渡辺京二「近代の呪い」(5)第4話「近代のふたつの呪い」

 
 通常、近代がわれわれにもたらしたものは、人権・平等・自由の3つに要約されると考えられている。これについて、渡辺氏は「ある意味では」それに賛成すると述べる。ではあるが、それは「かなり疑わしく」「問題をはらんだ」贈り物であるともいう。
 1)人権:江戸時代においても、百姓は百姓なりに、町人は町人なりに法の保護のもとにあった。公事(裁判所に出訴すること)や一揆は彼らの権利であった。なにかについて訴えをおこし、一揆をおこしたのである。かれらは現在のわれわれと同じように「自己の権利の主張」をおこなった。
 飢饉がおこれば、幕府も藩も一定の対応はとった。飢饉がおきることを阻止できなったのは当時の社会構造では止むをえないことであった。当時においても「人権」はあったのだが、それがわれわれがなじんでいる近代的な人権概念とは一致しないということであり、その当時には人権はなかったと思ってはいけない。
 2)自由:中世の人間にとって「自由」とは、ある中間団体に属してその特権を享有することであった。したがって中間団体を離れて一人ぽっちになったはぐれ者の状態は「鳥の自由」といわれ、一切の保護を失ったなにをされても文句がいえないおそるべき状態なのであった。
 フランス革命はこの中間団体を絶滅させることによって、個人が国家と直接むきあう社会を作り出した。そうなると「自由」とは個人が国家に対して防衛的に保有すべき状態を意味することになった。
 この所属すべき団体を失ったことを喪失ではなく獲得であるとみなすようになり、以前はマイナスであると思われていた事態をプラスであると評価するようになったとき、われわれがいま考えている「個人の属性としての自由」が成立した。
 今日のわれわれはある団体に所属することによって得られる「自由」などは大変窮屈な束縛とワンセットのものであると感じている。しかし前近代の社会は束縛にたいする巧妙な対策を用意していた。ヨーロッパ中世における遍歴であり、日本におけるお伊勢参りなどであった。つまり団体から一時的に離脱できる自由を制度的に保障していたのである。個人の自由はなかったかもしれないが、今日とは性格の異なる独特なそれなりの自由があった。
 3)平等:近代以前の社会は洋の東西を問わず身分社会であった。そこには「神の前の平等」「仏の前の平等」という観念も同時に存在はしていたが身分社会ではあった。しかし江戸時代の士農工商といってもそれぞれの身分は気概をもっていたし、それぞれはそれぞれに気を使っていた。上が一方的に威張るなどということはなかった。
 以上を概括したうえで、渡辺氏は人権・自由・平等という観念はそれ自体に疑わしさを内包していることは間違いないとしても、それを普遍的価値として「建て前」とすることは今日の社会の必須要件であるとする。人権という理念は文化によって異なると称して、一党独裁に反対する活動家の人権を徹底的に弾圧する中国共産党の言い分など絶対に認めるべきではないという。
 人権・自由・平等という理念は民主主義という政治制度の根幹をなす。民主主義もまた疑わしい点を多々ふくむイデオロギー用語である。それでもそれは今日において人間が唯一我慢できる政体であり、これに替わる政治制度は考えられない。これは近代の生んだもう一つの政治制度である全体主義独裁というまぎれもない悪を抑止するための最低の保障として意味がある。全体主義的独裁は個の生存を国家的計画のためにはいつでも抹殺する用意のある制度であり、個の思考とその表現を抑圧する制度なのであるから。
 民主主義社会の人権・自由・平等は一種の美辞麗句、つまり建て前ではあるが、その効力を否定してはならない。そしてそうではあるが、ひとりの人間の生涯の幸福なり充実という点からみれば、近代は近代的な人権・自由・平等よりももっと実質的で大きな贈り物を人類にもたらした。それは衣食住の豊かさである。
