池田信夫「「空気」の構造」

   白水社 2013年
 
 池田氏はネット言論の世界での有名人ということらしい。以前、ハイエクについての本をとりあげたことがある。
 本書はいままでに書かれてきた多くの日本人論のなかから、池田氏の問題意識にそって、主として日本人の意志決定の問題を論じている。丸山真男山本七平が議論の中心となる。
 「はじめに」で、国際的なアンケートでの日本人の特徴として、祖先には霊的な力がある、自然を支配するのではなく共存する、職場では人間関係が一番大事、仕事より余暇のほうが大事、余暇は一人で過ごす、国のためには戦わない、という項目への賛成率が世界一位であることが紹介されている。そのほか、リスクはすべて避けるが2位、自国に誇りをもっていないが4位、宗教を信じていないが5位。出典の本は昨年の出版であるが、いつ行われた調査であるかは書かれていない。安倍首相が悲憤慷慨しそうなデータであるが、今なら少し違う結果がでるかもしれない。
 わたくしが驚いたのは、仕事より余暇が大事が1位でありながら余暇は一人で過ごし、職場では人間関係が一番大事と思っているという不思議な結果で、職場はとにもかくにも人間関係が煩わしく、だから仕事は嫌いで余暇が大事なのだけれど、余暇にまで人間関係の煩わしさを持ち込みたくないから一人ですごすということなのだろうか? 仕事の後、仲間といく縄のれんなどというのも、やはり余暇ではなく仕事の延長でいやだいやだ早く一人になりたいと思って無理につきあっているのだろうか? 人間関係が大事だから・・。
 序章「「空気」が原発を止めた」では、2011年3月11日から2ヶ月の5月6日に管首相がおこなった「浜岡原発の運転中止命令」のことを論じている(ちなみに池田氏原発推進論者らしい)。しかし首相には原発を止める法的な権限はないのだろうである。それをつかれて「指示とか命令という形は現在の法律にはないので、要請した」と管首相はこたえた。事故後に要請されたストレステストも法的根拠はない。もしもこれを受け入れると中部電力には巨額の損失がでる(3千億位?)。政府の命令なら国家賠償を請求できるが、要請を受け入れたということに自主判断なると、それはできない。当初は「各地の原発の安全性には信頼性が持てるが地震発生の確率の高い浜岡だけは別」という発表の予定だったのだそうである。浜岡を例外として原発停止の世論のガス抜きをしようというものだったのだそうである。それを管首相が自分で発表するといいだし、発表文も変えてしまった。それで浜岡中止が前面にでて、ほかは安全は飛んでしまい、各地の自治体からの自分のところも止めろの要求の殺到で収集がつかなくなってしまったのだという。
 ストレステストには法的な根拠はないが(テストを命じる法律もなく、省令も閣議決定も通達も出されていない。A4で3ページのメモだけで、3人の大臣の名前が書いてあるが公印もなく、文書番号もない、誰でもワープロで打てるようなもの)、管首相はストレステストが終わらないと再稼働は認めないといった。ストレステストは実施され、すでに提出されているが、保安院は大飯3・4号機と伊方のものしか原子力安全委員会に送付していない。あとは店晒し。
 これは法的には何の根拠もないストレステストを、役所が「他のプラントは動かすな」という暗黙の指示であると受け止めたためなのである、と。中部電力の幹部は「当局の機嫌をそこねたら何をされるかわからない」からという。それで再稼働できないままでいる。池田氏は、「原発が恐い」という「空気」がすべてを決めて、あらゆる法規に優先してしまう日本の一つの例としてこれを提示し、そのような「空気」の問題を以下で論じていくとする。
 今、問題となっている日展の問題だって、どこかに文書があって「入選したいと思えば、指導者に100万円もっていくこと」などとはどこにも書いてはないのである。これは義理と人情の日本の美しい伝統の産物かもしれないので、「調停いろはかるた」(これは川島武宣「日本人の法意識」に紹介されているものらしいが、わくしは内田樹「日本辺境論」で知った)ではないが、「なまなかの法律論は抜きにして」「権利義務などと四角にもの言わず」「白黒をきめぬ所に味がある」「論よりは義理と人情の話し合い」なのであるから、池田氏はずいぶんと日本人らしからぬところがあるひとなのだろうなあと思う。法律に訴えるなどというのは野暮、話し合いでいくのが粋。「日本人の法意識」にもでてきたと思うが、「三人吉三郭初買い」「大川端庚申塚の場」が日本人には不動の人気なのである。(「子細は後で聞こうから不承であろうが此白刃、己に預けて引いて下せえ。」)
 それで日本人論であるが、まずベネディクトの「菊と刀」。客観性の高い(反証可能な)論であることが評価されている。次がマルクス主義陣営内での「講座派」と「労農派」のあらそい。これは明治以来の日本人に共通する西洋に対する劣等感の一つの変奏という側面もあるとされる。講座派の理論はマルクス主義には直接かかわらなかった知識人にも、「近代化論」「近代主義」の問題として日本を後進国とみる見方として広く浸透していったという。上述のカルタの川島武宣丸山真男大塚久雄近代主義の教祖として挙げられている。これらの近代主義は普遍主義でもあるが、その普遍がつねに日本の外にあるものと考えられてきたため、それに反発するものが国粋主義にいくという不毛が戦後の「論壇」の特徴となったと池田氏はいう。
