S・ムカジー「病の帝国「がん」に挑む」(4)

 
 がんに対する「戦争」を先導し、その運動の伝道師となったファーバーは1973年に死んだが、この時期はがんの歴史の亀裂と論争があわらになった年でもあった、新薬の開発は停滞し、学会は論争の場となった。外科医、放射科医、化学療法医がたがいにあらそった。
 しかし、ハルステット由来の根治手術は拡大を続けていた。
 そういう流れのなかで、1924年、イギリス人のケインズが進行した乳がん患者にラジウムを埋め込む治療をしてみたところ、劇的な効果がえられた。手術と放射線治療のさまざまなやりかたの組み合わせを検討したところ、比較的小さな手術と比較的低用量の放射線が一番よい成績となった。これは少なくみつもっても拡大手術と同程度の効果をしめした。しかし、そのやりかたはアメリカでは無視された。
 動物に移植された腫瘍を用いた研究で、ハルステットの想定していた腫瘍の同心円的な進展は事実と反することが明らかになってきた。
 乳がんは局所疾患なのか全身疾患なのかが問題となってきた。前者であれば手術だけで治せるが、後者であれば手術のみでの根治は期待できないことになる。
 1950年代にクライルは単純乳房切除術をはじめた。成績は根治手術とかわらなかった。だが、その有用性を証明するためには大規模なコントロールスタディが必要であったが、昔からの治療法の有効を信じて疑わなっていない外科医を説得することは困難をきわめた。それに道を開いたのはフェミニズムの運動の力であった。フェミニズム運動は根治手術を拒否することをお女性に呼びかけ、実際にそれに応じる患者も増えてきた。
 そのためにようやく比較試験が可能になってきた。1970年にはじまった試験の結果がでるのに10年かかった。結果は単純乳房切除、単純乳房切除+照射線、根治手術で差がでなかった。根治手術は転落した。それは外科文化全体の崩壊のはじまりでもあった。
 それなら大量化学療法は? 1976年、シスプラスチンという抗癌剤が登場した。非常に強い副作用(筆頭は吐き気)をもつ薬であったが、精巣がんを根治させることができた。固形がんを化学療法で根治させたはじめての例となった。こういう薬は必ずしも作用機序が明らかになっているわけではなかった。偶然発見され、とにかく効くことが予想されれば、臨床に応用された。1969年にはアドリアマイシンも発見されている。1970年代の半ばにはバーキットリンパ腫が7剤併用療法で完治したことが報告された。非常に悪性度の高い腫瘍も化学療法で治せる希望がでてきた。
 大量化学療法によって、転移性肺がんで3〜4ヶ月、大腸癌では6ヶ月、乳がんでは1年の延命がえられるようになった。進行がんの患者さんでは1年という時間は一生に勝るとも劣らないくらいの価値があるともいえるが、残念ながら生命の延長であっても決して治癒ではなかった。がんという病気の性質上、抗癌剤の副作用はそれが致命的なものでないかぎり無視される傾向があった。
 正常細胞には働かず、がんにのみ働く薬はないのだろうか? それを研究するためにはがんを根本から理解することが必要となる。
 前立腺がんはさまざまな臨床経過をとる。多くは進行が遅いが一部はとても進行が早い。前立腺細胞の増殖には男性ホルモンであるテストステロンがかかわることがわかってきた。そして前立腺がんもテストステロンが存在しない環境では急速に縮小することがわかってきた。女性ホルモンであるエストロジェン投与で前立腺がんは縮小した。
 1890年代に、ある羊飼いから「卵巣を摘出した牛では乳汁分泌が減り乳房の形態もかわる」ときいたひとりの外科医が勇敢にも乳がん患者の卵巣を摘出してみた。驚いたことに乳がんは劇的に縮小した。しかし、症例を重ねると、その方法が有効であるのは乳がん患者の2/3にすぎないことがわかってきた。エストロジェンが発見されたのはその30年もあとであるが、それが正常乳腺組織の維持と増殖に不可欠であることがわかった。乳がんについて調べたところエストロジェン受容体をもつものともたないものがあることがわかった。1962年タモキシフェンというエストロゲンの拮抗剤が発見された。1969年その乳がんへの治験がはじまった。一部の患者で著明な効果がえられた。反応するものの腫瘍はエストゲン受容体をもっていた。一つの薬ががん細胞の中の明確な標的部分を攻撃することによって効果を発現することを示した最初の例となった。
 当初、治療は進行している症例を対象とした。それでは早期の症例では? この考えはある意味ではハルステッドへの先祖帰りである。早期でもがんが腫瘍をこえてひろがっているとすれば徹底的に大きく切除するべきというのがハルステッドの見解だった。それならば、手術のかわりに薬でそれを根絶できれば? このアジュバント(補助の意味)治療は50%再発を予防することが明らかとなった。その前に3種の抗癌剤の併用であるCMF療法もアジュバント治療としてある程度効果があることも示されていた。