 フランス革命の時代ほど人権と自由が抑圧された時代はない。ナチス国家も日本の軍国主義ソ連以下の社会主義国家もいずれも近代の産物であるが、近代以前にはこのような人権と自由を徹底的に抑圧した社会制度は存在しなかった。しかしそれにもかかわらず、近代は衣食住の豊かさをもたらした。現代の社会が過去のどの時代よりもすぐれている点は、衣食住における貧困を基本的に克服した点にある。
 ほんとうのゆたかさというのは物質的な次元では計れないというようなことをいうひとがいるし、そこには正しさがないわけではないが、衣食住のレベルがあがるのは絶対的によいことである。それは絶対的な善である。近代のもたらした最大の果実が衣食住の豊かさだといえば、身も蓋もない話であると思うひともあるかもしれないが、衣食足って礼節を知るのであるから、これはとても大事なことである。
 そう言ったあとで渡辺氏はその代償として人類はふたつの呪いを背負い込むことになったという。1)インターステートメントシステム 2)世界の人工化、である。
 1)インターステートメントシステム:世界経済が国民国家間の熾烈な競争として営まれるありかたをいう。
 貧困の克服を可能にしたのはフリーな市場経済の世界化である。社会が市場経済化するのは生活水準の向上、衣食住の向上の根本要件である。であるとすると、われわれの生活はまったく経済によって支配されていることになる。しかも問題なのは、一国の経済がそれ自体では完結せずに世界とつねに連動していることである。国内の経済がうまくいっているかだけではなく、世界の中で自分の国の経済がどういう地位を占めているかが死活的に重要であることになってくる。グローバル時代といっても、いまだに世界経済を構成するユニットはそれぞれの国民国家なのである。
 資本主義的世界経済が国民国家間の競り合いの場であることは、資本主義世界経済が成立した最初からの性格であった。スペイン→オランダ→イギリス→アメリカ・・と覇権は移ってきた。そうするとナショナリズムという、一時期は効力を失ったようにみえた政治的エネルギーが再び復活してくる状況にもなる。
 資本主義的な市場経済によって、われわれは人類史上はじめて衣食住レベルでの生活のゆたかさを獲得したのだが、それを維持拡充していこうとすれば、民族国家の枠組みをますます強化していかなければいけないことになる。これが近代の呪いに一つ目である。
 2)世界の人工化:生活水準の向上は科学技術の進歩を動力にしている。それは自然を資源化する。近代科学は世界=コスモスといった旧来からあった自然観をわすれ、自然を人間が対象化すべき物質界へと変えてしまった。この近代科学の産業技術への応用は近代ヨーロッパの産物であり、人間のみを精神を備えた存在とみなし、他の存在は山川草木はいうまでもなく、人間以外の生物も人間のために神が作ってくれた物質と観じるキリスト教的な精神=物質の二元論、つまりは人間中心主義を前提としている。これは一種異様な考え方であることを忘れてはならない。
 こういう人間中心主義は、現在、非難・批判の集中砲火を浴びている。地球上の人間すべてに現在の生活水準を提供することなどは到底無理(地球の物理的制限を越えてしまう)であるから1960年の生活水準まで経済規模を縮小せよという提言もなされている。
 渡辺氏はそういう視点も否定はしないが、衣食住のゆたかさを無限に追求することが経済の成長のみによって可能になるという志向が、われわれの生きる世界=コスモスをますます人工化してしまい、生ける実在としての世界=コスモスを狭隘化してしまうという点において、より切実にそういう見方に拒否感を感じるのだという。
 人間がこのコスモスの中での正当なしかるべき地位を喪って、コスモスの中に宇宙基地のような人工空間を作って、その中で歓楽を尽くそうという志向こそ、経済成長至上主義、社会の全面的な経済化の最も悪しき、最もおそるべき帰結だとする。われわれは便利になったかもしれないが、人間が自然との接触を失い、生命世界との交感を失い、人間に始まり人間に終わる人工世界の中で、コスモスにおける人間のポジションの感覚を喪失する不幸感にさいなまれることになった、という。
