小保方さんのことなど

 今日から年度がかわったことだし、時々、読書の備忘以外にも書いてみようかと思う。
 部外者で本当のことはまったくわからないが、大学の学位論文などのことが問題になりはじめたころは、小保方氏はひょっとして一切実験などはせず、ストーリーだけを作って、それにあう画像などをいろいろなところから集めてきて論文を作ってしまったのではないかと思ったこともあったが、どうもそうではないらしい。ちゃんと実験はする方のようである。
 最初に投稿してリジェクトされたとき、細胞生物学研究の歴史を愚弄するものだといわれたそうだけれども、少しでも生物学にかかわっているひとの多くもそう感じるのではないかと思う。わたくしもまたそう感じた。世の中にはありえないことが現実になるということもあるのだなと感じた。
 一般論的にいえば、学術誌に投稿され、その内容が次第に人々の関心をあつめるというのは理解できるのだが、研究者が自らマスコミに発表するというのはどうも眉唾なことが多く、これまでも様々な画期的な治療法と称するものがマスコミの前で発表されては消えていっている。でも、今回は「NATURE」だからなあ、本当なのかなと思った。
 ディオバン問題の時は、研究者が自分の本業ではないと感じている部分であるからこそおきた問題(病態生理学には興味があるが、臨床には興味がない、あるいは臨床などは学問ではなく基礎的研究こそが学問であると思っている学会の偉いさんたちが関心のない臨床研究については他人にまるなげをした)かと思ったのだが、今度のことは本業での話である。
 小保方さんというひとは今のところではよくわからないひととしかいいようがないが、問題は共同研究者(あるいは指導者)のほうであるはずである。論文を発表するときには生のデータを前に検討しないのだろうか。研究というのは多くの失敗の後にようやく成功が得られることが普通のはずであるから、今日は失敗、また今日も失敗ということを繰り返した後に何十回目かにようやくうまくいった、というような体験を共有していない指導者というのがいるのだろうか?
 これからおいおいと明らかになってくるだろうが、今回のようなことの一番の根っこには、現在の自然科学の研究にはとんでもないお金がかかるということであるはずである。そのお金をどこからかとってこないことには何もはじまらない。そのお金をとってくるためにはある程度の不正はやむをえないという雰囲気が相当に広く広がっているのではないだろうか? それともう一つ、利益を共有するひとたちの共同体化ということがあるように思う。製薬会社と学会幹部が共同体化している、あるいは理研という組織が共同体化している、そのために内部批判がおこなわれないということがあるのではないだろうか? 共同体化ということは世界中でみられることではあろうが、第二次世界大戦中、日本では陸軍と海軍がそれぞれ共同体化し、ほとんど相互の協力ということがなされなかったように、日本では共同体化が一度おきると極端化する傾向がある。
 共同体化は組織を腐敗させる。既得権益を守ることが最優先されることが続いていると、真摯な気持ちが失われてくる。なんだか、最近のいくつかの事件をみていると、日本の自然科学分野の研究はかなり根っこの部分からおかしくなってきているように思える。
 理研が今回の発表を4月1日にしたというのも何か悪い冗談のような気もする。エイプリル・フールだってもう少し気がきいていることが多いはずである。