橘玲「(日本人)」(1)

  幻冬舎文庫 2014年8月
 
 2012年に刊行された本の文庫化。
 タイトルは日本人を括弧に入れてみるということを意味しているのだそうである。非常に面白いのだけれども、なんだかあまりに話がうますぎるというかクリアカットすぎるという気もする。乱麻を絶つ快刀の切れ味がよすぎて、逆に本当にそれだけ?という感想も残る。
 「はじめに」、第一部「ローカル」、第二部「グローバル」、第三部「ユートピア」の構成であるが、まず、第二部「グローバル」のはじめの部分をみてみたい。
 『明治維新から今日に至るまで、日本の課題は“グローバル”という未知との遭遇だった。「外国」はつねに日本社会の大切なもの(文化や伝統)を侵す脅威であると同時に、世間のしがらみ(社会の閉塞感)からひとびとを解放する福音でもあった。“グローバリズム”はあるときは「帝国主義」や「市場原理主義」として忌避され、あるときは「自由」や「進歩」の象徴として崇拝された』と著者はいう。明治維新で、そうしないと日本は滅びるとして“グローバル”への参入を図り、しかしやっぱり“グローバル”はイヤだ独自でいくとして“グローバル”を相手に戦争をし、負けてまた憑き物が落ちて“グローバル”に回帰し、あるとき日本そのものが“グローバル”になったと錯覚し有頂天になったが、いつのまにかまた転落していて、気がつけば何も残っていないことに呆然としているというのが現状かもしれない。司馬遼太郎は「坂の上の雲」ということをいった。坂の上に見えていたものは「グローバル」に通じる何かである。日本人は2回、坂の上に雲をみた。明治期と敗戦後である。そして「坂の上の雲」の後には「坂の下の沼」(@天谷直弘)の時代がくる。「坂の上の雲」の時代には、とぎすまされた危機感覚と身がまえた猛獣のような緊張の姿勢があったが、「坂の下の沼」の時代には、ひとりよがり、神がかり、知的怠惰、情念の荒廃が横溢した。日本人は自分に自信がないときにはうまくいき、自信を持つとダメになって沼の下に転落すると天谷氏はいう。
 さて橘氏がいうグローバリズムとは分業のことである。アダム・スミスが「ゆたかさの秘密は分業にある」ことを発見し、リカードは分業の本質を解明して、それを「比較優位の交換」であるとした。「生産性」とは「分業の高度化」のことである。われわれが豊かになっていくには分業をさらに推しすすめていくしかない。分業は規模が大きくなればなるほど効率がよくなる。そうであるなら、すべてのひとがどこにでも自由に移住し生活できるようになる社会において、人類はゆたかさの頂点に達する。グローバリズムとはユートピア思想なのである。とすればそれを否定する“鎖国”論はすべて間違いである、論理的には・・。実際には近代世界が主権国家の集合体としてできているという現実があるため、「自由貿易」はユートピア思想とは無縁のものとなってしまっている。豊かな国は門戸を閉じて移民を制限している。制限をしているのは福祉社会の破壊をおそれるためである。一定水準以下の生活をしているひとに生活保護を支給している国に貧しい国から無制限に移民が流入してくればすぐに財政は破綻してしまう。
 国民国家は依然として健在であるが、市場のグローバル化は1980年代から進行している。ひとの移動を制限しても、貿易は「自由化」されていく。われわれが豊かになりたいと願うのであれば、グローバル化は必然であって、“鎖国派”は劣性にならざるをえない。
 グローバル化は紀元前の地中海からはじまった。地中海沿岸は夏の降雨量がきわめて少ないため農耕はオリーブやブドウなどに限られる。そのため、食料は他の地域からの輸入に頼らざるをえない。この地域は農耕や牧畜、交易などをおこなう多くの民族がひしめきあって暮らしているグローバル空間であった。宗教が異なり言葉が異なる多民族が共生していた。そこで生じる最低限みんなが従わなければいけないルールが“グローバルスタンダード”であった。それがなければ互いに殺し合うしかない。
 このグローバル空間で、人類の歴史を変えるふたつの”イノベーション”が起こった。「古代ギリシャの論理」と「キリスト教」である。
