戸田山和久「哲学入門」(2)

 
 第一章は「意味」と題されている。
 それで、「意味とは何か?」といったようなアプローチは間違いで、哲学のやりかたは、このような大きな問いを、そのまま扱うのではなく、まずは問いを小さく分けて具体的にし、それを徹底的に考える。そして、その結果えられた洞察をできるかぎり一般化し抽象化するという行き方なのだとする。そして最初の小さな問いは「じつにくだらん」ものがよい。その方が、たくさんの、ただし「そのスジ」の人を引き惹きつけるからだ、という。
 そこで「意味」というビッグな問いにつながる小さな問いとして「意味を理解するロボットあるいはコンピュータを作るにはどうしたらよいか」を提出する。これは「じつにくだらん」問いで、「そのスジ」の人以外の関心を呼ばないだろうと思う。
 わたくしが本書につまずいたのは、この「そのスジ」のひとしか関心をもたないであろう問いから「機能」「情報」と展開していく議論のその出発点の論点が、素人であるわたくしとどのような関係を持つのかが一向に示されないまま、どんどんと話が展開していってしまう本書の構成によるのだと思う。このような論点に関心をもつであろう「そのスジ」のひとにだけ議論が向いているように思われ、素人はおいていかれてしまう。
 一般に新書で「入門」というタイトルがついた本で、こういうやり方は読者に不親切であろう。もちろん、きわめてくだけた語調で、その論点がかみ砕いて説明されるのではあるが、しかし読者にその論点に興味を持たせるための努力がされていないので、縁なき衆生は、著者がワクワクしているなあということがわかるだけで、議論の内容が身に沁みない。
 そして著者も認めているように、この問いは「意味そのもの」ではなく「意味の理解」を問題にしている。「ありそでなさそでやっぱりあるもの」の例としてたまたま「意味」という例を出し、「意味」ということを考える具体的な例としてこの問いが出されているような体裁をとっているが、そうではなく「意味を理解するロボットあるいはコンピュータを作るにはどうしたらよいか」という問いが本書の進行のために絶対必要な出発点なのであり、この問いなしには本書は成立しない。
 この問いは「意味」を考えるために導入されているのではなく、「物理法則だけに従うモノにすぎないロボットで「意味の理解」が実現できるなら、意味がモノだけ世界観にどう描き込めるかという問いに答えるヒントが得られるはずだから」導入される。しかし「物理法則だけに従うモノにすぎないロボットで「意味の理解」が実現できるなら、意味がモノだけ世界観にどう描き込めるかという問い」が、なぜ重要でわれわれにとって喫緊の課題なのかと議論を素通りしているから(著者には自明なのであるかもしれないから)、読者はおいていかれてしまう。
 議論は「チューリング・テスト」から人工知能「イライザ」さらにはサールの「中国語の部屋」の話、そのサールの論への反論をへて、本書での中心的論点を提供するミリカン女史の論へと進んでいく。
 きわめて煩瑣な議論が展開されるのだが、読者としては業界内部の話題としか思えない。ミリカンさんという名前ははじめてきいたが、チューリング・テストもイライザも中国語の部屋の話も以前どこかで読んだことがあった。おそらく人工知能といった話題、あるいは心と脳といった話題のなかでであったと思う。「考える」というのはどういうことなのか、「知能」を持つとはどういうことといった議論の流れのなかでこういう話題がでてくると、その議論がなぜでてくるかは理解できる。しかし、「意味」あるいは「意味の理解」の議論との直接のつながりは見えにくい。
 そして、ここで議論されているのは「意味」の問題というより「理解する」ということのほうであるように思える。しかし「意味」とか「理解」というのは結局は言葉であってモノではないから、「意味」が「意味」するものは何かといった泥沼にはまりこんだり、無限後退におちいったり、いずれにしても、ろくなことにはならないように思う。
 そして、ここで議論されていることはすべて(後からでてくる「情報」の話もふくめ)われわれがコンピュータというものを知っているという前提からでていると思う。チューリングはコンピュータというものがありうるとすればどのようなものであるかを考えたひとではないかと思うし、本書に挿入されているマンガでも猫が「011001・・」と考えたり?している。
 本書はモノと科学から世界を描こうという試みであると思うが、ここでの科学は物理化学ではなく、情報科学であり、情報科学に立脚した生物学であるように見える。生物学が「科学」になったのは、二重らせんの発見以降かもしれないし、進化論も二重らせんの知見があってはじめて学問的議論にたえるものとなった。二重らせんは情報を保存し、伝達する。生命は情報保存伝達体である。
