津田敏秀「医学的根拠とは何か」(1)序章「問われる医学的根拠」

   岩波新書 2013年11月
 
 最初の方に、先輩医師にこういう本を書こうと思っているといったところ「おまえ殺されるぞ」と忠告されたと書いてある。冗談まじりとはいえ、とはしているが、確かにその心配はある。村八分くらいにはなりかねない。
 要するに日本の医療は(狭い意味では医学部の教育は)とんでもなくダメであるということを書いている。なぜダメなのかというと「根拠のない医療」をしているということである。
 医者は3つのタイプにわかれるという。「直感派」と「メカニズム派」と「数量化派」。現代の医学の流れは滔々と数量化のほうにむかっているのに、日本では「直感派」と「メカニズム派」が大部分である。それで世界の潮流から完全に遅れをとってしまっている。しかもそうなるのは日本の医学部の構造に深く根ざしているので、変えることは至難の技である、という絶望的な見解になっている。個々の医師の能力が低いというようなことではなく、日本の医療の頂点にたっているとされている「偉い」先生方の意識からしてとんでもなく遅れているということを実名も交えて書いているのだから、「おまえ殺されるぞ」というひとがでてくるのもわからないではない。
 ところで、自分のことを考えてみると、この3つのタイプの混合であるように思える。ということで、以下、自分の見方を交えながら感想を書いていきたい。
 
 序章:問われる医学的根拠 ー 福島・水俣・PM2.5
 日本小児科学会は100ミリシーベルト以下の被爆ではがんの増加は確認されていないとしている。しかし「確認されていない」ということと「ない」ということは同じではない。それなのにいつのまにか、「確認されていない」ことが「ない」ことになってきている。国際X線およびラジウム防護委員会は1949年に放射線被曝によるがんの発生に閾値がないことを結論し、これは現在まで訂正されていない。この100ミリシーベルトという数字は広島長崎の被爆者のデータを根拠にしているとされている。そこでは100ミリシーベルト以下の被爆ではがんの発生がみとめられていないということが根拠とされているのだが、被爆者数が増えれば100ミリシーベルト以下でもがんの発生がみられた可能性はあるわけである。
 専門家はみな閾値がないと考えている。たしかに現在の疫学的方法は100ミリシーベルト以下ではがんのリスクを直接証明する力をもたないといわれている。しかし、これはがんがおきないとは決していっていない。「有意差がない」ということと「がんが発生しない」ということは決して混同されてはならない。しかし日本の学術機関はこの程度の初歩的なことで根幹的な誤りを犯している。
 水俣病では、水俣病の認定の根拠に疫学的な知見がまったく用いられていない。
 PM2.5の問題では、大気汚染研究の国際的流れに反し、地域ごとの大気汚染による人体への影響は調べず、大気汚染の程度だけ発表してきた。これは別に産業界を優先しているからではなく、日本に専門家がいないためである。大気汚染疫学の専門家はアメリカで1万人くらいいるが、日本には数人しかいない。
 さて、「直感派」「メカニズム派」「数量化派」とは以下のようなものである。
 直感派:医師としての個人的な経験を重んじる。
 メカニズム派:動物実験や遺伝子実験など生物学的研究を重んじる。
 数量化派:統計学の方法論を用いて、人間の結果を定量的に分析した結果を重視する。
 現在では、病気の原因を科学的に証明するものは、疫学あるいは医療統計であると考えられている。日本ではまだ主流である生物学的メカニズムの解明こそが病気の原因を明らかにするという考えは誤りなのである。
 21世紀の日本では、世界の潮流に背をむけて、この3つの流派が混然となって存在している。そして、そのどちらを優先させるべきかという議論さえなされていない。そのために日本の医学部の教育では世界とはまったく異なる医学研究のやりかたがいまだにおこなわれている。