 その視点とはまったく違うものとしてでてきたのが梅棹忠夫「文明の生態史観」で、従来の発展段階説に対する地理決定論を提示したものとして新鮮だったが、スケッチにとどまりその後の発展はなかったとされる。
 次が中根千枝「タテ社会の人間関係」。ここでのタテ社会とはタテ割り社会(あるいは丸山真男の「タコツボ型」)のことである。日本社会は上下関係によると主張しているのではなく、タテ社会のなかでは平等であるといっているのだが、それが題名のために誤解されている、と池田氏はいう。職業的な「資格」でつながるのがヨコ社会(インドや東南アジア)であるが、日本では特定の職場という「場」に依存する。中根氏の論の欠点は歴史という視座を欠くことであると池田氏はいう。
 次が土井健郎「「甘え」の構造」だが、あまり議論はされず、水利社会論などにいってしまう。
 で、次が「空気」という言葉のでどころである山本七平の出番となる。
 本書は日本人論一般ではなく、副題の「日本人はなぜ決められないのか」にあるように、意志決定の問題を主として論じている。でも、「決められない」のではなく「決めたくない」のかもしれない。なぜ「決めたくない」のか? 決めると「角が立つ」から。なによりも大事なのは人間関係であるなら、「角が立つ」ことは人間関係が壊れることであり、もっとも忌避すべき事態ということになる。
 ではそういう日本人のやりかたは万古不易のものなのか? それともたまたま最近の日本人に限って見られるものなのか? 多くの日本人論は暗黙のうちに万古不易説を前提にしているように思う。しかし、万古不易であるのは、自分が所属する共同体を最優先するという志向なのであるとすれば、これは日本にかぎらず世界のどこにおいてもみられることなのかもしれない。所属する共同体が永遠不滅であるのなら、角がたたないことを最優先にできる。しかし、自分の共同体がひょっとするとなくなるかもしれないぞと思えば、角がたとうとたつまいと、共同体の維持のほうを優先するかもしれない。
 グローバリズムの持つ意味というのはそこなのだろうと思う。世界標準が当然となってくると、自分の立脚する共同体自体の消失が意識されてくる。そうなると人間関係どころではなくなるかもしれない。明治維新のくりかえしである。
 山本七平イザヤ・ベンダサン)の「日本人とユダヤ人」でいわれるように「日本のように2万年前に大陸から切り離されて以来、まったく対外的な戦争を経験していない大国というのは世界にない」のだが、グローバリズムというのは、ふたたび大陸と合体していくという潮流なのかもしれない。だから、平和憲法が世界標準はいやというせめてもの意志表示となる。日本のなかで暮らしている限り、自分がこうすれば相手はこうするだろうというのが大体推測できる。義理と人情でいける。しかし、もし世界にでていかなくてはいけないとすれば・・。「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」(漱石草枕」) だが、海のむこうが人でなしの国に見えるのである。
 グローバリズム平和憲法・・。村上春樹がいっていたけれども、湾岸戦争のときにアメリカにいて日本のとっている態度をまわりに説明しようとしたが、それは絶望的に困難であった、と。これは日本人のなかでしか通じない論理なのだ、と。
 山本七平氏が論じたのは、もしも組織の維持、組織内の人間関係が最優先されるのであれば、その組織が何をするものであったのかということがないがしろにされるようになるということである。目的意識が欠如した「自転する組織」。軍隊が戦争の目的を考えず、自分の所属する部隊をいかに効率的に動けるものにしていくかを第一にするようになる。全体の戦略がなく、声の大きいものの主張が通っていく。
 「空気」というのは山本氏の発明?した言葉であるが、単にその場の雰囲気ということではなく、その場のもつ同調圧力をも指す。有名な戦艦大和出撃の「全般の空気よりして、当時も今日も特攻出撃は当然と思う」(小沢治三郎中将)であり、「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答える以上に弁疏しようと思わない」(豊田副武指令長官)である。(思うのだが、この作戦がたてられた当時、すでに日本の敗戦は必至と考えられていて、その中で途方もない費用をかけて建造された文字通り日本人の血と汗の結晶である大和を、むざむざと一戦も交えずに敵の手に渡してしまうなどは到底承認できない、少なくとも一矢は報いざるべからず、というのが当時の「空気」なのではないかと思うのだが違うだろうか? だが、敗戦必至などということは誰も口にはできない。だからそれは「空気」として働かざるをえないということだったのではないだろうか?)
