小谷野敦「病む女はなぜ村上春樹を読むか」(1)

   ベスト新書 2014年5月
 
 この本は普通に書店で購入したのだが、アマゾンで見るとまだ発売予定となっているし、自著をいつも紹介する小谷野氏のブログでもまだアナウンスされていない。本の発行日も5月20日となっている(購入したのは4月末)。村上春樹「女がいない男たち」が出版されたばかりであるので、どこかから、そういう本の宣伝はもう少し待てという圧力でもかかったりしているのだろうか?
 ところで「女のいない男たち」の書店でのあつかいもようやく普通にもどったようで、あまり特別あつかいされていない。「1Q84」や「多崎つくる・・」の時が異常だった。ようやく出版社も正気に戻ってきたのだろうか? 「1Q84 book3」から後の春樹さんは絶不調で、さすがの春樹信者も「多崎つくる・・」で少し懲りたのかもしれない。「1Q84 book3」を読んだとき、これはほとんど校正しないまま本にしてしまったのではないかと思った。新潮社が経営の危機か何かに陥っていて、出版すれば確実に売れる「1Q84」シリーズを早く出版してほしいと懇願して、義をみてせざるは勇なきなりというので、本来はもう少し寝かせておいて練り直すはずの初稿原稿をわたしてしまったのではないかと思った。今度の「女がいない・・」もつまらない。編集者とかまわりで意見をいえるひとがいなくなっているのだろうか?
 それはさておき、こういうタイトルの本ではあるが、内容は私小説論である(もちろん、タイトルのようなことがまったく論じられいないわけではない)。ということで私小説というものについて少し考えてみたい。
 小谷野氏は賞というものに強いこだわりをもっていて、それで本書の第一章は「村上春樹ノーベル賞をとれるのか」となっている。といっても、ここでも話は私小説に傾く。「「私小説」というと、日本独特の、西洋にはない、ただ作家が自分の経験したことを描いたさして面白くもない身辺雑記だと思われているが、実際には西洋にも、作家自身の体験を描いた小説、ないしはそれを変形したものは少なからずある」と氏はいう(p26)。まったくその通りであると思うが、「作家自身の体験を描いた小説、ないしはそれを変形したもの」と日本の「私小説」はまったく違うものであると思うので、「私小説」≒「自分の体験を描いた小説」として議論を進めるやりかたがわからない。
 百田尚樹氏の「夢を売る男」という小説から、「売れない作家の中に真摯な素晴らしい作品を書く作家もいる。おのれの血で書いたというような作品もある。しかし、そういう作品は読む者にも血を流すことを要求する。だから売れない」という部分を紹介して、「私は、百田という人は分かっている人だなと思った」といっている(p31)。しかし分かっていないとわたくしは思う。ここで「おのれの血で書いたというような作品」といわれているのが「私小説」である。「西洋にもある、作家自身の体験を描いた小説、ないしはそれを変形したもの」は「おのれの血で書いた」などというのとはまったく関係ないものだろうと思う。単に小説の材料に自分の経験を使っているというだけである。百田氏は流行作家であるが、そういう人のなかには時に自分は通俗小説を書いているといるとして「純文学」に劣等感をもっているひとがいて、百田氏の小説の中の言もその現れに過ぎないと思う。
 さて小谷野氏は「私小説が優れたものになるには、条件がある。ナルチシズムを排除することだ」という(p34) で、ナルチシズムとは何かといえば、鷗外の「舞姫」は鷗外がもてた話だから「自慢」であるし、村上春樹の「ノルウエィの森」もその背景に村上春樹の実体験があるとして、それを自慢混じりに披露しているから駄目だというのである。もてる男の話は駄目、もてない男の書くものでなければ優れた私小説にならないということらしい。なんだか滅茶苦茶である。
 それへの批判として、虎の威を借りることにして、倉橋由美子氏の「あたりまえのこと」にある私小説批判を引用してみる。

