のことだけを考えていればいいという点にあった。かつて壮士が日本は世界のなかでどの位置にあるべきかを口角泡を飛ばしていた、そういうことはまったく必要とされなかった。目の前にある仕事を必死でこなせば、自分も社会も豊かになるとする「特権」をあたえられていた。2009年に、それまで続いていた体制の目先を変えるという選択をした。世界はひょっとすると日本がアメリカの傘からでるつもりかしらと疑いだした。本人は相変わらず、特権的ポジションにいるつもりでいるのに。
 坂を上がったら何もなかった。なんだかつまらない日常があるだけ。問題は坂を上っていたひとと、何もないではないではないかと思うひとが、同一でないことである。両者は違うのだが、そのあいだで意識の伝達がおこなわれていない。昭和の世代は、いまの世の中をよくするという機動力になり、「ただがんばる」だけで世のためになった。しかし21世紀のいまはそうではない。「ただがんばるだけで世のためになる」社会ではない。だから若者に居場所がない。自分がしていることが、世界のどこにつながっているのかが見えない。それなのに「自分のやりたいことを仕事にせよ」などといわれる。無茶である。豊かで平板な時代になって、そのぶん、若者は不幸な気分でいる。
 こういう大きな一筆書きができるというのは大したものだと思う。
 今、会社社会では「現代型のうつ」といわれる若者を中心とした仕事への意欲の低下が問題になっているが、氏が述べているような視点は、その問題への大きな示唆をあたえるのではないかと思う。