堀井憲一郎「やさしさをまとった殲滅の時代」

   講談社現代新書 2013年10月
 
 ちょっと意味不明のタイトルだが、00年代が大きな変動の時代であったにもかかわらず、大きな変動には通常ともなうはずの暴力性が表面的には見えにくい、力を感じさせない暴力による「やさしさをまとった殲滅」の時代であったということをいいたいようである。
 1991年に戦後から走って目指してきた目標が達成されてしまった。この先、何に向えばいいのかわからない状況になった。
 村上龍が「寂しい国の殺人」でいっていたのも同じことかもしれない。国家として何を目指すべきかということが常に意識されている国というのは近代化の途上にある。近代化が達成されれば、そういう議論はされなくなる。国家の目標はなくなり、個々人それぞれの目標しかなくなる。誰かが目標をあたえてくれることはなくなった。同じ目標にむかってみんなでわいわいとお祭り騒ぎができていた時代は楽しかったので、それがなくなるとみんな寂しくなる、と。
 ところで、本書にライトノベルのことがでてくる。涼宮ハルヒとかいろいろ。堀井氏によれば、「ライトノベルは、世代差がきれいに出る。古い世代は、まったく一冊も読んだことがない。いまの世代はほぼみんな読んでいる。」 で、古い世代であるわたしくも一冊も読んでいない。だからライトノベルのことはまったくわからないが、氏によれば「割り切って大雑把に言えば、少年の妄想を充足させる内容を持つ軽い小説」のことで、代表的な設定は、主人公は内気な少年、その近くに美少女がいる。なぜか美少女のほうから少年に近寄ってくる。そして、彼女はなぜか宇宙の存在や世界の滅亡にかかわるような大きな存在なのだ、というものなのだそうである。少年はごく普通の男子高校生。優秀でもなく不良でもなく、とくにもてもせず、そういう少年がいつのまにか世界の存続の接点に立たされている、そういう妄想であり、なぜかぼくは選ばれているという妄想らしい。美少女はとんでもなく強いひとである場合が多く、少年は美少女をまもるのではなく、逆に守られる。「僕は僕であるだけで、世界にとって必要な存在なのだ」というのがこれら小説の寓意なのだかとか。堀井氏はいう。こんなのばかり読んでいるとまずいぜ。「僕は僕であるだけで、世界にとって必要な存在なのだ」などということは実際にはありえないのだし、「世界はぬるく、ぬるま湯のように僕を囲ってくれたらいいのに」というのは少年時代にだけにか許されない妄想なのだから。
 こういう世界が00年代半ばに爆発的にひろがったのだそうである。ライトノベルは90年代にはじまり、1995年の「新世紀エヴァンゲリオン」で広がり、00年代には普通の読み物として少年たちのあいだにひろがり、03年のハルヒとなったということらしい。
 コミケ(コミック・マーケット)というのがある。年2回、夏と冬。それぞれ3日間。一日20万人くらい集まる。堀井氏はいう。戦国時代最大の合戦であった関ヶ原の戦いは、あわせて十数万人の戦いだから、それ以上の人間が集まっている。なんのために? 表面的には「買いたい同人誌があるから」 本当は「何かがありそうだから」? 20万人の熱気に触れたくて? 祭りへの参加? しかし熱気には方向性がなく、中心がない。祭壇のない祭りである。個であることを強く要請された結果、いくら多数が集まっても若者は個であることから脱却できない。集団で動いて熱狂する訓練を受けていない。
 「わたしの詩歌」という本に、内田樹さんが「ワルシャワ労働歌」を挙げている。「暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は 吹きすさぶ 怯まず薦め 我らが友よ 敵の鉄鎖をうち砕け・・・」 内田さんはいう。「その曲を、スクラムを組んだ数千人の学生たちが声を限りに歌っていたときに、身体を通り抜けていった地鳴りのような振動といっしょにこの曲は記憶されている。・・私の記憶に蘇るのは、メロディでもなく、それをユニゾンで歌っていた巨大な「マッス」の自分が一部分であったという感覚である。・・もし、むかし多細胞生物であったものの断片が、その後、ひとり剥離して、単細胞生物になって、「私がかつて多細胞生物であったころ」を回想したときの感じ、と言ったら(分かりにくい比喩だけれど)意のあるところは汲んでもられるかも知れない。・・19歳の私は、「我ら」というものを、「私」の複数ではなく、それ自体の固有の実質を備えた「巨大な魚」のようなものを幻視していた。それは街路を呑み込み、都市を呑み込み、大陸を呑み込み、文明を呑み込んでうねる巨大な生命体だった。・・かつて声の限りに「革命歌」を歌い、「我ら」という言葉に幻想的なリアリティを抱いた世代がいた。/ 今はもういない。/ だから、その歌はもう二度と、誰によっても、聴くことができない。」