 氏はそういう動向が、都市を生み文明を生んだのであることを認める。しかし現在のような「生活の匂い」のしないピカピカの宇宙船のような秩序化というのは、現代までどこにもかつて存在したことのないものであって、親和性のない一個の機械のような、ゆがみとか雑多さとかよごれとかのないSFの未来都市にこれからもむかっていくような動きには、どうしても拒否感を感じるという。
 人間が自然と交感するというのは、山川草木をふくめたあらゆる存在を生命とみなし、その中で生死する自分の運命を納得するということである。そういう自然との平常の交感をわれわれは失った。世界の人工化は世界の無意味化でもある、と。
 氏は世界がナショナリズム化の方向に再度むかうことが不愉快であるという。また過度の便利に意味があるとは思わないという(たとえば、人が近づくと自動的にふたがあく便器)。
 氏がいうこれからのわれわれの課題は以下のようなものである。
1)生活の豊かさの意味について考え直すこと
2)経済成長がなければこの世は闇といった先入観から自由になること
3)市場の利点を生かしながら、市場に振り回されない経済システムを構築すること
 しかし、ふつうの人間にとって世の中で一番大切なのはどうやって食っていくかということである。だから政府は人々に働き口をあたえないと選挙で失権する。とすれば、上記の3点は実際にはとてつもなく難しい課題であることを氏はみとめる。
 そこで氏がいうのは、人間というのはとても大事なものではあるが、人間という生物はそれほど偉いものではないことを悟ることが大事であるということである。
 
 渡辺氏は近代を否定するひとには、近代は捨てたものではない、わわわれは豊かになった、飢えを心配しなくなったと答える。近代を肯定するひとには、確かに豊かにはなったがわれわれはとてつもなく大きなものを失ったと答える。
 では、どちらに比重があるかといえば後者である。しかし、自分は少数派であって、大多数のひとにとっては豊かであることが何よりも大事なので、「コスモスにおける人間のポジションの感覚を喪失する不幸感」などというのは戯言としか思われないであろうことをよく自覚している。
 氏は、人権・平等・自由といったものにはそれほどの価値を見いださない。そういったものは、近代以前の社会においてもそれなりには実現はされていたのだとする。
 氏が近代以前ということで参照するのは主として日本であれば江戸時代、西洋であれば中世である。山本七平氏の本などを読んでいると、山本氏は鎌倉以降の一所懸命の武士などに非常な共感をよせていることがわかる。貞永式目などに着目し、そこにわれわれに通じる人間像を見いだしている。そこには、現代のわれわれのものとは違うとしても確かに人権も平等も自由もあったといえるかもしれない。
 「鳥の自由」ということについては、渡辺氏は、アジールというようなことをいった網野善彦氏の「無縁・公界・楽」などを別のところで「左翼史観の変形」といって厳しく批判している。近代的な自由概念を過去に外挿する見方には批判的で、それはわれわれの見方を普遍的なものであるとする見方に否定的ということなのであろう。「逝きし世の面影」などもそれを讃美するということではなく(それが濃厚にあるとは思うが)、今の価値観で過去をみるなという方向が大きいのだろうと思う。
 フランス革命が中間団体を絶滅させることによって作り出した個人と国家とが直接むきあう社会というものについては、必要悪という受け取りかたで、無邪気にそれを礼賛するひとへの侮蔑を隠せない。渡辺氏からみると多くの左翼はそういう人たちなのである。「所属すべき団体を失ったことを獲得であるとみなすようになった」考えの浅い人たちなのである。
 今日のわれわれは、ある団体に所属すること自体を必要悪と考え、できれば避けたいが食うために仕方なく所属しているとものと認識しているかもしれない。丸山真男などの近代化派が仮想敵としたものは村落共同体的な何かであった。
 近代の知識人というのは「鍵のかかる部屋」にはいった時にはじめて本当の自分にかえったような気がするのであるが、そういう個人を渡辺氏は近代が生んだ不幸な人間であるとみているように思う。
