渡辺京二「近代の呪い」(2)第一話「近代と国民国家」

 
 時代区分について:以前は近代は政治ではフランス革命以後、経済では産業革命以後、つまり資本主義社会の成立後とされていたが、ブローデルやウォーラーシュティンらの影響で資本主義の成立が16世紀とされてきたので、近代の定義が文化の面のルネサンス宗教改革という主張と一致することになった。
 日本では16世紀以降を近世、明治以降を近代とするが、これは日本特殊な名称で日本以外では、両者とも近代である。しかし、アーリィ・モダンとモダン・プロパーという言い方もあるので、これなら日本の近世と近代に一致する。
 3つのテキスト:1.秋瑾女史のもの 日ロ戦争で出征する兵士とそれを送る日本人をみて、「日本人はかように心をあわせ、軍人をこんなに尊んでいる」と感激している。この国民の一致がロシアを打ち破ったのだ、と。戦後の日本人が蛇蝎のごとく嫌って来た国家主義的思想を、滅満興漢を掲げる革命家は賛美していたという例。2.福沢諭吉のもの 明治17年に、自分の税金には文句をいう国民が外国との関係には関心ももたないと嘆いた文章。3.幕末から江戸にかけて生きた博打打ちの回想 そのときの政治の動きなどにはとんと関心がなく、その日その日を送っていたという話。
 そこから渡辺氏がいうには、「自分たちの生活領域こそ信ずべき実体であり、その上にそびえ立つ上部構造は自分たちの実質的な幸福と何の関係もないとする下積みの民衆の信念」が明治のある時期までは健在であったのだと。「民衆世界が上級権力によって左右されない自立性をもっていた」ということである、と。
 近代とは、そのような民衆の自立性が撃滅された時代である。国のことなど我関せずの困った国民から、よろこんでお国のために死ぬ国民への転換が図られた時代である。
 フランス革命がそのような中間団体を解体したのである。ナポレオンが国民国家を完成させた。強力な国民国家を作れた国が世界の覇者となる時代となっていった。
 市民社会ということがいわれる。イギリスやフランスの革命後、自分の権利に目覚め国政に関与しようとする市民が生まれ、それが議会制度の担い手になったのだ、と。戦後論壇のオピニオン・リーダーは市民社会という言葉を呪文のように唱え理想化した。
 しかし、それは国民国家の強靱化のためという側面をもっていたことを忘れてはならない。市民社会といっても国家内の話である。国際社会の場からみれば市民の利益と国家の利益は相関する。市民社会国民国家の統合を強化する役割をも果たす。徳川時代の民衆は米の値段が上がれば一揆をおこしたが、ロシアに弱腰だと一揆をおこすことなど絶対になかった。
 史上に例をみないような民族的圧迫とジュノサイドは20世紀になったはじめて出現したことを忘れてはならない。市民的自由とか民主主義とかいわれるようになると、かえって民族浄化とかがいわれるようにもなる。これは国民教育の成果なのである。世界経済がグローバル化すると、自分の属する国家の地位が自分の生活に直結するようになる。グローバリズム国民国家を強化する。国益以外のことは無視されるようになる。また、社会の福祉化、人権化、衛生化がすすむと、個々人はますます国家あるいは社会の管理下にはいっていくことになる。禁煙などの社会環境の無菌化、衛生化が進む。
 ところで民衆世界の自立性ということは必ずしも共同体に直結するわけではない。そういう側面はあるが、それはセーフティネットでもあり、個人の自発性や能動性にねざす部分もある。
 坂口安吾は「先ず『人間は生活すべし』という根本の生活意識や態度が確立されていないから、政治に走ったりするのだ」といっている。以前の自立した民衆社会にはそれがあった、と渡辺氏はいう。そこでイヴァン・イリイチがでてくる。イリイチはそういう自立的な民衆の世界が開発と経済成長で滅ぼされていくことに強い危機感をもった思想家だったのだ、と。渡辺氏は時代錯誤であり時代に逆行するとしても、自立した民衆世界の方向にはまだ豊かな可能性があり、われわれの未来の構想にも多くの示唆をあたえるとしている。
 19世紀のモダン・プロパーのもう一つの特徴が知識人の出現であると渡辺氏はいう。この知識人とは官僚や技術者やテクノクラートまでもふくむ広い概念で、要するに天下国家について知識をもって論じる人なのである、と。ロシアでのインテリゲンチャというのは「社会に対して道徳的責務を自覚するひと」のことをいった。
 過去の政治家や官僚は社会の改造とか民衆の教育などということは少しも考えていなかった。王権の秩序の維持にしか関心はなかった。しかし、トマス・モアあたりから社会は設計できるものであるというアイディアがでてくる。ここから万人のためという思想とヒューマニズムの思想がでてくる。徳川の名君の仁政は民の安寧と福祉にこころを砕いたとしても、社会の改造などはまったく考えなかった。しかし荻生狙来などが社会は人為の制度という考えを出してくる。ではあっても、献策はしても社会を変えようとまではしなかったのだが。