 山本七平「「空気」の研究」は公害反対運動批判の書であった。正確には覚えていないが、イタイイタイ病の原因はカドミウムではないというということが中心だったように思う。だが当時、「ある小冊子で、専門学者が公害問題について語っているのを読んだが、多くの人は「いまの空気では、到底こういうことはマスコミなどでは言えない」という意味の発言をしている」ということがあり、それでは大和出撃の「空気」とまったく同じことがおきているではないかという批判をしたわけである。
 そして池田氏は現在の原発批判も空気となっていて「到底こういうことは言えない」という雰囲気になっていることを批判するわけである。しかし、山本氏はイタイイタイ病の原因はカドミウムではないかもしれないとするのであり(当時、読んで山本氏の論は説得力があると思った)、イタイイタイ病という病気がないとしているわけではない。これだけ大きな原発事故という歴然とした事実があるわけだから、それを「空気」と批判することは問題があるように思う。
 山本氏は日本人の問題点として「可能か・不可能か」の探求と「是か・非か」という議論が区別できなくなることをあげている。ある会社の経営がうまくいかなくなった場合、もしそれを打開できる方策があるとすれば、これしかない。しかし、それがうまくいく可能性は1%あるかないか、ということになった場合、もしも打開できるとしたらこの方法しかないのであれば、たとえ成功の可能性はほとんどなくてもそれに賭けるという選択は日本人では多くされるのではないかと思う。
 この問題は医療でもしばしば遭遇するのだが、医療の場合は生命の一回性ということがあって経営の場合と同日に論じることはできないけれども、経営の場合、ある時にギブアップすれば1億の負債であったものが、万が一の可能性に賭けて結果が10億の負債に終わるということはありうるように思う。
 山本七平氏は不思議なひとで、「「空気」の研究」のような日本人の思考法への根源的な批判者であったのと同時に、「日本的経営」のようなものの大の擁護者だった。自身、山本書店店主という一人出版社の経営者であり、周囲にも小出版社の経営者をたくさんみていて、丁稚・手代・番頭・のれん分けといった旧来の日本のやりかたがいかに合理的なものであるかもうまず説いていた。規模が小さいとそれはうまくいくのかもしれない。しかし軍隊のような大きな組織になると欠点が露呈してくる。顔のみえる範囲であればうまくいくのだが、それが見えなくなるくらい組織が大きくなると、無理にるのかもしれない。
 丸山真男氏はこういっているのだそうである。「高度成長をぜんぜん予想できなかった。これが最も誤った点。こんなに豊かになるとは思いもよらなかった。」 それで現実政治への発言をやめたのだそうである。資本主義が、古い自民党と村落共同体型の企業によって実現してしまったことが氏にとっての最大の謎だったのだという。封建遺制のような日本的経営が長期視野にたったすぐれた経営と賞賛されるようになり、「集団主義」と揶揄された日本人の行動が「統制のとれたチームワーク」といわれるようになった。丸山氏は近代化には個の自立が必須と考えたのだが、それなしに「近代化」が実現してしまったように見え、丸山氏は現実政治への関与に自信を失ったらしい。
 しかしと池田氏はいう。近年のグローバル化の進行による世界の変化を会社というタコツボ型共同体では吸収できなくなってきた昨今、古い組織を個人単位の市民社会へと分解して変化に柔軟に対応できるようにしていくことが要請されているのだ、と。
 池田氏によれば、個人の自立は、非正社員の増加による会社という共同体の崩壊として実現しつつあるのだそうである。しかし非正社員の増加を「個人の自立」の現れとして歓迎しているひとが多くいるとは到底思えない。「『丸山真男』をひっぱたきたい」赤木智宏氏は正社員になれないままでいれば自分は死ぬしかないとまで思い詰めている(「いまでこそフリーターは、私のように親元で生活できている人も多く、生死の問題とまで考えられていなのですが、親が働けなくなったり死んだりすれば、確実に生死の問題となります」)。あるいは主夫になりたいともいう。
 「個人の自立」とは自分の頭で考えられるようになることである。そして自立の前提は自分で食べていけることであり「恒産」がなければなかなか「恒心」はもてない。会社から放り出されて、会社という共同体の外にでたのだから、あなたは個人として自立しましたなどというのはあまりに無茶な議論である。