 古代ギリシャはその地形の複雑さから大きな統一国家がうまれず、小国家であるポリスが覇を競っていた。紀元前5世紀には自由民(奴隷を所有する特権階級の男性で、参政権と兵役の義務を負った)による民主政という政治制度が完成していた。政治家が民衆の面前で議論し、投票による多数決で政治的な決定がなされた。これは古代文明ではギリシャ以外には生まれなかったきわめて特殊な形態である。これが可能であったのは、そこが農耕社会ではなかったからである。農耕社会ではひとは土地に縛りつけられているから、退出することは不可能である。そこでの決定は全員一致にならざるをえない。しかし古代ギリシャのポリスにおいては多数決による決定に不服であれば、そこを去る自由があった。ソクラテスも死刑判決が不服であればそこを去ることができた(あえてそれをしなかったの後世に名をとどめることになった)。
 ユダヤ民族の苦難の歴史についてはよく知られている。しかしそのような受難は多くの少数民族のひとしく経験するところであった。ただユダヤ民族は“絶対神”を発明することによって多数民族に同化することがなかった。ユダヤ人は自分たちの奉じる神は民族に固有のローカルな神ではなく絶対神であるとした。絶対神ユダヤ民族を選んだとするのであるが、絶対神でありながらユダヤ民族のためだけの神(ユダヤ民族だけが神と契約している)というのは矛盾である。その矛盾を解決したのがイエス・キリストで、ここで「(民族を超えた)万人のための神」というグローバルな宗教が誕生した。やがてキリスト教ローマ帝国の国教となる。多民族を支配するローマの神は民族を超越したグローバルな神でなければならなかったからである。当時、そのような神はキリスト教しかなかった(その後を考えても、キリスト教イスラム教だけである)。
 それから1600年後、絶対王政末期のヨーロッパで、大航海時代グローバル化による交易により力をえた貴族や商工業者が絶対君主である国王と対立するようになった。それを思想的にささえたのが啓蒙思想である。啓蒙思想も世界が神の論理がいきわった場であることを否定したわけではない。したがって人間世界に貫徹している神の法則として、ルソーの「平等」とロックの「自由」(私的所有権)が発見されることになった。そして古代ギリシャの古い政治制度である議会によるデモクラシーも再発見されることになった。
 「自由」と「平等」を神の掟とする国民国家はそれ自体がひとつの宗教なのであり、その熱烈な伝道者がナポレオンであった。傭兵を主体とする中世のままの国民軍はナポレオンの軍の前ではまったく無力であり、ヨーロッパの国々は雪崩をうって国民国家へと変わっていった。
 
 以上が橘氏のグローバル論であるが、わたくしは古代ギリシャに出現した政治形態やキリスト教のローマ国教化というのは、たまたまそうなったものであって何ら必然の産物ではないと思っていたので、橘氏の論を読んで驚いた。
 確かに農耕社会でないことが古代ギリシャの政治形態を可能にしたのかもしれないが、この当時であっても農耕社会でないところはほかにもあったはずで、農耕社会でないことは必要条件ではあっても十分条件ではないように思う。古代ギリシャにおいて「イオニアの魔術」と呼ばれるような思考(世界が数少ない自然法則で説明できるとする信念)がでてきたのもまた、わたくしは偶然であると思っている。ただそれが文明の産物であるとは思っていて、文明とは都市が生みだすものであるから、ギリシャという都市国家にたまたま生まれたのだなという程度の認識であった。
 キリスト教にいたっては、ギボンの説を信じていて、ローマ帝国キリスト教を国教にしたから滅びたのだと思っていた。というか吉田健一が「ヨオロツパの世紀末」でしていた紹介をそのまま信じていた。「キリスト教が国教に定められて異端と正統とを区別する為の宗論が繰り返され・・銘々の意見に対する狂信的な固執で帝国の人民を四分五裂させるのみならず、方方で隠遁者が各種の理性では判断が付かない苦行に耽つたりするのが人民を精神的に益々混乱に陥らせて蛮族の侵入に対して無力にし、かうして遂にロオマ帝国が亡びたといふのである。」 特に気に入っていたのが「ギボンにキリスト教といふものが一種の狂気にしか見えなかったことである」とか「古代に属する人間にとつてキリスト教は明かに狂気の沙汰である他なかつた」といった部分で、キリスト教というのはローマ帝国という文明に持ち込まれた野蛮であって、その野蛮が中世を支配したのだと信じていた。ローマ帝国がさまざまな宗教を信じる他民族を統治するために用いたのは法律なのだと思っていた。法律はひとの内面を問わない。その方が文明的である。