 以上のようなことから、がんは多様な病気であることがわかってきた。
 しかし依然として、治癒が期待できない進行がんは残った。そこから緩和ケアの動きがでてきた。ソンダースがロンドンで1967年セント・クリストファー・ホスピスを作った。この運動がアメリカに広がるにはもう10年を要した。その過程でがんの患者への麻薬投与は中毒も身体的荒廃も自殺もおこさないことがわかってきた。新しい吐き気をおさえるくすりも開発され、化学療法をしやすくした。
 1985年に、これらのさまざまな試みにより、がん患者の生存期間は延びているのだろうかということを検討したものがいた。ケアンズらの推定では、毎年2千〜3千人の命が化学療法で救われ、アジュバント療法で1万〜2万が救われる計算となった。子宮がん検診や乳がん検診で年間1万〜1万5千人の救われると見積もられた。計、年間で3万5千〜4万人が救われると考えられた。一方でアメリカでのがんによる死亡は年間100万人である。治療や検査によって利益がえられるのは10人〜20人に一人である。そうであるならば、治療などにばかり目を向けるのではなく予防に目を転じるべきでは?
 1986年のベーラーとスミスの論文では1962年から1985年までのあいだでがんによる死亡は9%弱増えていた。それは、がん治療への試みは成功していないことを示すものであった。それならば治療よりも予防ではないか? それで話が第4部の「予防こそ最善の治療」へと進む。
 
 著者が腫瘍内科医ということもあると思うが、本書をつらぬく大きな柱となっているのが、外科医だけが治す病気から外科医だけでは治せない病気に、がんがなってきているという歴史的な展望である。(そして、そもそもがんになってから対策を考えるなどというのは対症療法的な姑息な手段であって、大事なのはがんにならないことのほうであるという、さらに大きな展望がくわわる。)
 医療の理想はどんな病気になっても一粒薬をのめば治るというような方向であろう。だからわたくしのような内科医からみると、切った張ったをやっている外科医は野蛮である。しかし外科の医者は内科医を「アッペ一つ切れないくせに、偉そうな顔をしやがって」と思っている。(アッペとは虫垂炎を指す医者仲間でのジャーゴン
 いずれにしても医療は患者さんが医療機関を訪れるところからはじまる。町をあるいている肥満者を捕まえて「あんた痩せなさい」と説教することは医者の仕事ではないと通常は考えられている。インフォームド・コンセントなどということがいわれる時代であり、患者の自己決定権が尊重される時代なのであるから、本人がいかに肥っていようと本人がそれについて十分に自覚しており、肥満であることの危険を十分に承知しているのであれば、そこに介入すべきではないと考えられている。パターナリズムの旗色は悪く、自主性の尊重の時代である。
 しかし医者の相当部分は偉そうな顔をしたいとか説教をしたいという志向をもっている可能性が高く、インフォームド・コンセントの時代を「いやな時代だなあ。この世は闇だ!」と嘆いている医者も多い。
 自分は専門家である。患者は素人である。なんで素人が威張って専門家である自分がやっていることに口出しするんだ、けしからん、ということである。しかし本書を読めば、医者が専門家としてやってきたことも、あとからみれば死屍累々であって、錯誤の連続であったことがよくわかる。だから、わたくしが今、患者さんにあれこれ説明していることだって、5年〜10年もたてば誤りであることが判明することも少なからずあると思う。
 わたくしが医者として駆け出しのころは、がんの末期の患者さんにも麻薬は極力使うなと教わった。どんどん使うと患者さんが中毒になるからときかされた。それで麻薬あつかいでないペンタゾシンをよく使ったものだった(これは相当な依存性があることがあとからわかってきた)。それでもソンダースの名前をどこかからききこんでブロンプトン・カクテルを恐る恐る処方した記憶もある。
 それが今では、麻薬は躊躇なく使え!である。喘息の治療だって30年前はなるべくステロイドは使うな、使うのは最後の手段、であった。それが今ではファースト・チョイスである。胃潰瘍の成因は胃酸だった(No Acid, No Ulcer)。今ではピロリ菌である。
 若い時は得々として患者さんに喘息になぜステロイドを濫用してはならないかと説明していたと思うし、医療現場にシメチジンが登場した時の衝撃も忘れられない。潰瘍が簡単に治る病気になった(夏目漱石なども潰瘍で死ぬことはなかったのである)。だから潰瘍の治療薬としてのH2ブロッカーの効果は今でも明らかであるので、当時、潰瘍の胃酸原因説について疑いもしなかった。