 宇宙は物理学で説明可能で何億年先のことまで予言できるらしい。しかし化学はたとえば2千℃・3先℃といった高温の世界ではすでになにがおきるか予測できない魑魅魍魎の世界らしい。生物学は生命の形態の百年後・千年後はまったく予想できない。
 生物学がモノ学になれるかということが本書の議論がどのくらいの有効性をもてるかを決めるのではないかと思うが、本書のほとんどは「イキモノ」学に依拠していて、ただ「生命現象も物理化学で説明できる過程でしょう」という部分でかろうじて物理化学とつながっているだけのように思える。
 そうであれば「モノ」にこだわるのではなく「イキモノ」にこだわればいいと思うのだが、「イキモノ」を前面にだすと「モノ」と「イキモノ」の二元論を呼び込んでしまうことをおそれて、それを避けるのであろう。しかし、そうまでして一元論にこだわることによって得られる利益はみえてこない。
 サールの論というのは「アルゴリズムに従って動く計算システムは知能をもてない」というものであるとされるが、サールは「意味の理解は光合成のような生物学的現象なのだ」といっているということも紹介されている。サールの論に対して著者は「知能」と「理解」を区別することといった方向から考察反論していくのであるが、機械が知能をもつことと理解することを区別することが議論を錯綜させるのではなく、整理する方向にいくのだということが説得的に示されているようには思えない。
 サールへの他からの批判、それへのサールの反論などが論じられていくが、「機械は人間の問題解決を代行するだけで自分の問題をもっていない」という方向に収斂していくようにみえる。「人間は問題解決の主体だが、ロボットはそうではない。」 これはポパーの「生命体は問題解決体である」そのもののように感じる。
 「どのような機械ができあがったら機械が心をもつと言ってよいか。機械が自分自身の問題をもつようになったときである」「ロボットに自分自身の問題をもたせるにはどうすればよいか。そのためには、ロボットも、環境中で自己の存続に有利な活動を遂行しながら自己を存続させてゆくような存在になる必要がある」 これはロボットが「イキモノ」になるということである。
 「ロボットは心をもち、十全な意味の理解をもつ前にまず生きなければならない」という議論は、まず「イキモノ」が生まれ、その「イキモノ」が進化の過程で中枢神経系を持つようになってきたという歴史からすれば当然のことである。このあたりの議論は「意味」とか「理解」を論じているように見えながら、実は「生命」というものの定義をしているだけであるようにみえる。
 議論は「認知」とは何かという方向にさらに進んでいく。そこに「表象」という言葉が導入されてくる。もう完全な観念論の世界である。「表象」は「正体はいまのところ不明だが、何かそういうものがあるでしょう。なければ認知ができないもんね」ということから存在させられてしまう。さらに「表象」は言語のような構造をもっていると考える、ということがいわれ、言語のような表象は統語論的な構造をもっている表象ということがいわれ、それはすなわち、全体が部分から組み立てられ、同じ部分が意味を変えずに異なる全体に現れることができ、全体の意味が部分の意味と組み立ての構造から決まるという性質を持つことであると解説される。ほとんどの読者にとってはなんのことやらであろうし、空理空論と思えるしであろうし、自分には関係ないことと思えるであろう。
 「認知を駆動させているエンジンは、意味を燃料とすることはできない。統語論だけを燃料にして動く」というのはわたくしにはまったく何のことやらである。言語というのは人間だけに備わったものである。認知というのをこういう方向から議論してはいけないのだと思う。それは温度の変化に対応して動くバクテリア酪酸と温度のみに反応するダニといった方向から議論されなければならないもののはずである。
 バクテリアにとっての意味とかダニにとっての統語論というのはナンセンスである。しかしバクテリアもダニも認知をしている。
 認知科学の少なくとも主流派は「人間や他の生きものの頭の中で行われている情報処理を、もっぱら統語論で駆動されるものと考える。これって、人間の頭の中で起きている情報処理って、本質的にはコンピュータがやっていることと変わらない、ってことだ。コンピュータは、010101010のような列を意味抜きで並べ替えているだけだもんね。だからこそ、認知科学人工知能をコンピュータで実現することは人間の認知についても何かを教えてくれるはずだと考えるわけだ」というのも困る。中枢神経系を持たない動物も情報処理をしているし、植物だって、日光にむかったり避けたりする。人間だけを考えることは唯物論から外れるのではないか? いくらそれを自然現象として理解するといっても、人間を自然のなかで特別あつかいしているのは歴然としているのではないか? 