 バブルの絶頂期、「ニュー・アカ」ブームのころ、会社あるいは家族といった共同体から「逃走」して個人として生きることが格好のいい生き方であるようなことが喧伝されたことがあった。そのころは週に何回か適当に働けば組織に所属しなくても生きていけると思われていた。今と違ってフリーターというのが格好のいい生き方だった。それは労働力の流動化をねらった資本の側の陰謀だったのかもしれないが、そのころは「個人が自立」していたのかもしれない。しかし、それは脆い基盤の上にあったので、いったん正社員でなくなるとあっという間に路上生活者に転落などということがいわれるようになると霧消してしまった。「個人の自立」というのはその程度の根しかもたないものだった。
 グローバル化の時代になってみるとやはり丸山真男の近代化路線は正しかったかもしれないなどというのは無理筋の議論である。丸山真男は高度成長も予言できなかったのと同じにグローバル化も予想していない。池田氏のようにいうのであれば、橋本治氏のように「貧乏は正しい」のであり、若者であるということはすなわち貧乏であることでもあるのだとしなければ筋が通らないと思う。
 橋本氏は「個人の自立」を説くひとである(「必要なのは・・“自分の頭で考えられるようになること”−日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから、日本人に終始一貫求められているものは、これである。これだけが求められていて、これだけが達成されていなくて、これだけが理解されていない。(「宗教なんかこわくない!」))。と同時に仕事の場における人間関係が人を人たらしめると説くひとでもあり、また「社会主義者」でもあるので(「貧乏は正しい」は「17歳のための超絶社会主義読本」である)、池田氏とは路線が全然違うのだが。
 「会社は好きじゃない、会社のありかたには疑問を感じている、がしかし、その会社からは抜けられない」とまともな頭を持った人間なら考えていて、だから日本の会社社会は、根本で行き詰まっていると橋本氏はいう。これは冒頭で紹介したアンケートと見事に対応しているのかもしれない。
 昔は自分で考えなくても宗教が答えをだしてくれていた。しかしとっくの昔に日本人は宗教など信じなくなるという大変なことを見事になしとげた。そうであれば、宗教は答えを示してくれなくなるのだから、自分で考えなければいけなくなるのだが、しかし宗教は否定しても、答えはどこかにあるはずという思い込みまでは克服できていないので、誰か偉いひとであるとかとにかくどこかで自分の外にいるひとが自分に指示をしてくれるひとを待っていることになる。
 だから会社は単なる生活の場、生活の資を提供してくれる存在ではなく、自分に生き方の指示をくれる存在であることまで期待されることになってしまった。ある時期の日本ではたぶんそれが一見成功していた。会社に余裕があるときはそれが可能であったのかもしれない。しかしそれは土台無理筋な話であるから、会社のほうもそんな期待に応えることに疲れてきた。そんな過大な期待をしないでくれ、会社は単なる利潤追求のための組織なのだから、生きがいなどは各自で独自に追求してくださいということになった。それで多くのひとが二階に登ってはしごをはずされたような奇妙な不全感のようなものを感じている。
 つまり、自分の頭で考えるなどということはとてもしんどいことなので、誰かからこうしなさいといわれるほうが楽なのである。艱難辛苦汝を玉にす、という生き方がいいとはいえないわけで、楽な生き方が悪いということは少しもないのだが、生活が苦しくなると自分の頭で考えるようになるということは多分なくて、貧すれば鈍してしまった、いやなことでもしなくてはいけなくなるのだから、池田氏のいうことはどうも納得できない。村上龍の「13歳のハローワーク」のほうがずっとまともなように思う。
 「武士のエートス」と「失敗の本質」はとばして、「日本的経営の神話」のほうにいこうかと思うが、長くなりすぎたので稿を変える。
 

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

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