 素顔で自分のことを語ってはなぜ小説にならないのか。それは何になるよりも前に自慢話になってしまうからである。このこともわからない人にはついにわからない。自己批判をしているつもりの人もある。弁解をしているだけだと思っている人もある。しかし自己批判にしても自己嫌悪の表明にしても、また弁解にしても、自分のことを語ればそれは所詮自慢話でしかないのである。(p99)

 もてない話だって自慢になるというのである。自分を主人公にして小説を書くということは、自分のしたことが書くに値する存在であると自ら認めることである。すなわち自慢である。p156で小谷野氏はいう。「これだけは言っておかなければならないのだが、出世したいとか、社長になりたいとか、文学賞がほしいとか、あいつの収入はどれくらいだとか、そういうことを考えていて、それを表明すると一見俗物に見えるが、表明して隠さないという点において俗物を離れるという原理である。」 これが倉橋氏のいう「自分のことを語ればそれは所詮自慢話でしかない」である。おまえらはみな俗物だが、俺は俗物ではないぞという話である。多くのひとが私小説に感じる違和感の一番根源にあるものはこれだろうと思う。
 また、倉橋氏はいう。

 一般の小説では語り手の「私」が作者と同一人物であってはならず、ましてこの「私」が作者と同じことを小説の中でもする、つまり早く言えば作者が自分のことを「私は」の形でそこに書くのは小説の基本ルールに違反する。(p97)

 なぜか?

 ここで「自分のこと」というのは、自分のしたこと、言ったこと、考えたこと、および家族や友人その他自分と関係のある人々のことを指しているが、それを語ること自体が禁止されるべきだというのではない。自分のことを自分のこととして「私は」で語るのはルール違反なのである。自分がしたのと似たことを作中人物にもさせ、作者が自分のと同じ考えを作中人物にも語らせたくなるのは当然のことであって、それ自体は別にルールに抵触しない。要はそれを自分のことではないかのように作り話として書けばよいのである。(p97)

 自伝と小説は違うということである。「西洋にもある、作家自身の体験を描いた小説、ないしはそれを変形したもの」というのはそれでも小説である。自分のことを書いているのかもしれないが、それはたまたま自分であるということであって、自分でなくてもかまわない。
 さらに、倉橋氏はいう。

 読者の中の暇と好奇心に恵まれた人が、そうは言ってもこの人物は作者自身であるらしいとかあの人物は実在する何某のことであるらしいなどと穿鑿することはまったく自由である。世間にはそれを小説を読む楽しみの一つに数える人もいる。(p97)

