今日入手した本

人生の意味とは何か (フィギュール彩)

人生の意味とは何か (フィギュール彩)

 昨日「宇宙が始まる前には何があったのか?」の話のなかでイーグルトンに言及したが、今日本屋さんで偶然この本を見つけた。すごいタイトルである。そして2頁目には「なぜ、何もないのではなくて、何かが存在するのか」である。そして「宇宙が・・・」の原著の副題が「Why there is something rather than nothing」なのである。「なぜ、何もないのではなくて、何かが存在するのか」というのはハイデガーの十八番なのかなとおもっていたが、いま木田元氏の「ハイデガー存在と時間』の構築」にあたったらライプニッツなのだそうである。この世界を存在させたものは神、あるいはこの世界が存在していることが造物主の存在証明みたいな議論がすぐにでてくるのだから、西洋というのは本当に難儀なところだなあと思う。
 ハイデガーは自分のことを哲学者ではなくて神学者といっていたそうだし(スタイナーによる)、左翼イーグルトンも「知識人としての経歴をアマチュア神学者としてはじめた」といっている。キリスト教神学は西欧に瀰漫している。
 読んだのはまだ数頁であるが、イーグルトンというひとはアジテーターとして、希有の才能をもつひとなのではないかと思う。
  大井氏とは大学病院でベッドを持っているときに微かに接触があった。その頃の氏は社会医学(公衆衛生学)のひとであったと思うが、今は看取りの医者をしている。そこでの経験を声低く語ったもの。
 今、ソーントン不破直子氏の「戸籍の謎と丸谷才一」を読んで、不破氏のいう「可死性」(普通の言葉でいえば「死ぬべき運命」、「あるいは人間が自分が死ぬことを自覚していること」であろうか?)ということの周辺をぐだぐだとみてきているのだが、「可死性」などということを考えるのは元気なひとなのだと思う。あるいは病気であっても頭がはっきりしているひとなのだと思う。本書に多く描かれている認知症の老人たちには無縁の話である。
 わたくしのように臨床の現場の近くにいる人間からすると、「可死性」とは反対に「死ねない不幸」というのも高齢においてはまたあるのではないかと思う。認知症は「死ねない不幸」を緩和するものとしてあるのかもしれない。というようなことを考えるのも、しかし、わたくしが現在67歳であるからかもしれないので、もしも80歳とかまで生きるようなことがあれば、またそのときには全然別のことを考えるのかもしれない。
 どこの国でも激務である病棟勤務は20〜30代の医師によって担われている。そういう若い医師が高齢者を診る、看取るということ自体にすでに根本的な無理があるのかもしれない。
 こういうタイトルであるのは、病者あるいは病者の周辺にいるひとが詠んだ詩、短歌、俳句が多く引用されているため。
 
 もの忘れまたうち忘れかくしつつ生命さへや明日は忘れむ
 老いらくの恍惚もまたよきものか夢にまぎれてわれや死にせむ
 
 玄人というのは著者の俳号。
 痴呆仏いこひ給ひし蓮の上 (玄人)