L・クラウス「宇宙が始まる前には何があったのか?」(1)「ペーパーバック版へのまえがき」と「はじめに」と「ドーキンスによるあとがき」と「訳者青木薫氏の解説」

    文藝春秋2013年11月
 
 こういう量子力学宇宙論を論じた本を論じる能力をわたくしはまったく欠いている。高校一年までは文学部志望だったが、高一の夏にどうも日本の文学の現状は問題がありそうと思うことがあり、それで医学のほうにいくことに決めた人間なので、物理・数学は大の苦手である。高二になる時に理科を2科目に絞っていいことになった時、迷わず化学・生物を選び、物理は捨てた。
 わたくしが通った学校は変わったところで、ある時の物理の問題が、「ひらひらと月光降りぬ貝割菜」という(今、調べたら、川端茅舎作)句がまず提示されて、さて重いものを落とすとすとんと落ちる。しかし紙などはそうではなく、ひらひらと落ちる。それを物理学的に説明しなさいというものであった。なんと回答したかまったく覚えていないが、こん畜生と思ったから、問題だけはよく覚えている。ということで、物理学の関する知識は中三あたりで停滞したままである。
 それで大学に入って困ったのが、教養過程で物理学が必修であったことで、これが不合格であると進級できない。そして物理の担当教官が前年に学生の答案を採点していて、どうもおかしいという二人を呼び出し、「きみきみ、どちらかがカンニングしているんじゃないかね? 正直に言えばとがめないから、いいなさい」といって、「すみません。ぼくがカンニングしました」といった生徒を直ちに退学処分にしてしまったというおそろしい伝説の持ち主で、びびった。それで大慌てでにわか勉強をしたのだが、そこで「場」という考えにはじめてであった。わたくしの理解では、「空間が何らかの物理的性質を持つ」ということらしかった。高校でも教えていることなのかもしれないが、途中逃亡のわたくしとしては初耳で、非常に新鮮だった。空間というただの広がりが物理学的性質を持つ?と不思議に思った。さいわい、予習していたこの「場」の問題がそっくりそのまま出題されたので、何とか赤点をとらずにすんだ。
 本書には「場」という言葉が頻出する。わたくしの知識は上記の程度なので、本書の内容はまったく理解できていないと思う。しかし、こういう本を読むと、「場」という概念を知っただけでも、大学の物理の授業はまったくの無駄ではなかったのかもしれないと思う。
 ということなので、本文を敬遠して、それよりは理解しやすい前書きと後書き、それと解説部分をとりあげる。で、一応は(1)としたけれども、本文はわたくしの理解を大きく超えているので(2)はないかもしれない。
 
 しかし、その「まえがき」からして変なのである。
 「ペーパーバックへのまえがき」
 本書のテーマである「無から宇宙が生じる」ということには、ハードカバー版のときに、かなりの読者から、いろいろな感情的な反発があったのだという。とはいっても、ハードカバー刊行からペーバーバック刊行の間に、物理学の世界ではヒッグス粒子の存在確認という極めて大きな前進があった。だから、本書の主張はますます確固とした基盤のうえに立つことになったという。
 無(nothing)という言葉は非常な混乱のもとになるのだという。どうも神学とか哲学がでしゃばってくるらしい。というか本書を読んでいて、実に奇妙に感じるのは、宇宙の起源というような純粋に物理学の問題と思われる論点が、すぐに創造神という問題を呼び出してしまうらしいことである。日本でこの手の話題を論じる本を出して、ヒッグス粒子だとか暗黒物質だとかを論じても、「神様」の出番はないだろうと思う。
 「はじめに」で、著者は「「宇宙が誕生したからには、造物主が存在するはずだ」という、あらゆる宗教の基礎にある信念」ということをいう。しかし、たとえば仏教はそんな信念をもたないだろう(仏教は認識論であって宗教ではないかもしれないが)。つまり著者には宗教というと一神教型のキリスト教のようなものしか頭にうかばず、あらゆる宗教がキリスト教に類似したものと思えてしまうようなのである。
 本当かどうかしらないが海外にいくと「あなたの宗教は?」というようなことを聞かれたり書かされたりするとがあるようで、そこでうっかりと「無宗教」などとすると大変なことになるのだそうある。嘘でも「仏教」などとしておいたほうが無難なのだという。
 宗教を持たないというと、おのれを律するものが何もなく、飢えれば食い、渇すれば飲み、欲すれば犯すという獣同然の人間とされてしまうようなのである。西洋人はそういう馬鹿なことをいうが、日本人は無宗教ではない、「日本教」という大宗教の信者なのであると山本七平氏はしたが、「あなたの宗教は?」というのに「日本教」と書いてもあちらでは通じないであろう。