 何某氏の小説は実は作者自身の体験を書いている、などと調べ上げたりするのが学問にさえなっているのかもしれない。しかし、それがわかったからといって作品の価値が上がるわけでも下がるわけでもない。
 最近の佐村河内氏の問題で、作曲者が全聾の苦悩するひとであると思われていた間は世評が高く、その作が代作であるとわかった途端に「偽物」「まがい物」に転落してしまった。つまり「純文学」であると思っていたら「大衆文学」であったのか!、魂の籠もった「おのれの血を流して」作曲したものかと思ったら、そうではなかったのか!、ということである。しかし、その「交響曲第一番」が多くのひとをとらえることができたのは、これがきわめて優秀な職人の仕事であったからであることが大きいこと忘れてはならない。とはいっても、佐村河内氏の事件は、「おのれの血を流した」作品というような宣伝が現代においてもきわめて有効に機能するということを示した。作曲においてもそうなのだから、文学でも同様である。私小説の宣伝文句は「おのれの血を流した」真摯な作品という方向にいきやすい。
 わたくしは倉橋氏の論に全面的に賛同する。倉橋氏は「このこともわからない人にはついにわからない」とするが、わからない人には、日本の「私小説」と西洋の自伝的要素の強い小説の違いも見えにくいのかもしれない。ある人には自慢話にみえるものが、別のひとには「おのれの血で書いた真摯な作品」にみえるのである。
 ノーベル賞の話になぜ私小説のことがでてくるのかというと、「近年、ノーベル賞の動きを見ていると、どうやら西洋でも、私小説こそが純文学だという見方が、はっきりとは意識せずに広まっていう気がするのである」(p29)ということからで、1976年にノーベル文学賞を受賞したソール・ベローは「自身の苦悩を作品にした「ハーツォグ」が評価されたから」であり、また近年受賞したクッツェーは「少年時代」では自分の子供時代を描き、邦訳されていないものではもっと私小説的色彩の強いものを書いている、というのがその根拠となっている。しかし1976年というのは40年近く前である。近年なのだろうか? 「意識せずに」「気がする」などということでそう言われてもである。
 第一、ノーベル文学賞が西洋の文学動向を代表しているのだろうか? 小谷野氏は西洋にもある作家自身の体験を描いた小説、ないしはそれを変形したものとして、ディッケンズの「デイヴィット・コパーフィールド」やフロベールの「感情教育」さらにはプルーストなどをあげる。しかし、これらと日本の私小説の間には千里の隔たりがある。「日本で私小説がずっと迫害されてきた間に、海外ではむしろ私小説への流れが動いていたとも言える」(p30)という主張に賛同するひとがどれだけいるだろうか?
 「売れない作家の中に真摯な素晴らしい作品を書く作家もいる。おのれの血で書いたというような作品もある。しかし、そういう作品は読む者にも血を流すことを要求する。だから売れない」という百田氏の論も無茶である。「売れない」のは「読む者にも血を流すことを要求する」からではなく、「職人としての技術」がなく、読むに堪えないからである。技術で売ることができないから、自分のなけなしの悲惨な体験などを売りにするしかないことになってしまう。
 「人は誰でも、心の奥底にしまっている経験がある。蛮勇を揮ってそれを描けば、優れた私小説ができるかもしれない。だが、まずその蛮勇が普通は出ないし、仮にできても、それ一作、少しがんばっても二、三作しかできない。さらに、そういうものは売れないから、作家として生活することはできない。だから、純文学は私小説で、それは余技としてしか成立しないのだ。」(p32)というのもわからない。「心の奥底にしまっている経験」などないひともたくさんいるし、あっても蛮勇を揮わないひとのほうが普通である。蛮勇を揮うひとは普通ではないわけで、それで、私小説は「自分は普通ではない」「自分は凡人ではない」という自慢になるのである。そして二、三作しかできないのは文学の勉強をしていなくて技術がないためで、売れないのは面白くないからである。
 丸谷才一鹿島茂三浦雅士「文学全集を立ちあげる」で、鹿島氏がいっている。「新人作家がいっぱい出てくるんだけど、彼らがほとんど昔の文学作品を読んだことがないまま小説を書いている・・。小説というものの本質、技術もなにも知らないで、いきなり新人賞でデビューする。そして、とりあえず自分のまわりのことを二、三作書くと、もう書くこともなくなって消えていってしまう。小説の骨法がわかっていれば、もっと伸びる才能があるはずなのに、残念だなあと思いました・・。」
 ひとにものを売ろうというのに、ろくに勉強もしていないで平気というのは、太い根性としなければならない。大江健三郎だって、倉橋由美子だって、村上春樹だって、村上龍だって生き残ってこられたのは、天性の才能がありかつまた努力してきたからである。大江の初期の「飼育」や「芽むしり仔撃ち」の叙情というのは生得のものである。「万延元年のフットボール」だって、それがなければ読めたものではないものになっていたはずである。
 中島梓「夢みる頃を過ぎても」に「ムラカミは電気羊の夢を見るか」という章があって、龍・春樹+ばななの「売れる〈純〉文学ベストスリー」を論じている。結論というのが、

 プロパー諸君の敗けである。《両村上》は面白い。だから売れているのだ。それだけのことだ。・・はっきりいってこの二人は現在の《文壇》のいろんな作家たちのどれとくらべても力量がケタはずれだと思う。吉本ばななとくらべてもだ。・・これじゃ売れて当然じゃないか、というのが私の結論だ。(ここで論じられているのは、「昭和歌謡大全集」「五分後の世界」「ねじまき鳥クロニクル」「アムリタ」「マリカの長い夜」(p120〜124)