 「生産性とは分業の高度化」のことであるというのも凄い表現である。わたくしが若いころは、中学を卒業してすぐに就労するひとたちは「金の卵」とか呼ばれていて、そういう若者たちが上野駅に集団で着く映像などが頻繁に報道されていた。今、金の卵たちは日本の外にいるわけである。昔の金の卵はいまではワークング・プアと呼ばれるようになっているのかもしれない。橘氏はそれを仕方のないこととする。貿易は国境を越えるからである。しかし国境があるのは、世界がいまだに国民国家の体制であるからである。国境を持つ動物は人間だけである。鳥は尖閣諸島だろうとどこへだろうと自由に飛んでいく。パスポートはいらない。
 問題は国民国家である。日本の明治以降の歩みは日本を国民国家としていく歩みであった(江戸期までの日本人は藩の意識はあっても日本という国家の意識は乏しかったであろう)。国民国家とは戦争のための装置である。東西冷戦の時代には国民国家の枠を超えたもっと大きな対立があった。冷戦が終わり、かつてのロシア帝国とか中華帝国が復活しつつあるのかもしれない。大きな物語が終焉して、国民国家がまた前面にでてきたということだろうか? いずれにしても、たとえそれが「幻想の共同体」であろうと、国民国家が消滅する未来などはまったく見えていない。
 戦争をする装置でない国民国家というのは本来矛盾であるのかもしれないが、それが日本の国是となっており、しかも実際に希求されているのは福祉を提供するものとしての国家である。そして橘氏もいう通り、福祉を維持しようとすれば国境は維持せざるをえず、分業にも背かなければいけなくなる。ユートピアはこないのである。
 そしてもう一つ宗教である。橘氏の本書の主張の根幹は「日本人は世界に冠たる世俗化した国民である」というものである。必ずしも橘氏はその文脈で使ってはいないかもしれないが、わたくしから見ると「世俗化」とは「非宗教化」であり「超越的存在の否定」である。ところがアメリカとそれに対立するイスラム圏は世界の中でも宗教が支配的な力をいまだに持つところである。トッドのいうようにイスラム圏も識字率が向上すればいずれ世俗化するのだろうか? 聖書に書かれている通りに世界が作られたと思っている国民が半数であるアメリカもまた識字率が向上すれば変わるのだろうか?
 日本は江戸期での檀家制度などにより、宗教組織が行政の末端に組み込まれ世俗化した。つまり文明化したのである。わたくしは文明は世俗化のうえに出現すると思っている。もちろん信仰の上になりたつ文明というものもあるであろうが、宗教というのは個人のもつ信仰と集団の統合の原理という二つの側面があり、文明につながりうるのは前者だけであり、後者は文明とは無縁であるというのがわたくしの持つ偏見である。「ギボンにキリスト教といふものが一種の狂気にしか見えなかった」のはギボンが文明人であったからで、ほとんどの場合において、個人における信仰もまた野蛮なのではないかとわたくしは思っている。
 明治期に日本が接したグローバリズムは実はグローバルなものではなく“特殊なもの”であったというのが、吉田健一が「ヨオロツパの世紀末」で主張したことであった。ヨーロッパは18世紀において一度“普遍”に達したのだが、19世紀に堕落し“特殊”へと後退していたというのである。そういう奇妙な議論は吉田氏が文明をこそ“普遍”であるとしていることを背景にしている。さらに吉田氏が奇妙なのは「(吉田健一においては)「文明的」かつ「人間的」であることが言葉の真の意味で「獣的」であることを意味する」(丹生谷貴志)からである。人間は“獣”であることによって文明的になるのであり、“獣”を超えた何か“特殊”で“崇高”な存在であると思い込むことによって「野蛮」になると氏はするのである。
 橘氏の「(日本人)」は進化生物学の知見に依拠するとしている。人間を生きものとして“獣”としてみていこうということである。国境をもつ生きものは人間だけである。もちろん国境を“なわばり”とみれば、“なわばり”には生物学的根拠がある。しかし“なわばり”があるのが「生き残り」のためであるとすれば、人間が「飢え」の問題を乗りこえることができたのであれば、もう“なわばり”は不要になるはずなのである。しかし国境が消失する未来はまったく見えない。