 もしもコミケに集まった20万人の若者たちが、一斉に「インターナショナル」を歌いだしたら・・。「起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し 覚めよわがはらから 曉は来ぬ 暴虐の鎖断つ日 旗は血に燃えて 海を隔てつわれら かいな結びゆく  いざ闘わんいざ 奮い立ていざ ああインターナショナル われらがもの・・」 しかし「海を隔て」たものどころか、隣にいる若者とも結びつかないのである。わかものは単細胞生物のままである。「ワルシャワ労働歌」でも「インターナショナル」でも敵が見えている。しかし、もう敵は見えなくなっている。
 わずか30年〜40年で時代はまったく変わってしまった。00年代に若い男たちの小さいソサエティ、つまり世間が消えた。個々人の好みがあまりに細分化されてしまい連帯できるものがなくなった。だからナショナリズムのみが突出してくる。左翼的な祝祭がうまくいかなくなればどうしてもそうなる。
 火事、祭り、隣村との争い、そういったものが村の若衆の出番である。それがなくなってしまった。たとえば大学のサークルであれば、同学年とは仲良くなるが、上下の学年とはあまり交流しない。このようになっているのは、大人の男性の世界でも世間が壊れてきていることの反映に過ぎないのかもしれないのだが。
 すべてが機械化され便利になってきている世の中では、若い男の力というのはあまり必要とされない。まして軍事にかかわらなくていい日本では。便利な世の中になれば男はいらなくなる。余らせた男子の力をどう活用すればいいのかそれが大問題であると堀井氏はいう。発電にでも使えればいいのだが、と。それがないから、元気な女の子をまぶしそうに眺めていることしかできないのだ、と。
 「貧乏は正しい」のどこかで、橋本治さんが「資本主義とは、金はあるが体力がないじいさんが金はないが体力はある若者をつかって稼ぐシステム」というなんとも素敵な定義をしていた(と記憶しているが、今探してもどこだか見つからない)。しかし、どうも最近の資本主義は若者の体力をあまり必要としないようなのである。(だが、若者からしっかりと金を巻き上げることだけはする。)
 堀井氏はいう。ブラック企業ということがいわれだしたのは、2008年から。ブラック企業というのは決して公害をたれ流している企業のことではない。自分に残業代を払わない会社のことである。だからちゃんと給料をはらってくれるならば、公害垂れ流しであろうとホワイト企業である。ポイントは「働いている自分が大変」ということ。自分が見ている範囲だけからものを判断してはいけないというのは以前は常識だったのだが、今はそうでなくなっている。
 若者は本当に大変である。これからはグローバル・スタンダードということで、終身雇用や年功序列がなくなってきているのに、それへの対応も方策がまったく考えられていない。
 近年、大学への進学率は50%をこえるようになってきている。向学心に燃える若者が増えたためではない。日本が豊かになったためである。また社会が若い労働力をさほど欲していないということでもある。人は大きくなったらすぐに働かなければいけないと思うひとが少なくなったためでもある。学問のほとんどは無駄である。その無駄のなかから千に一つか万に一つ、とんでもなく有効なもの生まれる。こういったものは無駄がなければ生まれてこない。だから大学で習ったことが社会にでて何の役にたつのですかというような問いがでてくる社会は、なんとも幸せな社会である。20歳の成年男子がぶらぶらしていても怒られないなんて、なんとも素敵な社会である。
 「のびのび個性」といいつつ、「みんなにあわせろ」ともいう。まじめな若いものほどおかしくなるはずである。日本は、外から眺めれば、何とも平和でいい社会であるはずなのであるが、中にいるひとはその実感をもっていない。「こんな感じの幸福感ならいりません」ということになってきている。若者はそれぞれの自分の物語を持てといわれる。しかし自分の薄っぺらな物語をみるとみじめになるばかりである。
 「若者殺しの時代」の末尾のほうで堀井氏はいう。「実のところ、僕たちは近代国家が大嫌いなのだ。近代国家システムを放棄して何とかやっていけないかとおもっている。近代以前のシステムが好きなのだ。だから大敗戦後、国際社会から何か要求されても、「いえ、僕たち、敗戦国なので」とやんわり断ってきた。それで通るかぎりはやってきた。一種の鎖国である。」