 ネコがネズミを「見る」という状況が考察されている。なぜ「見る」なのだろう? 「嗅ぐ」ではいけないのか? ヒゲで感じるというのはないのだろうか? 人間はきわめて視覚が優位な動物である。ここのネコがでてきても人間の比喩にしか思えず、「イキモノ」一般の議論にはみえない。
 ここで「解釈者」というのがでてくる。ネコがネズミを見るとネコの頭脳のなかでネズミの表象が形成される。しかしそれはいわば物理的現象としておきているだけであって、それがネズミを意味するためには解釈者が必要になるといった話である。「解釈すること自体が意味をつくる」といったことが面白いのだとされる。核戦争で人類が滅亡したあと地上に残された「喧嘩上等!」という落書きは何かを意味するか?
 モノだけの自然現象の中にある相互作用は、物理的相互作用、大雑把に因果関係だけだ、と言っていいだろう、と著者はいうのだが、そこには因果関係は存在しないのではないだろうか? あるのは相互関係だけであって、解釈者がいないところでは因果関係は存在しないのではないだろうか? しかし因果関係があるとしないと、モノだけの世界とイキモノの世界をつなげていくことは困難になるのだと思う。
 「因果意味論」「規範的」「選言問題」「ターゲット固定問題」とか次々に用語が導入され議論される。言語学といった特殊な分野に関心をもつひと以外は、針の頭に天使が何人とまれるかというのとかわらない不毛な議論にみえるのではないだろうか?
 そして本書の主役の一人であるミリカンの「目的論的意味論」というのが紹介される。進化論が目的論を生物学のなかから追放した(眼はなんのためにあるのか→それがあるほうがない場合よりも生き残りに有利だったから)。それを利用しようというものらしい。戸田山氏も基本的にその路線に賛成というのようである。
 ここで著者が「そもそも、ネコがネズミ表象を生まれながらにもっているというのはちょっとヘンだった。むしろ、ネコはこの表象を生まれてからの学習で身につけると考えた方がよさそうだ」といっているのがわからない。進化の過程でネズミ表象を形成できたものが生き残ってこられたということではなぜいけないのだろうか?
 生得的と後天的な学習の対立というのは生物学を人文学に応用する場合の最大の問題の一つで、文化ということをどう見るかの中心論点だと思う。進化論は、従来いわれていた以上に人間は過去の人間の生活(主として石器時代の生活)を自分の体のなかに埋め込んで生まれてくるのであり、後天的に文化によって形成される部分は多くないという主張をしているのだと思う。基本的に進化を基礎に説明していこうとするミリカンに依拠しようとするのであれば、安易に学習で身につけるというの方向にいくのがよくわからない。「われわれのもっと「人間的」な多彩な表象たち」などといいだすのも危ない。これはすぐに科学は人文学に寄与できる部分はあまりないという論に通じていくと思う。
 著者はフォーダーというひとの批判などを気にかけているが、生物界ではある時期に適応的であった機能が環境が変わると適応的でなくなるといったことは当たり前ことなので、なんで気にするのかがよくわからない。
 章の最後のスワンプマンの話もよくわからない。分子構成の細部にいたるまで完全に一致した生き物が人為的に複製されたとしても、それは過去をもたず歴史ももたないのだから、なにも思わないというような議論なのだが、完全に分子レベルまでが一致しているのならば、その複製は複製元の過去とその経験をその分子配列のなかにもっているのだから、複製元の思惟と同じ思惟をするはずである。アルゴリズムはそこに再現されているはずである。
 2年ほど前に書いた青山拓央氏の「分析哲学講義」への感想を読み返してみたら、id:jmiyaza:20120504 id:jmiyaza:20120505 ほとんど今回と同じようなことを書いてあるのでいやになってしまった。おそらく身体的な反応なのだろうと思う。われわれはあることを決して頭だけで理解するのではなく、全身的に理解するのだと思う(内田樹私の身体は頭がいい」)。腑に落ちるという言葉は決して伊達ではないと思う。D・H・ロレンスはわれわれは自分が生きている、存在するということを感知する独自の器官をもっている、それが太陽神経叢なのであるといった変なことをいっていた。
 わたくしの場合もまず何か生理的に受けつけないのも、身体的に納得できないものを感じ、後からその理由を頭で考えて、いろいろの反論を考えるのだと思う。本書に書かれているようなことを身体的に納得できる小数の人がいて、そういう人が哲学者になるのではないだろうか? 数学者になるひとには数とか数式といったものがありありと実体のように手にとれるもののように感じられるのではないだろうか? 唯物論というのは「モノ」しかリアルなものとして感じられない身体感覚をもつものの立場なのではないだろうか? 言葉がリアルな実体として感じられるひとは観念論のほうにいくのではないだろうか? もちろんわたくしのような立場は唯物論ではなく「タダモノ論」に過ぎないといわれることは十分承知しているのではあるが・・。
 第2章以下の感想も書くかどうかは今のところは未定。
 

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