 である。
 小谷野氏の論で、小説の素材というか材料のことばかりが論じられ、それをどう料理するかという技術や才能の問題が少しも論じられることがないのが不思議である。
 「文芸時評という感想」で荒川洋治氏は村上春樹の連作集「神の子どもたちはみな踊る」を評していっている。

 こうなってみるとこの日本では村上春樹だけが小説を書いているのかもしれないが、だとしたら村上氏ではない人たちはどんな気持ちなのか。うれしいのか。おもしろくないのか・・作家たちはどう対処するのか。大きく分けて二通り考えられる。1)「□□という人がいま若い人にはたいへん人気があるようだね」と事務的に処理する作家。/ 2)「□□はたしかに才能ありますよ。でも、ほら、いろんな小説があっていいわけでしょ。わたしはわたしなりに、ひとつひとつだいじに書いていくしかないと思うの」と述べる作家。/ ぼくはいま作家には、この「二人」くらいしかいないのではないかと思う。「ははあ、同じ時代にこんなふうに書く人がいる、負けた、どうしよう」というような人はほとんどいないのはないだろうか。だから工夫もアイデアもない小説が平然と書かれていくのだ。・・小説というのは先頭に立つ人だけが書くもので、読者はそれに「みたない」作家たちの作品を思いきり無視していい、というくらいのものなのである。そのくらい文学は、恐ろしい社会であるべきだ。/ 村上氏の今回の作品は、読者への想像力をこれまで以上にはたらかせ、読者の立場に合うものとになっている。「わたしなりの」小説を書いているのではない。いま作者たるものが読者に向けて書くべき小説を書いているのだ。(p222〜223)

 小谷野氏は「純文学小説を書きたい者は、かつて同人誌に作品を発表したように、ウエブサイト上に発表すればよく、批評家がそれを見つけて批評すればいいと私は思っている」という。梅田望夫氏の「ウェブ進化論」のロングテールのような論である。しかし梅田氏は、ウエブ社会の到来によって、かっては永遠に忘れ去られてしまう運命にあったものもうもれず見いだされることも不可能ではない時代になったというのであり、あくまで可能性であって、大部分は埋もれたままであることにはかわりはない。
 梅棹忠夫氏の「わたしの生きがい論」にこんなところがある。

 今日では「くう」ということからはなれた文学もたくさんはじまっている。文学ないしは疑似文学、何か文学らしきものをかいている人というのはこんにち世界でおびただしい数になりつつある。これは工業時代の一つの成果として、教育がたいへん普及したということの結果なんですが、それによって自分で本もよむし、自分自身かくようになった。かく結果、作品がいっぱいでてくるわけです。しかし、よむ人はごく小数である。/ つまり、かくことに値うちがあるんだという文学ですね。だれもよまない小説というようなものがいっぱいでてくる。印刷もされないかもしれない。印刷されても、だれもよまないかもしれない。/ じつは、日本の文学は、かなりはやくからそういう形態に接近しているんです。俳句とか和歌はそうでしょう。いろいろな俳句の雑誌、和歌の雑誌がでていますね。新聞にも俳壇、歌壇というのがありますけれども、あれをよむのはおそらく本人と選者とぐらいでしょう。あと、だれがよむものですか。しかし、あれは何かたいへん、その作者の人生にはりあいをもたせているんですね。つまりあれは、自分のための文学という、文学の究極的な形態を先どりしているのかもしれません。/ 壮大な長編小説、ごついのをがんばってかいて、ああできた。ところが、だれもよまない。しかし、それでもちっともかまわないではないか。そういうものですね。これは、いうなれば家庭菜園です。家庭菜園で立派なトマトができた。そんなもの、だれも感心もしません。自分ひとりでよろこんでいるだけです。/ しかし、それでいいじゃないのか、ということです。大規模にトマトを栽培してうりだすとかすると、いろいろと問題がおきる。人さまにご迷惑をおよぼすわけです。自分で、自分のとこでやっているのなら別になんということはない。・・/ 役にたってはいけないんです。/ 役にたったら、人さまに、いい意味でもわるい意味でも影響をおよぼしますから。(p139〜140)