 多くのひともそうかもしれないが、わたくしにはグローバニズムとはそのままアメリカニズムであるように思える。橘氏アメリカはもともと多民族からなりたつ国であるのだからそれは当然であるという見解のようである。
 わたくしにはアメリカという国は吉田健一のいうヨーロッパ19世紀のままで来ている国のように思える。人間を“特殊”で“崇高”なものと信じて疑っていないように見えるからである。だから、わたくしには野蛮な国に見える。「野蛮がグローバルスタンダードになるというのは如何なものか」という気持ちがわたくしはどうしても拭えないのである。しかし、アメリカニズムの問題は橘氏がまとめて論じている部分があるので、そこであたらめて検討してみたい。
 このように橘氏の論のそこここに同意できない部分があるのだが、それにもかかわらず橘氏の論に惹かれるのは、氏がリバタリアンであるという点にあるように思う。竹内靖雄氏であるとか、池田清彦氏であるとか、どうもその系列のひとに親近感を感じる。それも戦闘的でないリバタリアンに? 倉橋由美子さんもまたリバタリアンの仲間だろうか? 貴族主義的リバタリアン? 吉田健一リバタリアン? そこまで範囲を広げると行き過ぎのように思うが、強い個人という括りであれば、そこに入ってくるように思う。
 橘氏によれば、リバタリアンリベラリストは不倶戴天の敵のように憎み合っているが、両者ともに自立した自由な個人による市民社会を前提にしている。健一さんはリベラリストの方なのだろうか? わたくしが困るのはリバタリアン陣営を親しく感じるにもかかわらず医療を業としていることで、そういう仕事をしていると福祉などは最小にいうわけにはなかなかいかない。
 橘氏は「あとがき」で、「学校」という集団にどうしても馴染めなかったことと、一人でいることにさしたる苦痛がない人間であるということをいっている。おそらく橘氏にわたくしが感じる何か近しい感じというのはここら辺りに起因するのかなと思う。「学校」といわず「集団」というものに馴染めずにずっときたし、一人でいることにさしたる苦痛がないというよりも、たくさんのひとのなかにいると早く一人になりたいと思う人間である。医者という職業を選んだのも、一人になれる仕事と思ったからかもしれない。
 どうも日本のリバタリアンというのは、積極的な主張をするひとというようも、自分は自分で好きなことをする、みんなには迷惑をかけないようにするから、自分のことは抛っておいてくれ!、という消極的なひとが多いような気がする。鍵のかかる部屋の中こそが自分の世界、外にでて人交わりをしているのは世を忍ぶ仮の姿というのは大袈裟かもしれないが、当たらずといえども遠からずかもしれなくて、本来社会性の動物であるはずの人間としては毛が三本足りないのかもしれない。血気の不足した植物系で、最近の言葉では草食系にあたるのだろうか? いずれにしても、わたくしのような人間でも何とか生きていけているというのは本当にいい世の中である。そこに生まれてきた偶然に感謝である。
 橘氏が本書で試みているアクロバットは、氏のような感じ方は決して少数派ではなく、実は日本人に共通してみられるもので、日本人は世界でもっとも個人主義的で自分勝手な生き方をしているのだとする見解の展開である。氏のいう世俗的というのはこれを指す。そしてこのような日本人の生き方こそがユートピアへの道を拓くものであり、国家に依存しない経済的に自立した自由な個人がそこから澎湃と出現してくる可能性があるというユートピアの夢を展開していく。
 そのユートピアへの夢については、また別稿で。しかし、そもそも進化生物学からユートピアがでてくるとは思えないのだけれども・・。もちろん、ユートピアというのはどこにもない場所であるのだが。
 「古代ギリシャの論理」と「キリスト教」、そして「「自由」と「平等」を神の掟とする国民国家」というのがすべて西側の産物であるというのが気になるところである。そして、「「自由」と「平等」を神の掟とする国民国家」に前後して生まれてきた、それと対抗する原理である「個人」というのもまた西側の発明あるいは発見なのではないかと思っている。「個人」が存在しなければ、リバタリアンなど生まれようがない。とすると、やはり「西」こそがグローバルということになるのだろうか?
 

(日本人)

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