堀井憲一郎「江戸の気分」

 講談社現代新書 2010年
 
 最近、堀井氏の本をいろいろ読んでいておもしろいので、いくつか感想を書いていきたい。まずはじめはこの本から。理由は医療のことが書いてあるから。
 第1章「病いと戦う馬鹿はいない」
 昔はイノシシの肉、うなぎ、卵は薬だった、と。たしかに昭和20年、30年代の映画などをみると、卵は病気になってはじめて口にできる食べ物といったようである。滋養をつけるのである。それで堀井氏はいう。「病気を治すというのは、病いのもとを見つけて、それを退治する、ということではなかった。まず。病いに負けぬ体力をつけさせる、ということが大事なのだ。・・世界史上稀に見る豊かな国になった日本国は、人の命が延びてとどまるところを知らない。ものが十分に食べられるからである。」
 そして堀井氏はいう。「いまも昔も、病にかかるかどうかは運である。そして、治るかどうかも、また運なのだ。」 本当にいいことをいっていると思うけれど、これは堀井氏がいうから許されるのであって、医者がいったらちょっとまずい、たとえ本当のことであっても。さらにいう。「医者は、診断はするが、治しはしない。」 これはまあ江戸時代の医者のことをいっているのだけれど、いまだってあまり変わりはないかもしれない。
 「医者は患者を治さない。治るのは自力である。これは何も江戸時代にかぎらず、たぶん現代医学の最前線だって似たようなものだろう。」 これまた、その通り。むかし、「患者さんは勝手に治っていく。それを邪魔するようなことをしないのが医者のつとめ」と習った。だが堀井氏がいうように「でもおれたち近代人は医学を魔術だとおもっているから、医者にかかると治らないと気が済まない。医者にかかって死んだときには、すきあらば訴えたい気持ちでいっぱいになってしまう。双方、疲弊するばかりである」のが困ったところである。
 思うに抗生物質がいけなかったのであろう。「魔法の弾丸」である。そのような「弾丸」があらゆる病気に用意されているはずであるという思いが、堀井氏のいう「魔術」への信頼であって、抗生物質だってずいぶんと切れ味が落ちてきているにもかかわらず、魔法の弾丸などあるはずのない「加齢」とか「老化」でさえ、一粒薬を飲めば何とかできるようにするのが医者の仕事なのではないかと思われている。機械の調子が悪くなったら油を差せばいい、というイメージ。でも、機械にも耐用年数というものがある。
 堀井氏はいう。「ま、そのうち死ぬんだし、という視点が欠落すると、負けるとわかっている戦いを挑まないといけない。・・「病いと戦う」ということはそれは早い話が「死と戦う」ということになってしまう。孫子も言ってたけど、そんな負けるとわかってる戦いを仕掛けちゃいけません。病いは戦うものじゃなくて、引き受けるものだ、と落語は静かに言っております。」
 近藤誠さんが言っているのも基本的は同じことなのだろうと思う。「患者よ、がんと闘うな」という本もあった。医療業界では近藤氏は本当に嫌われまくっているが、患者さんの一部に熱烈な信者がいることも確かで、近藤氏の患者さんでもないひとが氏の本を読んで「近藤先生」と畏敬の念を込めて言っているのをきいてびっくりしたことがある。医療業界はなぜ近藤氏の本があれだけ売れているのかを少しは考えてみたほうがいいのだと思う。ただ近藤氏は堀井氏のように一般論として近代医学の問題点を指摘するのではなく、文献を読みまくって文献学的考察として、あのような主張をしているのが弱点で、文献をみれば時には「がんと闘った」方がいい場合もあることもあることも明らかであるにもかかわらず、結論が先にあってそれにあわせて強引な議論を進めるようなところがあって、それぞれの分野の専門家からみれば突っ込みどころも満載ということになってしまう。がんといってもいろいろとあるのだから、それを十把一絡げにして論じると抜け落ちるところがたくさんでてくるのは当然である。