 社会改造の意志をもつ知識人の最初の明確な出現はフランス革命前のフィロゾーフたち百科全書派である。彼らは理性による現実の支配を考えた。近代知識人とは国民国家の創造をその使命とする存在である。国民を教育し改造し世話をやこうとする存在である。かれらは民衆世界の自立性の破壊の張本人である。知識人にはもう一つ世捨て人タイプというものもあり、国家とか社会のために存在する人間のありかたは虚偽で、世間を捨ててこそ人間の実存が成り立つとする。しかし、それについては今は論じない、と渡辺氏はする。
 管理社会はケアを提供する。狭い範囲の福祉を実現するためにも経済的な基盤が必須であり、それを管理運営するひとなどさまざまひとがそれに必要とされる。現在では身体的なケアばかりでなく、こころのケアまでいわれる。
 しかし、ほんとうにそんなものがみな必要なのだろうかと渡辺氏はいう。高齢化の進行でそういうものが必要であることは認めながらも、一生が仲間内で完結していた時代の自立性にあこがれるという。自分は国家の介入を否定する市場万能主義者ではなく、ケインズ主義の適切な復権が必要と考えるものであるが、人格の尊厳と自由のためにインテリ集団の管理からは独立していたいという。たとえ彼らの助けをうけることが必要であっても精神は自立していたい、と。そんな夢みたいな虫のいい話があるかという批判があるであろうことは充分承知しているが、と。
 もしも、世界経済の中で自国が沈没するのは、景気が悪いことが原因であるとほとんどのひとが思っている現在、民族国家の対立や競合を克服する方向というのはあるだろうか? もしも外国人の参政権をみとめるとか、移民を歓迎するといったとしても、それは自国の利益になるという前提があってのことである。サッカーだって世界戦争の代理現象である。これは避けられないことではあるが、不愉快なことである、と渡辺氏はいう。自分がそういうふうに国家に規制されていること自体が不愉快である。自分自身はそういうふうに国家から支配されたくない。自由な一人の人間として生きてものを考えたい。
 われわれは自分の国を嫌悪することはできるが、国の運命から自分を切り離すことはできない。自分は知らないよ、という態度はとれない。
 国家にからめとられていくことで、われわれは実質的な人生のよろこびから遠ざかっていく。こういう状態を進行させた責任の非常に多くが自分たちにあることは知識人は深く自覚していなくてはいけない、そう氏はいう。
 
 渡辺氏は世捨て人系の知識人なのだろうか? どう考えてもそうではない。氏はいまだに「左翼」のひとなのである。
 それなら、亡命ができる知識人? ヨーロッパの知識人をみていると亡命者が多いことに驚嘆する。一流の知識人にはドイツやオーストリアハンガリー系が多く、ナチス時代に亡命を強いられたということは大きいのだと思うし、ヨーロッパの言語は基盤が同一であるから言語についてもなんとかなるということもあるのかもしれないが、それでもあの逞しさというのはわたくしの理解を超えている。
 内科の医者は言葉で8割くらいの仕事をしているから、日本語が通じないところでは、内科医であるわたくしはほとんど仕事ができないから、まず食べていけない(医師免許も通用しない)。渡辺氏は亡命して生きられるひとだろうか? 渡辺氏は日本の問題の専門家である。そういう問題を論じることが日本以外でどの程度必要とされるだろうか? 氏はおそらく長い間予備校で教えて食べていたはずで、何を教えていたのかは知らないが、語学の能力はわたくしの少なくとも100倍くらいはあるであろうから、それで生きていくことはできるかもしれない。
 しかし、ここで論じられていることから推測すると、氏は日本の国土から切り離されると根が絶たれてしまうひとなのではないかという気がする。西洋の学問は国境を越える普遍性を持つ。その普遍性が亡命を可能にするのだろうと思う。しかし日本の人文学は日本の特殊を論じるのだから普遍性に乏しい。
 昭和前期の日本人にとって国家というのは本当に重いものだったのだろうと思う。(たとえば遠藤周作「どっこいショ」) 日本の終戦直後の奇妙な明るさというのは、頭の上に乗っていた重い重い国家が急に消えてしまったように思えたことによるのだろう。Occupied Japan ということは、国というものに責任を持たなくてもいいということである。国民国家の重さからその時、一時的には逃れることができた。しかし、昨今の日本においてはふたたび国家が重くなってきている。グローバル化ということは世界の中での日本ということをつねに意識しなくてはならなくなることである。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」などと言っても駄目で、なぜなら国際社会とは「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」世界ではなく、互いに相手を蹴落とそうと狙っている国民国家の競争の場であるのだから。