 ところで、最近の、理研対小保方さん騒動を見ていると、理研の対応は旧来からの典型的な「日本教」による対応であると思うが、小保方さんというひとは「日本教」がまったく通じないひとなのだと思う。そしてその背後にいる弁護士さんたちもまた同じで、「論よりは 義理と人情の 話し合い」とか「理詰めでは 出来る調停 角がたち」とか「わだかまり とけばおのずと 元のさや」とか「角ばらず かもしもぬいで 穏やかに」とか「善し悪しは 委員にまかせ 我を張らず」とか「双方の 納得出来る 名調停」とかの「調停いろはかるた」など薬にもしたくないのであろう、と思う。「三人吉三」は遠い江戸の世界であり、さらには劉備関羽張飛の「三国志演義・桃園の誓い」などは夢の彼方、「義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい男の世界」などというのは現代の裁判制度にはなじまないということなのであろう。
 閑話休題、問題は「なぜ宇宙がこのようになっているか?」という問いが、「そのようにしたのは誰か?」ということに、西欧圏ではほぼ自動的に結びついてしまうのかということである。
 著者は科学における「なぜ」は「いかに」ということであるとする。だから「なぜ宇宙がこうなっているか?」は「どのようにして宇宙はこのようになっているか?」ということで、誰がという問いはでてこないとする。だが、物理法則を論じていても、その法則がそうなっているのはなぜか?、誰がそのような法則をつくったのか?という議論がまたすぐにでてくるらしい。
 「誰がそのような法則をつくったのか」という問いは論点先取であって、「誰かそのように作ったひとがいる」ということがすでに仮定されてしまっている。
 科学の歴史は、そのような「誰か」を消してくる過程で、生物学では「なぜ」という問いに唯一回答を提供したのが進化論である。しかし、同じ生物学でも、日本では社会生物学論争などというものはおこらず、それがぴんとこない。日本の科学の世界では「どのようにして」は議論されるが「なぜ」は問われない。科学とは「どのようにして」を論じる場であることがすでに共通の認識となっている。
 そして日本では(おそらく)宗教の世界でも、科学の世界ではどんなことがいわれているかには関心がなく、そもそもキリスト教にしてもほとんどイエスの宗教であって、旧約聖書などはイエスのころに伝承されていたさまざまな物語の集まりくらいにあつかわれ、敬して遠ざけられているのではないかと思う。
 聖書にかかれた通りに世界が創造されたと信じているキリスト教徒などあまり日本にはいないように思う。牧師さんだって神父さんだってそうだと思う。まあ、あちらだってそうなのかもしれないわけで、天地創造ではなく、ビッグ・バンが神の技ということになっているのかもしれない。
 日本のほうが文明国なのである。しかし、科学を生んだのはギリシャイオニアである時に生まれた物の見方であるはずで、数学の完全性といったピタゴラス派のみかたはプラトンのイディア論にも深くかかわっている。西欧を生んだギリシャ思想、キリスト教、ローマ法、どれもわれわれにはぴんとこないものなのである。
 それは、われわれがすでに江戸時代において世俗化してしまっていて、超越的なものへのアンテナを欠くようになってしまったためで、日本人にとって科学は「モノ学」であって、その背後の超越的な原理を探るものではない。宇宙論も壮大ではあるが、やはり「モノ学」の延長にあるもので、神様の出番はない。
 だから「宇宙が始まる前には何があったのか?」というタイトルの本をみれば、ビッグ・バンが宇宙の始まりとわれわれは教えられているが、その「始まりの前」とは何なのか? 始まる前には何があるのか? 始まる前の時間とは?、といった議論がはじまることを、われわれ日本人は期待するのではないかと思う。
 まさか宇宙を始めたのは神様か(あるいは、始まりがあるということは、始まりを司るなんらかの存在があるということのなのではないか)といった方向の議論がはじまることを予想しておらず、面食らってしまうのである。
 2012年夏のヒッグス粒子の発見は、宇宙の始まりを考えるうえで画期的なものであったらしい。20世紀の前半、4つの基本的な力のうち、量子力学と矛盾せずに理解できていたのは電磁力ただ一つであったのだそうであるが、20世紀後半になると、既知の4つの力のうち電磁力と弱い力は、基礎となる一つの力の二つの異なる側面であることが明らかになったのだそうである。(このあたり、引用しているだけで、意味は不明。)