 堀井氏のいう「かつて不治の病いとされていたいくつもの病気の原因を解明し、それを排除する方法を確立した近代医学は、人類の誇るべき素晴らしい技術だとおもう。でも、それは「病気のある分野において輝かしい成果をもたらした」というだけであって、・・誰もその技術ですべての病気を克服できるとは言ってないし保証もしていない。近代医学はある一部にしか有効でしかない」というほうがずっとまともで、近代医学にはいいところもあるが、いいことばかりではないのは当たり前の話である。かたや医療は万能、こなた医療は害をなすだけ、というのでは不毛な論争になってしまう。という以前に論争にさえならず、ただお互いののしりあうだけということになってしまう。
 だが、現代では近代科学派が圧倒的に大きな顔をしているので、その潮流になじめず、それを何か変だな、そんな大きな顔をしていていいのかなと思っているひとが少なからずいるは当然である。話が混乱するのは、その変に思っているひともそれでも同時に近代科学の信者でもあるということで、文献学的な方向から述べる近藤氏は何となく学問的で信頼できるように思えるのでもあろう。
 サプリメントとかがやたらと売れているのもそれと関係していると思う。何だか薬は化学物質で怖いけれど、自然の産物なら大丈夫だろうというような、狭義の科学への不信と何か有効な対策があるであろうという大きな科学的枠組みへの信頼の併存。
 堀井氏はいう。「近代人は、病気をすべて「外からのもの」として捉えるのがいけないやね。外のものがやってきて、自分のからだを浸食していくから、これをまた外に排除してくれ、医者だったら排除できるだろう、と考えているのは、近代人の異常性だとおもう。これは江戸時代から見なくても、ふつうに異常です。」 サプリメントを飲んでいるひとは副作用のない薬、害のない薬と思って飲んでいるのだろうと思う。やはり外部からくる何者かとして病気を見ていて、それをやっつけてくれる副作用のない穏やかな薬としてそれを服用しているのであろう。
 第2章の「神様はすぐそこにいる」で、堀井氏は「人はいきなり生まれ、いきなり死ぬ。自分ではどうしようもない。理解を超えた何かによって、生かされ、死んでいく。そこを了解していれば、神信心まではすぐである。強迫観念の一種である西洋の一神教とはちがい、日本の神様は、いつでもすぐそこにいる。・・西洋の神様はあきらかに頭で必死で考えたものですね。おれたちの神様は、平たく言うと、「あー、びっくりしたー」と驚かされたものすべてである。」
 西洋医学といわれるものは、なんだかんだ言っても科学の末席に連なろうとしているのであるが、その科学は西洋渡りのもので、科学の根っこには一神教、すなわちなんでも知っていて、何でもできる神様がいるので、原理的には科学も何でもできなくてはいけなくなってしまう。そしてわれわれにも、明治の文明開化以来、この西洋的思考法というのは体の奥深くまで浸透してきてしまっている。それが問題なのだと思う。
 第3章「キツネタヌキにだまされる」に「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という本が紹介されていて、その転機は1965年(昭和40年)だったという説が紹介されている。東京オリンピックの翌年(わたしが浪人中の年)、堀井氏はそれがテレビの普及の完成によるとしている。とにかくそれから後は日本人はキツネにはだまされなくなったらしい。
 わたしはすでにキツネつきが信じられなくなった時代に医者をやっているわけである。しかし、キツネは憑かないにしても、今の若いひとでオカルト的なものを信じているひとはとても多い。気だと念だとか前世だとか・・。キツネがつかなくなったから、そういうものが盛んになっているのだろうか? そういうもののほうがキツネよりもハイカラなのだろうか? 西洋風で高級に思えるのだろうか?