 戦後の一時的な空白のなかで「中間団体」として機能したのが「会社」であったであろう。それは「セーフティネットでもあり、個人の自発性や能動性にねざす部分」さえもあった。「自分たちの生活領域こそ信ずべき実体であり、その上にそびえ立つ上部構造は自分たちの実質的な幸福と何の関係もないとする下積みの民衆の信念」もそこにはあったかもしれない。
 しかし、「中間団体」として機能していたりしていては、競争に勝てないぞ、世界との戦いで敗者になってしまうぞ、というのが、昨今の非正規雇用の問題の根っこにある動機なのであろう。「生き甲斐」の提供などということを会社に求められては困る。会社とは利益追求のためのドライな「機能集団」であるべきであり、ウエットな「共同体」としての相互互助組織であることまで求められるのは心外である、と多くの経営者は考えているようである。
 まさに国民国家化による「中間団体」の破壊がいまおきてきているのかもしれない。「平和憲法」というのは「世界から降りる」という宣言であった。そこでは国家間の競争は軍事力によると想定されていた。しかし競争が経済力によるものとなってしまったとすれば、そこから降りるわけにはいかない。
 バブルの頃には「日本的経営」が世界を制したと思ったひとがたくさんいた。日本のやりかたがグローバル・スタンダードになるという錯覚さえその時期には生じた。それが錯覚であったといえるのは、その後の歴史を知っているからである。歴史は結果が判明するとそれが必然であったように思えてしまうが、事前には未来にはさまざまな可能性があり、将来がどうなるかは誰にもわからない。しかし、何かがおきてしまえば、観察によって「波束の収束」が生じる。
 渡辺氏は中間団体が失われ、個人の上にいきなり国家がきてしまうことの不幸をいう。しかし江戸の末期に公のことなど我関せずでいた普通の人々は「個人」だったのだろうか? 近世というのはまだ「個人」がいない時代であり、近代というのは「個人」がいる時代なのではないだろうか? なぜなら「個人」というのは西洋の発明品であり、明治以降に日本に輸入されたものだから。そして幕末に尊皇だ攘夷だと眦を決していた変なひとたちだって、民のことなどは少しも考えてはおらず、考えていたのは藩のことであったのだが、争いの結果として権力を握ってしまったら「国家」に直面せざるをえなくなったということであり、そのために国民を創造せざるをえなくなり、しかし国民というものと個人というものをわけて醸成することは不可能であったので否応なく個人という考えかたも輸入されてしまった。
 国に奉仕する国民と自分に奉仕する個人というのはベクトルが真逆であり、明治期の指導者は個人などというものは輸入したくもなかったであろうが、そういうわけにはいかないのである。個人が輸入品であることによる混乱を示すのが明治から大正にかけての多くの変梃な小説であろう。
 中井久夫氏が以下のようなことをいっている。「成熟とは、自分が大勢のなかの一人であり、同時にかけがえのない唯一の自己であるという矛盾の上に安心して乗っかっておれることである。」
 国からみれば自分はまったくのワンノヴゼムであってとるにたらない存在である。国は、かけがえのない唯一の自己などという太平楽はまったく無視してかかってくる。赤紙一枚で命をとりにくる。「滅私奉公」がその要求である。敗戦後、そういう国家が消えた。とすれば国家は自分のために何かしてくれる存在としてのみ意味があることになる。かけがえのない唯一の自己を最大限に実現するために奉仕してくれるべき存在、それが国家であるということになる。
 この「近代の呪い」を読んでいて、6〜7年前に読んだローティの「偶然性・アイロニー・連帯」を思い出した。難しい本でほとんどなにをかいてあるのかわからなかったけれども、どうも「公共的なもの」と「私的なもの」ということを論じているようであった。
 ローティはその二つはまったく別個のもので、それを統一する「大理論」などはどこにも存在しないとしていた。「いつ不正に対して立ち向かうべきで、いつ自己創造の私的な営みに没頭すべきかを、いかにして決定するのか」という問いに対する答えはないのだというのである。そう考えるひとをローティはアイロニストとよび、アイロニストたる知識人の数は少数で、大多数のひとはいまだに宗教的な信念か、啓蒙の合理主義の陣営にいるのだという。
 わたくしは自分のことを大部分は啓蒙の合理主義の側にいて、時々アイロニストになる人間であるのかなと思うけれども、それは公共的なものへの関心が乏しいことによるのだろうと思う。
 ローティの本では「残酷さこそ私たちがなしうる最悪なことどと考える人びとがリベラル」なのであるとされる。そうであるならわたくしはリベラルであるのかもしれない。しかし「見知らぬ人びとを苦しみに悩む仲間だとみなすことを可能にする想像力」というのにはついていけない。大江健三郎は苦手なのである。その点でわたくしはフォースターの陣営にいるのだろう。