 50年前に、ヒッグスらが、もしも目に見えない背景の場(ヒッグス場)が全空間に染み渡っているのなら、電磁力のような力を運ぶ粒子たちは、その場との相互作用で、あたかも抵抗を受けるようにふるまい、質量を持つかのように振る舞うという仮説を提案した。その場と強く相互作用する粒子は大きな質量を持つように振る舞い、弱く相互作用をする粒子は小さな質量を、まったく相互作用しない粒子(たとえば光子)はまったく質量をもたない。半世紀の探求のあと、2012年にヒッグス場は確認されることになった(それで、ヒッグスらは2013年、ノーベル賞を受賞することになった)。空っぽに見える(無のように見える)空間にそれが隠れているのである。問題はヒッグス場のようなものが初期宇宙においても支配的だっかということである(ということになるらしい)。
 
 「はじめに」
 p21で著者は「神もなく目的もない世界」ということをいう。「そういう世界は厳しく無意味に思えるかもしれないが、そうだからといって神が存在するという証拠にはならない」という。
 どうもこういうのが西欧の人の強迫観念らしい。もしも神が存在しないとすると、世界には何の目的もないことになり、人生には意味はなく、世界は無意味であることになり、神の存在していない世界は耐え難いものであるので、よって神は存在しなくてはならない(我らの生を意味あらしめるために)、というような方向の議論である。
 しかし、そういう神なしで平気で生きている日本人が、世界は無意味で生には意味がないと思っているかといえば、そんなことは少しもないわけで、だからこういう論自体が間違っているのは自明なのであるが、この本の著者のクラウスにしても、「あとがき」を書いているドーキンスにしても、どうも「神がなければ世界は無意味」論に対して腰が引けていて、なんとなく劣等感を感じているように見えてしまう。
 そうでなければ、このような「神がなければ・・」論など議論するまでもなく無視すればいいので、人間は進化の産物である。進化には目的はない。よって人の生にも目的はない。証明終わり、でどこがいけないのだろうかと思う。
 おそらく、根本の問題は「神」ではないのだろうと思う。人間は人間以外の動物とは画然と区別される、他の動物とは比較を絶する優れた動物であるという信念、そのほうが問題なのだろうと思う。
 なぜなら人間と人間以外の動物の違いは(西欧においては)「魂」を持つか否かということであって、それは神によって人間に与えられたからそうなっているのであるから、神が存在しないことになれば、人間と人間以外の動物の絶対的な区別は消失してしまうことになり、自尊の感情をもてなくなる、それが一番の問題なのではないかと思う。
 日本の場合、逆に問題なのは、一神教的な「神」を信じず、神が人間のみに与えた「魂」といった教義をまったく信じていないにもかかわらず、人間は他の動物とは隔絶された優れた動物であるという考えも、どこからか別のルートで輸入されて、われわれに広く行き渡っているということである。「社会生物学論争」がおきないのは、社会生物学の対象に人間が含まれようと含まれまいと、それが人間は万物の霊長であるという信念には少しも影響しないからなのではないかと思う。つまり生物学と人文学は別の蛸壺の中で活動していて、相互に交流がなく無関心なのである。
 西欧流のやりかたは一つの原理ですべてを説明していこうとするものである。日本では、あれはあれこれはこれで平気で、それぞれの問題にはそれぞれの説明があるのであるから、この場合はこの説明、あの場合はこっちの説明で少しも痛痒を感じない。(以前、山本七平さんの本で、「天皇陛下万歳」を叫んで突撃してくる日本兵に閉口したアメリカ兵が、捕虜になった日本兵に、君たちは知らないだろうがと進化論を教えたところ、みな知っていたのでびっくりしたという話を読んだことがある。明治期の日本人に進化論(スペンサー流の適者生存の方向の進化論だったようであるが)は非常に大きな影響を与えたらしい。しかし、進化論は万世一系の国体論に悖るといって、それを教えるなという議論がでたという話はきいたことがない。)
 ギリシャ由来のとにかく一つの原理であらゆるものを説明していこうという志向が科学を作ってきたことは間違いない。日本ではみな蛸壺にこもっているので、わたくしの専門はこの範囲、その外のことはほかのひとの領域で、自分はかかわらないし口出しもしませんという行き方をしている。宇宙の起源を研究するものが、人生の意味などという異分野に気を使う必要はまったくないことになる。
 クラウスは「科学の分野で起こったのと同じことが、今はまだ宗教が自分の領域だと思っている分野 ー たとえば、人間の道徳性とは何か、といった問題を扱う分野 ー でも、いずれ起こるだろうとわたしは見ている」という(p25)。
 「人間の道徳性とは何か」ということが科学があつかう領域になっていくかということについては、個人的には疑問に思う。人間が道徳性といわれる指向をどうして抱くようになってきたかということについては、おそらく進化生物学の方向から相当に大きな回答が得られていくのでないかとは思う。自己犠牲ということについて複雑な計算をして、どこまでの範囲の自己犠牲は自分の子孫を後世に残していくために有効であるかという議論はできる。しかし、その計算とはあわない行動をとるひともたくさんいるわけである。