 キツネのほうは自然界に存在していて目にみえるものだが、気や念は目にみえないということはある。エクソシストなどというのがまだ日本では流行っていないところを見ると、そこまでは西欧の一神教という脅迫観念は浸透していないということなのだろう。だが、脳というのが中途半端に神秘化されると、気や念といったものが信用も増すのかもしれない。(などと書いているが、一時、「祟りじゃー!」などというのが流行ったことがあった。横溝正史は土着方面のひとである。一神教が土着の神々を滅ぼすと、土着の神々はオカルトとなって祟るというは橋本治説だったと思う。日本の仏教のなかできわめて一神教に近い構造を持つ浄土宗や浄土真宗が広まった地域では土着の民話とか説話といったものが根扱ぎにされているということを中井久夫氏がいっていた。テレビというものにも何か一神教的な神の持つ力に通じるものがあるのだろうか? みのもんたが神様だったりして。あるいはキツネの代わり?)
 おそらく「祟り」というものが信じられいるほうが医療はやりやすい。「わたしは何でこんな病気になったのでしょう?」「それは溶血性連鎖球菌という細菌が侵入してきて・・」あるいは「あなたの免疫機能が必要以上に活発になって、自己免疫現象によって・・」などと医者が説明しても、患者さんがいっているのが、「わたしは何でこんなことに・・。何も悪いことはしていないのに・・」ということであればすれ違いである。
 精神科の一部で行われているナラティブセラピーというのはその対策なのではないかと思う。たとえ本当のことではなくてもある納得できる物語ができると症状が寛解することがあるらしい。これが悪くすると過去の記憶の捏造ということにもつながって、ありもしなかった幼児期の虐待とかがあったことになってしまう場合もあるようなのだが・・。村上春樹の小説が世界中で読まれているというのもこれと関係があるのだと思う。汎用性のある物語というか、読者に「ああ、これは自分のことが書いてある」と思わせる物語をつくることに成功しているようなのである。そういう物語を求めているのに、溶連菌とか免疫機能とかいわれても身に沁みない。「あなた最近何か悪いことをしませんでした?」「実は○○さんにちょっと意地悪なことを・・」「そうでしょう。それですよ」というふうにいったほうがおそらくうまくいく。しかしそういう芸当ができる器量のある医者というのはまずいないと思う。もちろん、わたくしもようしない。
 精神科医兼小説家の箒木蓬生さんが何かで書いていたが、「自分が若いころ何がいやといって非科学的でいんちきな呪い師のできそこないのようなことをいっている人間ほどいやなものはなかった。そういう人たちを憎悪した。しかし、甲羅をへた今では、祈祷師や呪い師などのほうがなみの精神科医などよりもはるかに優秀な臨床家であると思うようになった」のだという。それはそうなのだろうけれど、呪い師を演じる覚悟ができている医者というのはそうはいないはずである。ようするにペテン師になる覚悟とそれによって生じた負の部分はすべて引き受ける覚悟の双方が必要になるわけで、そんなきつい仕事は普通の人間にはできない。
 科学としての医療ですべての病いを治せるという顔をするのもまたペテンなのであるが、患者さんに希望を持たせるためにあえてそういう役割をひきうけざるをえない事情もある。なぜなら現在では科学というペテンのほうが、キツネというペテンよりは信用があるからである。
 負けるとわかっている戦いを挑まないといけないのは、「そのうち死ぬんだし」という視点が欠落してしまっているからである。現在では「そのうち死ぬんだし」という言葉はタブーに近い。しかし、あと10年もすればわれわれ団塊の世代が大量に死にだすはずで、それに濃厚濃密な対応をしていたら医療現場がもたないことは明白である。現在は病院で死ぬのが普通であるが、その時代になれば病院で死ねるのは贅沢ということになる可能性が高い。そうなったら「そのうち死ぬんだし」という言葉を忌避できなくなる。そういう当たり前なことが当たり前と認識される時代になった時、医療は果たしてどういう姿になっているのか? それはわからない。未来のことは誰にもわからないが、それをきめるのは医療以外の因子であることは確かである。その時には90歳を越えても毎年健康診断を受け、その結果を思い悩むようなひとがあまり多くはいなくなっていることを期待したい。
 

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