 一方に「先頭に立つ人だけが書く小説」、もう一方に「だれも読まない自分ひとりのための小説」。小谷野氏はいう。「私は、人間が過去に苦しい思いをして受けた傷があれば、それは人に話すこと、ないしは書くことによって軽減されるのではないか、と漠然と思っている。その一つが、私小説を書くことである。/ だがもちろん、過去に受けた傷というのは、誰かから受けたものであることが多いわけで、それを私小説として書けば、その者たちから嫌がられたり、世間から非難されたりする。私は性分として、誰が嫌がろうとも書いてしまったほうがすっきりすると思っている。もちろんそれは、最近思うようになったので、若い時は恐くてできなかった。/ 私はフロイト精神分析を科学としては認めていないのだが、精神分析家が、患者から話を聴くという行為には、そういう意味で、治療的効果がありうると思っている。」(p81) 小谷野氏もよく知っていることであろうが、カウンセリングなどで発見される「自分が過去に苦しい思いをして受けた傷」という記憶はしばしば捏造されたものである。親から虐待を受けたことによって自分の今の悲惨があるといって親を裁判で訴えるが、それが事実無根であることが判明するといったことはしばしばみられる。
 精神療法において受容と傾聴がきわめて大きな治療的効果を持つことは周知のことである。そして精神療法にはナラティヴ・テラピーとよばれる治療法がある。この分野についてはまったくの素人であるが、その治療の過程で形成される「物語」は本当のこと、ありのままのものである必要はなくて、それが治療促進的なものであればよしとされるのではないかと思う。何らか首尾一貫した自分にとって納得のゆく物語がそこに形成されればいい。当然、その過程で記憶が創造されることもあるだろう。もしも、私小説執筆が過去の苦しい思いや傷を軽減させる効果があるとすると、同じことがおきているはずで、その私小説に書かれたことは「ありのまま」のことではなく自分にとっての首尾一貫した物語であるからこそその効果がもたらされる。とすれば記憶の再創造もなされる。
 そういうものによって「人さまに、いい意味でもわるい意味でも影響をおよぼす」とすれば、そんなものは書かれないほうが、すくなくとも発表されないほうがいいということになる。家庭菜園のなかで消費されるべきであって、一般に売り出したりはしないほうがいいという話である。
 河合隼雄との対話で村上春樹がこんなことを言っている。「ぼくの小説を読んで、自分の問題が非常に明らかになったと、手紙を書いてきたりする人がいます。「どうして自分のことを書いたのか」という人が非常に多いのです、「なぜわたしのことをそんなに知っているのか」と。」 村上春樹の小説が多く読まれるのは、氏の提示する物語が、精神科医が提示する「物語」のような役割をはたしているからだろうと思う。なぜ、そのようなことが可能かというと(おそらく)村上氏自身が病んでいるからであろうと思う(「ぼくという人間は、自分がある程度病んでいると思う。病んでいるというよりは、むしろ欠落部分を抱えていると思います。(同書p110)」)。
 そして氏が小説を書くということはまずそれが自分を癒やすためであり、自分自身を癒やすからこそ他人をも癒やす効果があるということなのだろうと思う。わたくしも小谷野氏同様、純文学と通俗文学の違いというのはあると思っているが、純文学というのはフォースターが「小説の諸相」でいう「平面的人物」でない人物がでてくるもので、そういう人物がでてくると、われわれが抱く人間への関心に応えるばかりでなく、それによってわれわれが抱くさまざまな問題ともどこかでかかわりをもってくることになる(平野謙のいう「身につまされる小説」)。一方、通俗文学というのは、平面的人物がでてきて、われわれがもつ面白い話をききたいという欲求に奉仕するためだけに小説の中で動くものなのではないかと思う(平野謙のいう「われを忘れる小説」)。そして面白い話をききたいという欲求をわれわれが持つこと自体がすでに人間のもつ病理を示しているのかもしれないのだから、そうであるなら、純文学と通俗文学の境などきわめて曖昧になるのも当然ということになる。
 このように書いてくると村上氏の作を読むひとはみな《病むひと》であることになって(さらには純文学を読むひとはみな病人ということにまでなって)、「村上春樹を読むのは(男も女も)病んだ人間である」ということになってしまうが、世には小説などまったく読まないというひともたくさんいて、そういうひとのほうが健康であることはいうまでもない。中島梓が「夢見る頃を過ぎても」でいう。