 自分のことを考えてみると、網野氏の本など面白くて仕方がないし、鍵のかかる部屋ではじめてほっとする人間でもある、左翼的な心情もゼロではない近代人という渡辺氏からみればはなはだ困った人間ということになるのだと思う。
 しかし鍵のかかる部屋というのは昔であればお伊勢参りであるのかもしれないわけで、部屋に鍵をかけるだけで伊勢にいかなくてもいいのだから、現代はやはりいい時代なのだと思う。もちろんそもそも鍵などというものが近代の産物なのであろうが。
 昔、渡部昇一氏の本を読んでいて「歌の前の平等」という言葉を読んでびっくりしたことがある。何の前の平等であるかということがその場所の文化をあらわすというのである。西洋は「神の前の平等」であるかもしれないが、日本は「歌の前の平等」であるというのである。歌は和歌であり勅撰集には天皇の歌から貴族の歌、坊主の歌から乞食の歌まではいっている。もちろん女性の歌もはいっている。すぐれた歌を詠めれば対等の人格なのである。渡部昇一氏もまた過去の日本にも自由も平等も人権もあったというであろう。
 渡辺氏は人権・自由・平等という観念を世界の「建て前」とすることは絶対に必要であるとする。それで中国共産党をつよく批判する。しかし現在の中国に生きているひとからすれば、何よりも大事なのは経済であり豊かになることであって、共産党政権がどんなに強権的で人権を抑圧するものであっても、それがあるとき深く悔い改めて人権・自由・平等に走り、そのために政権が弱体化し、無政府状態になって経済が混乱し生活のレベルが落ちるようなことになるのであれば、今のほうがよほどましと思っているかもしれない。人間に普遍的な希求は豊かになるほうであるかもしれないのだから。
 民主主義こそが今日において人間が唯一我慢できる政体であり、これに替わる政治制度は考えられないものであると氏はする。しかし民主制は衆愚制であり、一部有能で有徳の士が指導する賢人政治的全体主義独裁のほうがはるかに増しという見方もかってはきわめて有力であったことは忘れてはいけないと思う。
 全体主義的独裁は個の思考とその表現を抑圧する制度なのだとしても、個の思考とその表現などというのはどうでもいいことで、大事なのは全体に帰依する喜びなのであるとするひとも少なからず存在するはずである。渡辺氏がいうコスモスとの一体感などというのも、案外とそれに接近しているのではないかとも思える。
 一方、「コスモスにおける人間のポジションの感覚を喪失する不幸感」などにはいっこうにさいなまれないひともいるわけで、そんなことは腹がいっぱいになった人間の戯言であると思うひとも多いはずである。
 このあたりが渡辺氏の弱点というかアキレス腱であると同時に氏を独自の思想家にもしているのだと思う。そこでどうしても想起されてくるのがD・H・ロレンスである。ロレンスは最後には男女のあいだの優しさというような線にまで後退していったが、ロレンスは生命力を強烈に感じ取ることができた特異なひとで、そのロレンスからみれば馬のほうが人間よりもはるかに生命力が漲っていると思えた。
 人間にそのような生命力の衰退をもたらしたのが近代という時代なのである。そう思った点でロレンスは強烈な反=近代の思想家であり、ニーチェの系譜にいることになる。ニーチェはそういう近代に毒された人間を「最後の人間(末人)」と呼んだわけだが、末人としては「衣食住の豊かさ」があればそれでいいのである。
 衣食住が豊かであることを絶対善であるとする渡辺氏にはロレンスやニーチェのような徹底性はない。しかし、同時に氏はコスモスとの共生という感覚を持てる程度には、ニーチェ・ロレンスに連なる人でもある。
 氏のいう近代のふたつの呪いとは、インターステートメントシステムと世界の人工化であるが、人間の普遍的な要求である豊かさへの希求が国民国家という単位同士の競争でしか実現できず、それは科学技術という手段でしか達成できないが、それは世界を人工化させていく、ということである。
