S・ムカジー「病の皇帝「がん」に挑む」(1)

   早川書房 2013年8月
 
 購入したときの覚え書きに「近藤誠さんと正反対の立場の本であろう」というようなことを書いたが、まったく間違いではないにしても、かなり違っていた。若手の腫瘍内科医が書いているということだったので、確かに以前は抗がん剤の効果というのは非常に限局的で、時にはマイナス面が多いときもあったが、近年ようやくある程度効果的な治療法が確立されてきたというような主張の本だろうと思ったのだが、過去のマイナス面がかなり強調されているので、近藤氏に近い部分も相当ある。
 おそらく両者に共通する最大のものは、がんという病気は医療の歴史のなかで主として外科医が治療する病気とされてきたが、それは間違いではないのかという問題意識だろうと思う。著者は腫瘍内科医、近藤氏は放射線科医である。ともに旧来からのがんの治療のなかでは脇役で、外科医の手に負えなくなったときに、後はよろしくと、押しつけられるという敗戦処理のような立ち位置のことが多かった。
 手術で治療できない「がん」として血液系の悪性腫瘍(正確には白血病などはがんではないが、本書ではがんとして取り上げられている)がある。したがって、抗がん剤治療は主として血液系の悪性腫瘍でこころみられてきた。血液の悪性腫瘍では病気は最初から全身病である(リンパ腫などでは局所に限局したかたちでみつかることもあるが)。全身病であるなら手術という局所療法にはなじまない。問題は胃がんとか肺がんとかが局所の病気なのだろうかということである。外科医は基本的には局所の病気であるとしてあつかってきた。だから原発巣をふくめてなるべく広範囲に切除することが完治につながるとして、どこまで広範囲に切除しうるかということを競ってきた。
 近藤氏は乳がんの広範切除(いわゆるハルシュテット手術)の批判者として登場してきたと記憶している。乳がんはごく早期に全身にひろがっているのだから、局所を大きくとることには意味はなく、温存手術+全身療法の組み合わせで十分であり、それが望ましいという主張であった。
 わたくしが医者になった40年くらい前には乳がんの手術といえばまずハルシュテット手術であった。温存療法などというのは、女性の美容的見地などという生命からいえば些細なことを重視して、再発の危険をかえりみない患者におもねる邪道の手術であるといった扱いであったように思う。わたくしが医者になってから大きく変わってきたこととして、インフォームド・コンセントとか患者の権利の重視の台頭ということがあって、わたくしなどは女性の美容的な視点という、従来は無視されてきた問題が重視されるようになってきたことが温存療法の普及に大きな力になってきたであろうと漠然と思っていた。
 乳房の手術は女性の外観に非常に大きな影響をあたえる。しかし胃がんの手術のときにどこまでリンパ節を郭清するかということは患者の外見には影響しない。したがってどこまでを郭清するかということはインフォームド・コンセントの対象にはならならず、医者がまったく独自の判断でおこなっているはずである(患者さんとは相談しないにしても学会のガイドラインというものがあり、それには準拠しているであろうが)。そして手術法の選択であるから主として外科医の合意によってガイドラインも決められるはずである。本書の大きな主張の一つが、手術範囲拡大の歴史への批判である。そして歴史の大きな方向としては医療は手術範囲の縮小の方向に動いている。
 さて、がんはきわめて早期から全身にひろがっている。しかし単なる手術で治ってしまうものもたくさんある。それならそれはがんではなかったのだというのが近藤氏の「がんもどき」理論である。たとえば現在、乳がんという診断となっているもののうちの一部は手術を要さずに経過をみていいものがあるだろうということは本書の著者のムガジーも認めている。甲状腺がん前立腺がんと診断されるもののうちの多くも手術せず経過をみてもいい可能性があるとするものも多い。
 それをがんではあるが非常に進行が遅いものと考えるか、がんではないと考えるかである。がんといっても非常に多様であるので、その個々の性質によって治療法を選択するべきであるというのが常識の線であろうと思うが、近藤氏はがんとがんもどきの単純な二分法に大きく傾いているので、それで議論が迷路にはいってしまうのだと思う。
 近藤氏は治療ニヒリズムというのか、医療は善よりも悪を多くなしているという信念をもっていると思われるので、抗がん剤などは患者をいたずらに苦しめているだけで無意味であるとしているのであろう。この見方はヒポクラテス以来のもので医療において非常に大事なものであると思うが(それに本書でかかれているように多くの医者がポジテォイズムというのかイケイケどんどんでとんでもない害をなしてきたのも事実なのであるから)、本書で書かれているようにようやくがん一般の治療ではなく、個々のがんに応じた治療の方向が少しはみえてきたところなのであるから、ニヒリズムで何もしないという陣地にとじこもったままというのはまずいと思われる。近藤氏は挑まないのである。そんな必敗にきまっている戦いに挑むだけ無駄としているようである。しかし著者のムカジーは挑む側にいる。
 近藤氏も血液疾患の抗がん剤治療の有用性は認めているらしい。血液疾患はがんもどきではなくがんであり、血液リンパ系という全身にはりめぐらされた系の直接薬物が届くので有効ということなのだろうか? というか統計的な事実として血液疾患においては有効性が示されている、しかし、それ以外の腫瘍ではそうではないということなのであろう。とすれば本書で示されているようなことをどう解釈するかなのであろう。
 
 本書のもう一つの大きな論点は、予後が絶対的に不良で有効な治療法がない場合に、実験的で冒険的な治療、いわばだめでもともとというような治療が許されるのかという問題である。抗がん剤の歴史はそのような試みの歴史なのである。
 本書の最初の章は、1947年、当時なすすべのない病気であった小児白血病にトライされた葉酸拮抗剤の話からはじまる。葉酸が悪性貧血に効果があることを知ったある医師が、同じ効果を白血病でも期待できるのではないかと考え投与したところ、かえって進行を促進してしまった。そこからが凄いのだが、もし葉酸白血病を悪化させるのであれば、葉酸拮抗剤なら効くのではないかと考えて、患者への説明も同意の取得もなく投与するのである。最初の薬はきかなかった。しかしその構造をわずかに変えた薬は効いた。白血病は血液中の白血球数という治療効果の客観的な指標がある。これは治癒ではなく寛解(血液疾患で多く使われる独特な用語で、一見よくなっていてもまだまだ安心はできないというニュアンスをふくむ言葉)に過ぎないのではあったが。
 この医師の試みは多くの同僚を激怒させたのだという。「小児白血病の患者は、いずれにしろもう死の床にいるのだ。静かに死なせてあげるほうが、より親切で思いやりのあるおこないではないだろうか?」という医師が大勢のなかでの、孤軍奮闘であったらしい。
 葉酸拮抗剤は数ヶ月の寛解をもたらしたが、やがて病気は再発した。それは一時的な効果であった。しかし「進行の速い全身性のがんが一種類の化学薬品で(一時的にせよ)消えるというのはがんの歴史上前例のないことだった。」
 ということで、本書は基本的にがんの化学療法の歴史をしめしたものなのだが、それと平行してがんの外科的治療の歴史をもたどっていく構成になっている。
 

病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘 上

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