 一部の人たちの平和憲法への執着というのもこれだろうと思う。要するに単なる近代国家になるのはいや、特別な国でいたいということである。せっかく戦争に負けたのに。もしも平和憲法を放棄してしまったら、戦争に負けたことの意味が何も残らなくなってしまうではないか。日本は単なる普通の一国家となってしまって、特別なところのなにもない国になってしまうではないか? 戦争のなかで死んでいった人たちの死は無意味な死であってことになってしまうではないか?
 堀井氏は文化だという。文明は便利、文化は理不尽。文明は頭の産物。文化は肉体の産物。文化はカラダで身につけるもの。
 確かにそうなのだろうが、近代の仕組みは成長を前提としてしまっている。昨日より今日、今日よりも明日が大きくなっていることが前提となっている。だが、近代国家ではどこでも、人口が減り始めている。女性に教育がいきわたると、どこでも出生率が低下すると、トッドがいっていた。それをカバーするには一人ひとりの生産性をあげるしかないらしい。しかし、そうやってものを作っても、それを必要とするひとがそもそもいなければ? そこで生まれてくるのが、強引な需要の創造、一家に一台から一人に一台という生産者側の戦略である。テレビも電話もみなその方向に動いている。その過程で家という単位が壊れ、個々人が孤立化していく。そして個々人が孤立化していくのが近代への動きであるなら、いまの若者の姿はまさに近代化の産物ということになる。だから、もう近代化などを目指すのはやめようよ。近世に戻ろうよというのが堀井氏の主張である。もちろん堀井氏もそんなことは無理だとはわかっているから、せめて今の生き方が絶対のものではなく、もっと別の生き方だってあることを知ろうよという。
 今はもう死語となってしまったが、わたくしが若い頃にはさかんに「封建的」という言葉が使われたものだった。親が決めた相手と結婚するなどというのは「封建的」、自分が選んだ相手と結婚するのが、何なのだろう? 「民主的」? 堀井氏がいっているのは「封建的」に戻ろうというということでもある。しかし、戦後営々として壊し続けてきたものを落語をきくくらいで取り戻せるとは到底思えない。
 今はまったく読まれなくなった作家に石坂洋次郎がいる。しかしわたくしが若いころには大流行作家で、新聞小説の大家という感じだった。「陽のあたる坂道」などが石原裕次郎の主演で映画になってヒットしたことを記憶している。といってもその小説をわたくしは読んでいるわけではなくて、以下に書くことは渡部昇一氏の「戦後啓蒙のおわり・三島由紀夫」という文にもっぱらよっている。
 昭和22年に「朝日新聞」に連載され、大ベストセラーになった「青い山脈」の明るさということを渡部氏はいっている。「若く明るい唄声に/雪崩も消える花も咲く・・古い上着よさようなら・・」(西条八十 詞 映画「青い山脈」主題歌) 「過去は暗く未来は明るいということが臆面もなく唄われ、それがまたみんなの実感に訴えたのだった」と渡部氏はいう。石坂氏の小説には、男の頬をひっぱたく女性が多く登場するのだそうである。戦前、威張っていた男性をひっぱたくということが、封建制の打破であり民主日本の証しともなるわけである。
 渡部氏の文は、その戦後の明るさがいつか失われ、閉塞感が漂うようになった、それを敏感に感じとって書かれた小説が三島由紀夫の「鏡子の家」なのであるということが主題になる。つまり「明るい」戦後はもう終わったということが、1959年に書かれた三島由紀夫の小説が描こうとしたものである、と。三島は炭鉱のカナリヤで、時代の変化を敏感に感じとったのかもしれないが、堀井氏は1991年に戦後は終わったという。いずれにしても戦後は終わったのである。
 そして今から思うと、戦後というのは野蛮な時代、野暮な時代であった。野蛮の対語は文明で、野暮の対語は粋である。落語は間違いなく文明の産物である。しかし粋という方向は何か明後日の方向のように思える。江戸はフランス革命を準備しなかったのだから。
 

寂しい国の殺人

寂しい国の殺人

わたしの詩歌 (文春新書)

わたしの詩歌 (文春新書)

貧乏は正しい! (小学館文庫)

貧乏は正しい! (小学館文庫)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)

クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)

腐敗の時代 (PHP文庫)

腐敗の時代 (PHP文庫)

江戸にフランス革命を!

江戸にフランス革命を!