 コスモスという視点からみれば、国家間での争いなどというのはまことに小さい情けない次元での争いである。パスポートを必要とせず国境をこえる鳥はわれわれよりもずっと自由である。また渡辺氏もいうように、コスモスという視点から見れば、人間などまことにとるにたらない存在である。
 人間がかかえている根本的な矛盾は、自分からみれば自分は世界で唯一のかけがえのない存在であるのだが、世界からみれば自分などまったくとるにたらない代替可能な任意の存在でしかないということである。
 もう少し実際的にいえば、自分からみれば国は自分を保護してくれ守ってくれて当然の組織であり、それをしてくれないのであれば国家などは存在する意味をもたないのだが、国家からみれば自分は単なる一国民にすぎず、国家が存続することが最優先される事態になればその犠牲になることが平気で要請されてくるかもしれないということである。
 ここに国家という語の代りに仲間という語を入れてみる。仲間は自分を保護してくれ守ってくれて当然とはいえない。仲間はそんな義務は一切負っていない。また仲間に存亡の危機が生じたとしても自分はそれを救うために犠牲になることを要請されることも決してない。しかし、それでも自分は仲間のために犠牲になるかもしれない。それは愚かしい陶酔なのか? 美しい自己犠牲なのか? それがパリ・コミューンを題材に氏が論じる問題である。
 渡辺氏にとって国家は必要悪である。しかし仲間はなくてはならないものである。それこそが人に生きる甲斐をあたえる。仲間といても楽しくない、早くここを立ち去って自分の部屋に帰って鍵をかけて一人になりたいというひとは近代の病理に冒されているのである。
 動物にとってただ一つの課題は"生き残る”ということである。もちろん自分で"生き残ろう”と思っているわけではなくて、生き残るメカニズムを獲得した生物が子孫を残してきているということである。
 しかし動物にも自己犠牲はみられる。これは進化論を支持するものにとっては大変な課題であった。このあたりはハミルトンやトリヴァースからドーキンスへの「淘汰は個体にではなく遺伝子にかかる」といういわゆる利己的遺伝子理論でとりあえずは一応の解答がされたとされているが、ドーキンスの説などは道徳を損得勘定で説明したともとれるわけで、大きな反発も生んでいる。
 生物学からのもう一つの説明はわれわれの行動は現在にではなく、かつて長く続いた狩猟採集時代に適応したものとなっているとするものである。人間は生物学的にみればいたって弱い種であって、かつて生き延びてこられたのは集団で行動することによってであったとされている。そして今日では有利に働かないような行動でも狩猟採集時代には多くの個体を残すという点で有効であったのだとすれば、それがわれわれに保存されているのは不思議ではないと生物学はする。
 宗教などもこういう観点から説明していこうという試みがある。自己犠牲も同じである。とすればこれは人間の崇高さなどとはまったく関係のない生物学的に保存された過去の行動様式ということになってしまう。こういう倫理を科学で説明しようとするやりかたは非常に多くの反発を生んでいる。そういうことをするから科学はきらわれ、そしておそらく近代もきらわれる。渡辺氏も科学的説明は大嫌いなはずである。氏は科学よりも哲学を選ぶ人である。
 おそらく、ここがわたくしが渡辺氏とわかれる点で、わたくしは人間もまた一個の動物であるというところから議論をはじめなくてはいけないと思っている。D・H・ロレンスはあらゆる動物に生命力をみた。その目でみると人間の生命力は衰退していると見えた。
 だからロレンスのいったことはわれわれが当たり前の動物に戻ることであった。これならわたくしにもわかる。ロレンスはひとは集団になると他の集団を憎悪するようになると考えた。だからわれわれがささやかな幸福でも得たいと思うならば一人になるしかないとした。ロレンスは最後には男女間の優しさという塹壕にひきこもったが、男女のあいだにおいてさえ支配へ欲求はついてまわるのであり、そのささやかな優しさを獲得するということが人間にとっていかに大事業なのであるかということを説いた。「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受け入れたがらないのである。大災害はすでに襲来した。われわれは廃墟のまっただなかにあって、新しいささやかな棲息地を作り、新しいささやかな希望をいだこうとしている。それはかなり困難な仕事である。未来に向かって進むなだらかな道は一つもない。しかしわれわれは、遠回りをしたり、障害物を越えて這い上がったりする。いかなる災害がふりかかろうともわれわれは生きなければならないのだ。」