 本書は当初、著者の友人クリストファー・ヒチンスが「まえがき」を書くことになっていたらしい。それがヒチンスの急逝によってリチャード・ドーキンスが「あとがき」を書くことに変更になったらしい。
 ヒチンスとドーキンスの二人はイーグルトンの「宗教とはなにか」で徹底的に虚仮にされていた。宗教というものはわれわれが持つ多くの文学や音楽や美術が生まれる原動力となったものであるし、科学を生む原動力にさえなってきた。要するに「美しいもの」「正しいもの」は過去においてはほとんど宗教と結びついていた。もちろん、「醜いもの」「間違ったもの」とも結びついたわけであるが・・。
 イーグルトンもいうように、神が世界を作ったかどうかということは、宗教の中心にある話題、宗教の根幹をなす話ではない。世界に対する姿勢が第一の問題となる。それにホットであるかクールであるかということで、宗教の側からみると、科学の世界はクールに見えるのである。そしてドーキンスは宗教に対してホットになっている。「ドーキンスさん! なんでそんなつまらないことに熱くなっているのですか? 世界には、貧困、飢え、圧政、不正といった熱くなるべき緊急の課題が満ちあふれているではないですか? そういうものは何とかしなければならない、正さなければならないということを歴史の中で主張してきたものこそが宗教だったのではないですか? 世界の起源など、どうでもよろしい。今の世界をこのままでいいか、このままではいけないか、それを問う心情にこそ、宗教は深くかかわっているのではないですか?」とイーグルトンはいう。しかしドーキンスが敵対するのは「狂信」とでもいうべきなにものかなのであり、宗教はすべて「狂信」に通じるとされてしまう。
 なにかドーキンスは静的でイーグルトンのほうが動的なのである。あるいはドーキンスが表面的でイーグルトンのほうが問題の根っこを捕まえているとでもいうのか。ドーキンスは宗教のなかでも箸にも棒にもかからない部分をこれこそ宗教の本質であるとし、イーグルトンは宗教のなかでも一番美しいエッセンスの部分を、これこそが宗教であるとしているように思える。
 ドーキンスは「あとがき」で、本書の議論を信じるならば、宇宙はいずれ無に戻ることになるのであるが、それを「控えめに言っても、勇気をふるい起こして見つめるに値する荘厳さがある」などという。どこからか「宗教派」が、科学はそう予言するのかもしれませんが、われれれを創り給うた慈悲深き神は決して、そのような未来を作ることはしません。われわれには永遠の命が与えられているのです、というようなことを言い出さないだろうかそれは困る、という感じが透いてみえるような気がする。
 「訳者解説」を書いている青木薫氏は、ここでクラウスが神についてむきになって議論していることに、あまり関心があるようにはみえない。クラウスは「科学は神を信じないことを可能にするのである」といっている。神を信じないことを可能にするのは、科学だけではないと思う。それが科学によってはじめて可能になったというのは違うと思う。
 神を信じないことは科学がなくても可能であるし、神を信じるひとは科学があっても信じる。それを誤解して、科学が普及すれば神を信じるひとはいなくなるはずだと思いがあって、だが現実にはそうはなってきていないので、議論が変な方向にいってしまうのではないかと思う。
 フクヤマの「歴史の終わり」のころには、東西冷戦が終焉を見て、これからの世界は西欧的価値の方向に収斂していくと、多くのひとが思ったのではないかと思う。思えば、東西冷戦の中心にあったのはマルクス主義であり、マルクス主義とはまさに西欧思想の嫡子の一つであり、キリスト教的世界観の流れからでている。
 東西冷戦というのは、その点からいえば、西欧由来の二つの思想の争いでもあったわけで、西欧思想が世界を席巻していたということでもあった。それが冷戦が終わり、まず、いままでほとんど考慮の外にあったイスラムが台頭し、ロシアがロシアに戻り、中国が中国に戻ると、もともとアメリカは西欧の異端児なのであるから、本来の西欧の力はきわめて微弱なものとなってしまう。そうするとM・ウエーバーがいった「魔術からの解放」はおこらず、世界はふたたび中世へと戻っていくことにさえなるのかもしれない。
 そして、価値中立的な科学はそれでも進歩をつづけ、思想の力ではなく、工学の力が世界を統制していくことになるのかもしれない。明治期に日本に移植された西洋思想は、ギリシャの思想がイスラム圏で保護されたように、日本で保管継承され、そこでかすかに命脈を保っていくことになるのかもしれない。
 なんだか、本書とはあまり関係のない話題になってしまった。
 

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