山本勲 黒田祥子「労働時間の経済分析」

    日本経済新聞出版社 2014年4月

 わたくしが産業医をしていることから読んだもので、そのため長時間労働の健康にあたえる影響という部分を中心に読んだ。したがって、必ずしも全体の論点に目配りしているわけではない。
 産業医のかなり大きな仕事に「長時間残業面談」というのがあり、残業時間の多いものに面談してその健康状態に問題がないかをチェックするのが仕事になっている。これは本来、脳心臓疾患が長時間労働で惹起されるのを予防するという観点からはじまったものだが、そういうことが面談でわかるかといえば大いに疑問で、実際の面談の主な役割はメンタル疾患の早期発見という方向になる。面談に来たものが機嫌がいいか、面談時に笑顔がみられるかといったことをみていくわけであるが、時には、かなりやけになっているのはないかと思われるものがあったり、まれにはすぐに仕事を休ませなければいけないと思われるものがいたりする。なんだかニコニコしているなと思ったら、「今月一杯で辞めます」などということもある。
 そういう面談をしていて感じるのは、日本の企業というのは残業を前提とした仕事と人員を想定しているのではないかということで、たまたま突発的に対応しなければいけない事態になったから残業するとかではなく、一年中つねに残業をしているセクションもある(年度末といった時期に忙しくなる部門も多いわけだが)。
 いずれにしても本書で書かれているような午後6時過ぎにはオフィスに誰もいないという欧州の状態などはありえない印象である。グローバル時代で、昼間仕事をして夕方以降は時差の関係でヨーロッパの現地からのメールなどへの対応がはじまり、つねに深夜まで仕事。でも、たまにヨーロッパに出張すると、「むこうでは5時過ぎたら誰もいませんよ、なんで日本とむこうではこんなに違うのでしょう」と泣いている。
 わたくしが関係しているのはホワイト・カラーのかたのみだが、その仕事は資料づくりというのが非常に多い。会社である「なんとか会議」の資料、「上司に提出」する資料、昼間はそれにとられて自分の本来の仕事ができるのは5時以降などといっている。問題は作っている側が「本当にこれを誰か読んでいるのだろうか?」と疑っているような場合がかなりあることである。規定だから作っているが本当にこれ誰か読んでいるの?と疑問を感じているらしい。精神衛生上よくないだろうと思う。また役所に出す書類。ださなければいけないが、出してもすぐに倉庫にしまわれてしまう。何かがおきないかぎり、永遠に(廃棄規定の時期になるまで?)そのまま。ただ何かアクシデントがおきたら、その書類が問題になる。だからちゃんと作成しておかなければいけないのだが、でもそのまま日の目をみない可能性が高い書類である。とにかくいろいろと変なところが見えていたので、本書はとても面白かった。
 まえがきに、「日本人は効率的に非能率なことをする」というところがあった。
 日本の長時間の残業は必ずしも負の側面ばかりでない、と著者たちはいう。正規雇用社員の雇用を維持しながら、残業時間の調整によって業績の変動に対応しうるというメリットもある、と。日本では就職後に企業内でスキルを身につけていく傾向が強いので、正社員の雇用を継続することは、企業にとってもメリットが大きいので、合理的側面もあるというのである。こういう視点は今まで考えたことがなかった。
 OECD統計では、日本人での年間平均労働時間は減少してきているのだそうであるが、これは労働時間の短い非正規雇用労働者の増加によるものであって、正社員だけでみると、週60時間以上働く男性労働者は、欧米では4〜7%。日本では18%と日本が断然多い。
 日本人は、余暇を楽しむよりも多くの所得をえたいために長時間働いているという説があるが、そうではなく、長時間働くものが高く評価されるという職場環境がそうさせている、と著者たちはいう。それで相対的に労働時間が短い欧州へ転勤すると、日本人でも、帰国後も就業時間が短くなる傾向があるのだ、と。
 ワークライフバランス(WLB)施策は、すぐに生産性を向上させることはないが、従業員が300人以上、製造業、労働時間の固定費が大きい企業では、中長期的には生産性を向上させる可能性があるということがいわれる。
 長時間残業(特にサービス残業)がメンタルヘルスを悪化させるし、メンタルヘルスによる休職者の増加は2年位のタイムラグをもって企業の売上高利益率を減少させることが指摘される。であるから、精神疾患による休職者比率は、その職場の労働慣行や職場管理の悪さの代理指標あるいは先行指標になっている可能性がある。
 日本では、25年前からフルタイム雇用者の平均労働時間はほとんど変化してないのだそうで、そうであるなら、週休二日制が普及したので、平日の勤務時間はむしろ増えているのだという。
 日本人はやはり働きすぎであって、通常労働時間だけみても、育児・家事の時間をくわえてもそうである、と。しかも生産性は低いのである。働くのが好きで働いているのではなく、希望労働時間よりも多く働いている。
 日本とアメリカを比較した場合、男性では労働時間は日本がアメリカよりも週10時間くらい多いが、家事にかける時間が8時間くらい少ない(日本1時間、アメリカ9時間)ので、総労働時間は3時間くらい多いだけ。家事と育児の時間をくわえると、日本では男性より女性のほうが多く働いている)という話は面白かった。アメリカの男性は家事もたくさん手伝うのである。日本の男性はしないようで、わたくしはゼロかも。女房は働いていないけれど。わたくしの知り合いの女医さんは共働きなのだけれど、出産で仕事を休んだ途端、旦那さんの態度が一変して家事をまったく手伝わなくなった、日本の男の本音を見た、と怒っていた。彼女はすぐに子供を親にあずけて働き出した。
