L・クラウス「宇宙が始まる前には何があったのか?」(2)「A Universe from nothing Why there is something rather than nothing 」

 
 「A Universe from Nothing」というのが原著のタイトルで「 Why there is something rather than nothing」というのが副題。著者のクラウスは「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」というのは「2千年以上にわたり、神学者、哲学者、自然哲学者、さらには一般大衆の心を捉えてきた疑問である」という。
 しかし一般大衆がこんなことを疑問に思うものだろうか? こんな頓狂なことを考えるのは暇人だけだろうと思う。
 この言葉どこかで見たことがあると思って、思い出したのがG・スタイナーの「マルティン・ハイデガー」だった。かすかな記憶で、これはハイデガー由来なのだと思っていたのだが、読み返してみたら、ライプニッツであった。「どうして何もないのはなくて、存在し実在するものがあるのか?」「Pourquoi il y plutot quelque chose gue rien?」(plutot の o の上に山形のアクサン)「ナニユエニ無デハナクムシロナニモノカガアルノカ」 これはライプニッツによる神の存在証明にでてくるらしい。われわれ日本人から見るといくつかあるとされる神の存在証明というのはすべて馬鹿げているとしか思えないが、西洋思想史の上ではライプニッツの「最善説」が、スペインの大地震でゆらぎ、やがてヴォルテールの「キャンディード」などの啓蒙思想の中で否定されというような流れのどこかにこれは位置するのであろう。
 さてスタイナーの本によれば、「ハイデガーが力説するのは、こうした問いが神学的なものではないということなのである。聖書あるいはその他の宗教的体系における創造の説明が真であるか偽であるかといったことは、本質的な問題ではない。それらは、ハイデガーが抱いているような存在への問いにはいかなる答えも与えることはできない。「哲学するとは、“なにゆえに無ではなく存在者があるのか”と問うことである。」信仰の見地からすれば、そうした問いは愚かしきことである。しかし「哲学とはまさしくこの愚かしさなのである」」とされている。
 わたくしは哲学に縁なき衆生なので、ハイデガーの論というのが馬鹿馬鹿しいとしか思えないのだが(といいながら、読んでもいなくて、読んだのはこのスタイナーの本と木田元氏のいくかの著作だけ)、たとえばアーレントの本などを読むと彼女が古典ギリシャの人々をあたかも昨日の人であるかのように身近な存在としてありありと実感していることに圧倒される。ハイデガーもそういうひとだったに違いないので(なにしろ哲学はギリシャ語(とドイツ語)でしかできないといったひとだから)、とにかくハイデガーとかアーレントというひとのなかには(そしてスタイナーにも(スタイナーはパリ生まれのオーストリアユダヤ人なのだそうである))、ヨーロッパの伝統の厚みといったものが濃厚にあることだけは感じとれる。そしてこの本の著者のクラウスに感じるのはアメリカの薄さといったものなのである。ドーキンスはイギリス人だと思うけれども、やはり薄いという感じが否めない。イーグルトンにからかわれるのはそういうところで、「 Why there is something rather than nothing」などというのは、信仰の点からいえばまったくどうでもいい問題、些末な問題であるにもかかわらず、それが重大な問題であると思っているとしか、本書のクラウスやドーキンスの言からは思えない。ドーキンスの「悪魔に使える牧師」とか「神は妄想である」などから、わたくしがまず連想するのは魔女狩りであり異端審問なのである。
 ドーキンスは進化論の啓蒙者であればよく、クラウスは「真空のエネルギーは、非常に小さいがゼロではない」という線をいけばいい。それは科学の範疇である。現代のほとんどの人文学者が科学の領域にはほぼ無関心であるのはまことに嘆かわしいことではあるが、だからといって生物学者や物理学者が人文学の問題までなんでも解決できると思うのもいささか自信過剰というものである。兎にも角にも科学の領域においては「真理」への接近ということが期待できないわけでもないかもしれないのに対し、人文学においては、ここ2千年くらい大した変化もおきていないのかもしれない。社会科学の領域においては経済学などで何ほどかの前進はあるのかもしれないが、歴史というただ一回しかおきないことの中で展開されてくる事象の分析であるから、一度の天変地異によっても攪乱され、ある国の指導者のちょっとした気まぐれによってさえ想定さえしていない事態がおきてしまう。
 スタイナーは「ハイデガーの思想、ハイデガーが六十五年余を費やして展開した存在論ないし、「存在の思考」は、ドイツ語および多くの西洋語にある ― ただし英語ではそうではない ― 文法上の特徴から由来していると言ってもさほど誇張した言い方にはなるまい」といっている。ドイツ語では「存在」という名詞は Sein で、「ある」という動詞も sein である。 
 日本語には be 動詞に相当するものがない。Why there is something rather than nothing. there is にもbe動詞がでてくる。there is そこに・在る。be 動詞そのものが存在を保証してしまっている。日本語にはbe動詞がないことで、われわれは幸福であるのかもしれないが、西欧(の学問)を理解することにおいて大きなハンデとなっていることも間違いないと思われる。「to be or not to be」などどう訳せというのだろうか? 物理学が宇宙のはじまりについてどのような知見をもたらそうと、西欧語の構造が変わることはない。
 神様だってbe動詞からでてきたのかもしれない。「出エジプト記」の「神はモーゼに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」といわれ」というのも、日本語で読んだら何が何だかわからないけれども(「新共同訳」)、英語では God said to Moses, "I am who I am"であるらしい。I am というと存在してしまうのである。私は I am という者であるというのではなくて、わたくしは「存在する」。この I といっているのは神なのだから、神は存在する。神の存在証明である。be動詞が神の存在を保証している。
 宇宙の起源の解明くらいで神様を消せると思うのは、甘い考えなのかもしれない。

宇宙が始まる前には何があったのか?

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マルティン・ハイデガー (岩波現代文庫)

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人間の条件 (ちくま学芸文庫)

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中型聖書 - 新共同訳NI53

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