 ここに書かれているがんについてあるいはがんの治療についての医療側の理解の変遷は他人事ではないわけで、自分が医者になって約40年の、その時々では正しいと思ってしていたことで後になって間違いであるとわかってきたことの多さを思うと、非常に考えさせられるものがある。
 この本を今医者になったばかりのひとが読むと、昔のひとはバカだったなあで終わってしまうかもしれない。しかし、わたくしの年齢では、昔のひと愚かなのではなく、人間というのが愚かなものなのだなあという感慨のほうがはるかに強い。もしも人間が愚かなものであるとすれば、医療もなるべく患者さんに害をなすことはせず、時に癒すものでありうることに自足するべきなのではないかと見解が当然でてくる。
 しかし、そういう考えの人間ばかりでは、抗がん剤の開発などは決してなされなかったであろうことは本書を読むとよくわかる。蛮勇があるひとが必要なのである。そして思い出すのが、近藤誠さんが乳がんのラジカル手術の批判者としてわれわれの前に登場してきたということである。当時、日本ではハルステット手術が全盛であったが、そこに乳がんは局所病ではなく早期から全身病なのであるから拡大手術は無意味であると主張して多くの外科医を敵にまわして批判を開始した。外科医は近藤氏を蛇蝎のごとくに嫌い、進行して手のつけようのない末期の乳がんへの姑息的な治療しかできない放射線科医のごときが、根治のためにたたかっている外科医を批判するとは何事かという感じであった。がん治療で日陰にいる放射線科医が、日のあたる場所にいる外科医を妬んであんな奇矯なことを言ってマスコミ受けをねらっている、とでもいいような感じであった。日本はもっとも遅くまでハルステット手術がおこなわれた国の一つなのではないだろうか?
 そして最近の近藤氏は抗がん剤治療だけはうけるなとかいっている(ただし、血液の腫瘍だけは例外らしい)のは、ヒポクラテス由来の「何よりも害をなすなかれ」ということなのであろう。本書の著者は腫瘍内科医であるから、当然、多くの血液腫瘍を治療する立場にある。過去のさまざまな医療者の犯した過誤を謙虚にみとめながらも、それでもそのさまざまな過誤の上に現在のささやかな果実があると本書は述べている。
 近藤氏は後ろを向いているが、著者ムカジーは前を向いている。身内にバーキットリンパ腫に罹患したものがおり、現在、治療終了後3年とりあえず良好な経過でいるということがあるわたくしとしては、やはりムカジーの姿勢の方に共感する。
 現在はごくわずかな効果、場合によってはマイナスのほうが多いかもしれない抗がん剤治療ではあるが、50年か100年すればほとんどの腫瘍が外科治療でないやりかたで治っていくようになるのではないかと思う。外科は悪いところをとるなどということではなく、移植のような方向を自分の守備範囲にしていくことになるのだろうと思う。
 そして予防ということになると、それが臨床医の守備範囲なのだろうかという疑問がわたくしにはある。公衆衛生も医療の分野であり、病気との根本的な戦いにおいては、これが圧倒的に大きな比重をしめてきたことは確かであると思うが、それは臨床とは異なる分野のように思う。
 そして現在の公衆衛生上の最大の問題はタバコの問題であることは確かであるが、反=タバコ運動というのが善意のひとによって唱道されていることが多い故に、「地獄への道は善意で舗装されている」ことにならないかという懸念がきえない。人間は健康のみに生きるのではないわけだから、健康のみに着目した運動は、それが人間全体にあたえる影響というもっと大きな視点を欠きがちである。
 そういうことを考えるのも、「自分が善意の人であると信じているひと」をどうしても信用する気になれないというわたくしの困った性格によるのであるが、「人間はとことん利己的で自己の利益に走る愚かな存在であると思っているひと」のほうが安心できるというのはこれからも変わらないだろうと思う。そうかといって、「俺は悪だ!」などと嬉しそうにいうひともまた苦手なのであるけれども。
 全然、本書と関係ない話になってしまったが、医療の問題というのは科学的事実のみに立脚するのではなく、それを考えるひとの価値観と切り離すことは決してできないと思っているので、書いてみた。
 それで次は予防の話。

病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘 上

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