 
 福島の事故のあと、わたくしもあわてて放射線健康被害についてにわか勉強をした。そのときには100ミリシーベルト以下の放射線量の発がん性については、あるともないともいえないとなっていたように思う。専門家の見解としては、閾値は存在せず、どんな微量の放射線であっても発がん性はないとはいえないとしているようには思えなかった。
 わたくしの理解は以下のようなものであった。本書でいわれる「メカニズム派」の方法によって、さまざまな実験動物、あるいは細菌などに微量の放射線を照射することによってさまざまな遺伝子変異をおこしうる。また「メカニズム派」の研究によって遺伝子に生じた変化と発がんには深い関係があることがしられている。そうであるとすると理論的には閾値は存在しないとするのが正しい。しかし、100ミリシーベルト以下の放射線量では疫学では有意差をもったがん発生の上昇を示すことはできない。であるから、もしも発がん性の上昇があるとしても、それはごくわずかなものであり、あまり神経質にならなくてもいい程度のものである。閾値がないという主張は「メカニズム派」からきており、閾値がある(かもしれない)という主張が「数量化派」からきていたように思う。
 一般的にいって、医療の問題ではつねにトレードオフの問題が生じる。血圧と脳血管疾患の関係を考えてみる。後のほうで書かれているように、この関係を見いだしたのは、フラミンガム研究などの「数量化派」の研究であった。非常に高い血圧のひとと正常(ここでは何が正常かは問わないとして)の血圧のひとでは、比較的少数例の研究でも有意な差がすぐにでてくるであろう。しかし正常よりごく少しだけ血圧が高いひとでは、少数例では絶対に有意差はでず、非常に多くの症例を集めた研究でかろうじてごくわずかの差が検出されることになるはずである。
 そして非常に多くの症例でようやく見いだされたごくわずかの差というのが、そのごくわずかの血圧の上昇も治療の対象とすべきという議論を支持するものであるかということは、この「数量化派」の研究からだけではでてこなくて、別の視点の導入が必要になるはずである。それはたとえばコストの観点であるかもしれない。しかしコストを論じだすと人の命の値段ということの議論を避けることができなくなり、さらに人の生命の一回性という問題もかならず出てきてしまう。
 こういう場になると「直感派」の出番もでてきてしまうように思う。価値観の問題がでてきてしまうからである。同じ数字をみても医者ならみな同じ治療をするとは限らない。さらに同じ医者でも30歳のとき、40歳のとき、50歳のとき、60歳のときで、まったく違う治療をするかもしれない。これは狭い意味での医療の経験を重ねるからでもなく、また年をとるにつれて最新の医療の勉強をしなくなり新しい知見に疎くなるからでもなく(それらが相当大きな影響をもつことは確かであろうが)、年齢を重ねることから得てきた何かの積み重ねが、医療行為の判断に影響するからである。
 もちろん著者の津田氏も医療のなかに科学にならない部分が多々あることは重々承知のはずである。だから本書で論じられるのは「科学」としての医療をおこなうための判断根拠となるものは何かということである。ここで津田氏が医学あるいは医療ということでいっているのは臨床のことである。しかしわたくしから見ると、大学医学部は臨床にあまり関心がない場なのである。そこが問題となるのだと思う。
 「直感派」というのは臨床埋没派というか医療はアートであるなどといっている手合いで、もともと「科学」などは嫌いで、医療は「科学」になるわけはないと嘯いているのであるから、「科学」としての医療などにはもともと興味をもっていないかもしれない。
 しかし「メカニズム派」は自分たちこそが「科学」としての医療の研究をおこなっていると信じていることは間違いない。というのは「メカニズム派」の仮想敵は「直感派」であって、彼らは何も考えずに医療をおこなっているアホであると思っている。「直感派」≒「臨床医」であって、臨床などはアホでもできるというのが(大きな声ではいわないとしても)その信念であるから、臨床家がやっているようなごく表面的な現象だけ捕らえての対応などとはまったくことなる深い病気のメカニズムを自分たちは研究していると思っている。つまり日常臨床の場が「科学」の場でありうるなどとは夢想だにしていないのである。だから「数量化派」というもの存在する意義さえ頭に浮かんでこないのであろうと思う。
 津田氏が指摘する日本の医療の宿痾というのは、わたくしから見ると、日本における医学部というのが臨床医を養成する場ではなく、病気の「メカニズム」の研究者を育てる場となっていて、その研究者養成課程から落ちこぼれたものが仕方なくなるのが臨床医であるとされていることにあるのだと思う。なにしろ臨床はアホでもできるものなのだから研究をあきらめて臨床の場にいくことになったら、それから独学で学んでも充分にまにあうのであって、わざわざ学問の場である医学部で学ぶほどのことでもないのである。
 つまり大学医学部はもともと臨床の研究をしようという気はないのであるから、臨床研究の手段である「数量的」研究などをわざわざ高貴な学問の場である大学でする意味をどうしても理解できないのだろうと思う。
 しかしあまり先走ってもいけないので、第1章「医学の三つの根拠」を次に見ていくことにする。
 

医学的根拠とは何か (岩波新書)

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