 OECD加盟国でみると(2012年)、一国あたりのGDPは、1位がアメリカ、2位日本、3位ドイツ、4位フランス、5位イギリス、6位イタリア・・・ということになるのだが、一方、労働時間あたりのGDPでみると、1位ノルウェー、2位アメリカ、3位オランダ、4位フランス、5位ドイツ・・・となって、日本は19位、アメリカの66%なのだそうである。つまり生産性の低い労働を長時間していることになる。
 「頭痛やめまいがある」などの健康にかんする自覚症状の有無と長時間残業には相関がある。(実労働時間が希望労働時間より長いと思っていて労働時間をもっと減らしたい人ほど、それが顕著になる) また、不本意に非正規雇用についている労働者ほど、多くの心身症状が生じ、ストレスを抱えている。
 労働の固定費(採用・解雇・教育など)が大きい労働者に対しては、企業はより長時間労働を要請する傾向がある。残業の糊代といわれるもので、これは解雇が難しく、労働市場流動性が乏しい日本における雇用調整の大きな手段となっている。日本人での希望労働時間と実勤務時間の差の2/3はそれによるが、上司の職場管理の方法によってはそれを減らせると著者らはしている。
 日本の企業では、顧客のニーズへの24時間対応、無理な注文にも残業してでも何とか応じるといったきめの細かい対応が売りであり、これはこれからのグローバル時代においても日本企業のセールスポイントであり、だから長時間労働は避けられないとする管理者が多い。(TEINEIとかが売りとなる。)
 日本では商談のプレゼンには十二分に準備して完璧な準備をする。欧州では、事前の準備は適当ですませ、クライアントとの交渉の過程でニーズを汲み取り、商談がまとまった段階になってはじめて細かいところまでつめる。つまり、最後に辻褄をあわせる。大抵の仕事は2割の労力で8割程度の完成度まではいくのであり、欧州ではそこまで準備をおわりにする。一方、日本人は残りの8割の労力をかけて10割の完成度をめざす。しかし、結果はあまり変わらないのだと本書ではいわれている。。
 日本では資料の作成や上司への気配りが労働の相当部分を占める。こういう「社内サービス」は会社の業績とは結びつかない「悪い長時間労働」かもしれない。
 仕事の「要求度コントロールモデル」という考え方がある。1)要求度は低く自由に仕事をすすめられる仕事:低緊張な仕事 2)要求度は高いが自由な裁量で仕事が進められる:積極的な仕事 3)要求度が低いが自律性もない:消極的な仕事 4)要求度が高いが自律性がない:過緊張な仕事。この中で、最後の「過緊張な仕事」からメンタル疾患が生まれやすい。また「努力報酬不均衡モデル」では、努力と報酬が見合わないとストレスが増える、とされる。
 従来、メンタルヘルスの悪化は企業や職場環境ではなく、労働者個人に原因があるとする傾向が強かった。(「本人の性格の問題」とする企業が7割近くという報告もある。)また、年収が多くなるほどメンタルヘルスの状態がよくなる。自分の守備範囲が明確で、仕事の進め方に労働者の裁量があると、メンタルヘルスの状態がよくなる。突発的な仕事が頻繁におきるほどメンタル疾患が多くなる。周りの人が残っていると退社しにくい雰囲気がある職場ほどメンタルヘルスが悪くなる傾向もある。周囲にメンタル疾患がいるものでは、本人のメンタルの状態も悪化しやすい。
 根回しという日本人には当たり前に通じる言葉は、英語やドイツ語にはそれに相当する言葉がない。日本人は欧州赴任前は平均4.3人に根回ししてたが、赴任後2.8人、現地採用スタッフがイギリス法人1.9人、ドイツ法人では1.8人。日本では根回しにイギリスやドイツの倍以上の労力をかけていて、これが長時間労働の原因のひとつとなっている可能性がある。
 欧米では、使用者のメンタルヘルスに対処する最も主要な方法が、当該被用者の解雇である。だが、日本のように雇用した者に人的投資をし、長期雇用での育成が前提の労働固定費が大きいところでは、それは投資コストの未回収にもつながる。また、精神疾患発症者の解雇は裁判になると、安全配慮義務違反と認定される可能性が高い。
 メンタル疾患による休職者は0.4%位、離職者は0.2%くらいであるが、いづれも20〜30歳代に多く、情報通信業に多くみられる。離職者は企業の規模が大きくなるほど少なくなる。これは病気休暇制度の普及の程度がおおきくかかわっている。
 メンタルによる休職者や離職者は1%以下であるため、企業の業績にはあまり影響しないという見方もある。しかし、休職者や離職者のまわりにはその潜在的な予備軍が相当数いるとも考えられ、企業のパフォーマンスに影響する可能性がある。
 EUには「休息時間制度」というのがある。一日あたり最低連続11時間の休息を付与することを義務化した制度で、たとえば、前夜11時まで働いていたら、翌日の勤務は10時からでよく、それでも始業時間からの給与は支払われるというものである。またドイツでは、「労働時間貯蓄制度」があり、繁忙期の超過労働時間の一部を「貯蓄」し、閑散期に休日として付与するものである。労働者としては閑散期にまとまった休みがとれるし、企業のほうは、時間外手当を休日にふりかえることができ、その手当が不要になる。