 ロレンスは今の時代を悲劇的ととられる敏感なセンサーを持っていた。ロレンスによれば多くのひとがそれを感じられないのは、近代という時代がわれわれを毒してそのセンサーを鈍らせているからである。だからロレンスは安心立命をえたければ山に入って一人になり道を説くなとったが、それにもかかわらず終生、道を説き続けた。ツアラツストラは山を下りたのである。
 渡辺氏にしても、心を許す仲間たちとささやかな中間共同体をつくって生きるということには自足できず、道を説くのである。もっとも氏は「柔肌の熱き血潮」という共同体の熱にも十分に触れているではあるが。
 道を説くのは知識人の業であり宿痾なのかもしれない。
 渡辺氏はロレンスと違って人間は美しい動物に戻れというようなことはいわない。人間のささやかな共生のようなことに賭けようとする。しかし、だがそこには、人間は人間以外の動物よりなにがしか優れているとするキリスト教の残滓のようなものが微かに匂うようにわたくしは思う。キリスト教的なものは端的に嘘なのだとわたくしは思ってしまうので、どうしてもついていけないところがでてくる。
 人間は、どうも、こころというものを持つらしい。あるいは人間以外の動物もこころは持っているのかもしれないが、他人(他の動物)のこころを推測することをできるのはどうも人間だけらしいのである(チンパンジーについては議論があるらしいが)。それが人間という動物をユニークにはしているが、そして人間が文明をつくれたのもそれによることは間違いないと思うが、それでもそれが人間の優越を示しているといえるのかは疑問であると思う。人の気持ちを推測できるが故に戦争などということがおきるのかもしれない。あいつはこう考えているのではないか、それなら先手を打って・・。
 他の気持ちを推測できるのはほぼ人間だけかもしれないが、他をだましたりするのもほぼ人間だけである。そもそも人間くらい平静でいることが難しい動物はいないのではないかと思う(チンパンジー神経症になるらしいが・・)。つまりほかの動物なみに静かなこころでいられるためにも非常な努力が必要なのが人間という動物なのである。別に卓越した動物でも神に選ばれた動物でもなさそうである。神が自分を選ばせるためにわざとそう作ったというひねくれた見方もあるのかもしれないが(「人間原理」というのはひねくれた見方の代表であると思う)、もっと素直にみればいいのではないだろうか?
 わたくしが渡辺氏に感じるのは一人のかなり典型的な西欧型の知識人の像である。知識人はたいてい病気にかかるもので、その病気には西洋型や東洋型などいくつかの型がある。わたくしもまた西洋型の病気を持っていることを自覚しているので、渡辺氏の抱えている問題は他人事ではない。そして大事なのは病気であることを自慢すること(これも知識人に多い病気である)ではなく、病気でなくなることだと思うので、渡辺氏が試みている克服法も他人事ではない。
 渡辺氏のやりかたはわたくしからみると文科系的である。わたくしは医者という職業柄もう少し理科系よりなのであるかと思う。それが採用する方法の違いになっていると思うが、わたくしは理科にも文科にもどちらにも安住できないままでいきそうなので、文科系の学問への信頼を基本にもつ渡辺氏をうらやましくも感じる。
 それで、渡辺氏が共感をよせる知識人で大佛次郎を論じた「つけたり 大佛次郎のふたつの魂」を次にみて、この本への感想をおわりとすることにする。
 

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