 ローティはそのような想像力を可能にするものとしてたとえば小説をあげていて、ディッケンズなどがその例であるとしている。このローティの本の扉にはクンデラの「小説の技法」からのかなり長い引用が置かれている。「この想像力に富む寛容の空間は、近代ヨーロッパとともに生まれました。それはヨーロッパのイメージであり、というか、少なくともヨーロッパにいだく私たちの夢です。・・しかし、個人が尊重される世界(小説の想像的世界とヨーロッパの現実的世界)がもろく、はなかいものであることを私たしは知っています。今日、ヨーロッパの文化が私にとって脅かされているように見えるにしても、個人の尊重、個人の独創的な思想と侵すことのできない私的な生に対する権利の尊重、このヨーロッパ精神の貴重な本質は、私には宝庫というべき小説の歴史のなかに、小説の知恵のなかにあずけられているように思われるからです。」
 このクンデラの言葉はアイロニストであるよりも啓蒙の合理主義の伝統のなかにあるように思われるけれども、プラハの春を経験すればアイロニストたらざるをえないのかもしれない。
 イヴァン・イリイチは今ではもうほとんど忘れられた思想家ではないだろうか? たぶんある時期、「反体制」の思想家として一時注目され、それが復古の思想家であるとわかって捨てられてのだろうと思う。ソルジェーニチンなどもそうではないかと思う。ソヴィエト権力と戦うひとだと思ったら古きロシアへの復帰を説くひとだったのである。進歩の側のひとではないとわかってしまったのである。
 イリイチ(当初はイリッチと表記されていたように思う)の本は「脱=病院化社会」を読んだ記憶がある。イリイチは学校という制度にも反対していた。反=管理なのである。渡辺氏もいうように教育学校というのは国家が国民をつくりあげるための制度という側面が色濃くあるから、反=管理のひとがそれに反対するのは当然である。病院だって管理の組織である。その根底には、命というものは管理可能であるとする見方がある。その管理をもっとも効率よくおこなうものとして病院がある。
 教育の国家管理に反対していたひとの多くは現在の体制を教化されることに反対していたのであり、自分たちが権力をえたら自分たちの考えで教化することは当然と思っていたわけだから、イリイチの反=教育の方向は当面は味方とみなすことができた。しかし彼らは進歩の側の人間であるから病院という制度への否定などは理解の外であったであろうと思う。
 イリイチが守ろうとしたものは「自立的な民衆世界」なのだとされる。しかしインテリの多くは、指導したいひと導きたいひとなのであるから「自立した民衆世界」などは因習をひきづる蒙昧な世界である。だが、そのイリイチの世界を渡辺氏はどうしても捨て去ることができないらしい。民衆の自立した世界はすでに決定的に堀り崩されており、回復すべくもない現状であることを充分に認めながらも、それでもそれはわれわれの未来の構想に多くの示唆を与えてくれるとするのである。
 おそらく「逝きし世の面影」を書く理由のかなりが江戸の時代にはあった「民衆の自立した世界」を示そうとすることなのであろう。しかし、その江戸の時代には便利も快適もなかった。われわれは便利と快適をとったのである。そしてその便利と快適を近代のもたらしたきわめて大きな成果であることを渡辺氏は十二分にみとめるのである。衣食住の圧倒的な豊かさそれは近代のもたらした圧倒的な果実であることを承認し、それは絶対的によいことであるとする。
 そこで氏は、「近代とはそんなものしか実現しなかったのだよ」と「でも「そんなもの」が実は大切なのだよ」のあいだで揺れるのである。ゆれてそれでも「自立した民衆世界」をあきらめきれないのである。もしもそういうものが完全に失われてしまうとしたら、「近代はそんなものしか実現しなかった」とする空漠とした空虚な思いから逃れられないと思うのである。
 しかし、そんなのはインテリの世迷い言であって、おれはもっともっと便利で快適なほうがいいという多くの人の思いの前では、まったくの多勢に無勢であることをよく承知しているのである。その多くのひとにむかって「本当はあなたの生活は虚しいのかもしれないのだよ」と呟きながら。
 坂口安吾がいう「先ず「人間は生活すべし」という根本の生活意識」という言葉が問題である。渡辺氏は「そんなあなたの今の生活は本当の生活ではないのだよ」といいたいわけである。しかしいわれたひとは「そんなことはお前にいわれたくないね。自分のことは自分で決める。おれはこの便利と快適がいい」と答えるのである。
 本書にも書かれているように地球上の人々すべてに快適と便利を提供しようとしたら地球がもたない。しかし地球のことなど知ったことではない、「かけがえのない唯一の自己」を一回限りの生においてどこまで味わい尽くすことができるかだけが大事なのだという答えの前には、そのような未来への懸念はほとんど力を持たないのである。

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