 文学を「読むこと」にひきつづいて、「書くこと」がより有効な、私にとっての救済たりえた・・「文学」はそのようにして大勢の人間を救ってきた・・文学を衰弱させ、小説を衰弱させているのは私たちおろかな読者ではない。まさしく現在の、この下らぬ閉鎖的な空間に閉じこもっている純文学文壇と、それを形成している文芸評論家たち、そしてプロパーであることにすっかり満足している作家たち、それにあこがれて次々と芥川賞を欲しがるなさけない従順な新人作家たちである。彼らは本当に小説が面白いと思って読んでいるのだろうか。本当に作家としての活動がひとつやふたつの既成の賞の権威と何か本質的なかかわりを持つと思っているのだろうか? (p248〜250)

 中島氏も《病むひと》であることを自認している。しかし健康への意思を持つひとだった。病は克服すべきものであって、自慢すべきものではない。
 最近の村上氏の作品が面白くなくなってきているのは、以前の作品のほうが現代社会の問題に届いていたのに、最近の作品では村上氏の個人的な病理のみを反映した作品になってきてしまっているからなのではないかと思う。(「神の子どもたちはみな踊る」を絶賛する荒川氏も「ねじまき鳥クロニクル」第3部には両価的であるし(p102〜104)、「海辺のカフカ」には否定的である。(p293〜294))
 「多崎つくる・・・」にでてくるつくる君と赤黒白青君たちはみな村上氏の同類という嫌疑がある。われわれは村上氏の個人的な問題などには関心はないわけで、今という時代に生きる自分と何らかかかわるものを読みたいのである。小谷野氏は村上氏の小説にしばしば登場するニンフォマニア的な女性を、そんな女は本当にいるかとか、村上氏は過去にそういう女性とつきあったことがあるに違いないとか、いろいろいっているが、普通の読者はこういう女性を、現代の持つ病理の一つの像あるいは記号として読むのではないかと思う。
 小谷野氏はとても膨大な数の小説を読破しているひとである。そういうなかでこの小説には心底うちのめされたとか、こういうものこそが自分もまた書いてみたいという思いを抱かせた小説であったというものがいくつもあるだろうと思う。自分にとって小説とはどうあるべきかというのは、そこを考えるところから自ずとでてくるものではないかと思う。ノーベル賞受賞のための「傾向と対策」などというのは文学論としてはどうでもいいものであるはずである。
 福原麟太郎吉田健一を論じた文章のなかで「私などの知っているイギリス人で、いやしくも詩人だとか批評家だとか言われる人と、英文学の話を私がしているとする。あの詩人は好きだな、と私が言うとする。相手は、「ああ、あの詩人、何とか何とか何とか」と・・すぐ、その詩人の作のすぐれた詩句をたちまち暗誦する。・・決して「ああ、あの詩人は、象徴的で、極左の思想をほのかに表現する西暦何年生まれの、ケイムブリッジ大学出の有望な人だね」とは答えない」というところがある。どうも、小谷野氏の論には「なんとか大学出といったことを議論してる部分が多く、この作家の小説のこの部分は凄いと引用しているようなところはあまりみられない。それで小谷野氏がどんな文学のどんな部分に打たれるのかが今ひとつ伝わってこないのである。
 まだ基本的に第一章を論じただけなのに、だいぶ長くなってしまったので、稿を変える。
 

あたりまえのこと

あたりまえのこと

文学全集を立ちあげる

文学全集を立ちあげる

文芸時評という感想

文芸時評という感想

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)

村上春樹、河合隼雄に会いにいく

村上春樹、河合隼雄に会いにいく