 以上が著者たちの主張であるが、これからグローバル化が進んでいくと、欧米流に、メンタル疾患に罹患した従業員への対応が解雇というようなことになっていく可能性がある。しかも、終身雇用などというのも死語になりつつある。バブルのころにはとにかく大量の採用したらしい。その中にはいまひとつというひとも当然いることになるが、年功序列でそういうひとでも何となく管理職にはなってしまっている。だが、パフォーマンスがでなくて困っているというようなことがあちこちでおきてきているらしい。こういう人たちが冷遇され、それでメンタルに不調をきたし、それがまた解雇につながっていくというようなことが、これから日本でもおきてくるような気がする。そしてそういうひとを見ている周囲から、自分もまた不安にかられて、メンタル疾患罹患者がでてくるというような悪循環に広がっていくかもしれない。
 そして、根回しもせず、資料の作成は8分目で適当で終えて、周囲が仕事をしていようと平気で自分の仕事は終ったとして帰っていくような図太い若者が増えていくとも思えない。むしろ産業医療の立場からみると最近の若者のひ弱さがいやでも目につく。仲間内の評価に敏感(過敏?)で、打たれ弱く、ちょっと問題点を指摘すると自分の人格の全否定ととるようでは、これからうまく生きていけるだろうかと心配である。でもまあ、自分の若いときだって似たようなものだったかもしれないわけで、時間が解決してくれて、何とかなっていくのかもしれないが、その何とかなっていく時間を企業があたえてくれるだろうかと思う。即戦力が期待される時代になってきているが、むしろいままで以上に、企業内教育に時間を割かないと一人前にならない若者が増えていく可能性が高い現状と相反している。どうもそういう即戦力は日本以外に求めたほうが早いということになりそうな予感がする。
 本書を精読しているわけではないので、見落とした可能性があるが、こういう問題を論じる場合に最近話題の格差医学の問題は無視できないのではないかと感じた。また高橋伸夫氏の「虚妄の成果主義」などともテーマに共通するものがあるようにも感じた。
 産業医療にかかわるひとには、多くの示唆をあたえる本であると感じた。

労働時間の経済分析 超高齢社会の働き方を展望する

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ステータス症候群―社会格差という病

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虚妄の成果主義 日本型年功制復活のススメ (ちくま文庫)

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