橘玲「(日本人)」(2)

  
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 橘氏のいう本書のアイディア:ヒトには共通の本性がある。そうであるなら、「日本人性」とは「私たちから人間の本性を引いたもの」である。「世界価値観調査」というのがある。その2005年の調査で、全82問のなかで、日本が他の国と非常に異なっている項目が3つある。1)戦争になった場合、あなたは進んで自分の国のためにたたかうか?→世界で最低(15%が「はい」) 2)あなたは自分の国に生まれたことをどのくらい誇りに思うか?→香港に次で世界で2番目に低い。香港は国といえるか微妙であるので、実際は世界で最低(57%) 3)「権威や権力がより尊重される」のはいいことか?→「はい」が世界最低で3%。ダントツで最下位。ほかは低いところでも20%以上。フランスが85%、イギリスが76%、アメリカが59%、ドイツが50%、ロシア40%、韓国27%。日本は世界のなかで突出して権威や権力を嫌う国である。これには戦争体験の影響があるだろう。だがドイツでも半数が権威や権力は尊重すべきと答えている。
 この謎を起点に、日本人は何者でどのような社会に生きているのかを考えていくが、その際に進化心理学の知見を大いに利用していくと橘氏はする。
 氏によれば、グローバル化した世界では、政治や行政にできることは実はあまり多くはない。それにもかかわらず、われわれは「国家」にあまりにも多くの期待や要求をしすぎる。また個人のもつさまざまなアイデンティティのなかで「国民」を過大に意識しすぎている。日本人を括弧にいれるということは、「国家」や「国民」という枠組みから離れて見てみるということで、個人の人生と運命は国家と一蓮托生ではないという視点で考えるということなのである。
 0章とされている「ほほえみの国」では、タイが紹介される。タイは「ほほえみの国」である。タイでは13種のほほえみがある。タイ人は「空気」を読む。これを「グレンチャイ」という。「遠慮」「気遣い」のことであり、場を不愉快なものにしないために自分の関心や欲望を抑える個人の態度をいう。タイには「気配りの世界」がある。それが機能するのは「自分本位の世界」と「家族の世界」の中間領域である。この「気配りの世界」はそのまま「欧米人からみた日本人」の像であるとされても何の違和感もないであろう。詳しくは本書にあたっていただくとして、ここで描かれたタイの社会は本当に日本にそっくりである。「菊と刀」の世界であり、面子と気配りの「恥」の文化であり、「ねたみ、そねみ」であり、そこでの最大のタブーは「相手の面子を失わせること」なのだという。
 タイには「契約」という概念がなく、ものごとの白黒をはっきりさせることを好まない。以心伝心の腹芸で交渉が進む。濃厚な人間関係のなかで気配りと面子をなによりも優先させるというのは別に日本だけにみられることではない。中国や韓国、東南アジアのどこにでも見られる文化なのであり、アジア的農村社会の特徴なのである。
 小谷野敦氏は「日本文化論のインチキ」で、日本文化論というのは西洋との比較だけがなされてきた、日本特有とされているものが西洋にはないとしても、日本以外にはないのかという検討がまったくされていないという批判をしているが、ここでの橘氏の紹介を読めばまことにその通りである。日本人が自分の異質性を意識したのは西洋に接することによってであったから、日本人論というのは自ずと西洋との比較としてなされるということであったのだろう。
 内田樹氏の「日本辺境論」で、もともとは高島武宣氏の「日本人の法意識」にある「調停いろはかるた」を知って驚嘆したものだが(「論よりは義理と人情の話し合い」、「なまなかの法律論はぬきにして」、「白黒をきめぬ所に味がある」・・)、タイもまた完全な「調停いろはかるた」あるいは「三人吉三郭初買 庚申塚の場」の世界である(「丸く納めに渾名さえ坊主上りの和尚吉三・・」)。問題はわれわれあるいはタイの人々にとって、「調停カルタ」の世界のほうが文明的であり、法によって何でも決定していく世界という方が野蛮で野暮なものと感じられるのではないかということである。
 文明というのは人間関係の洗練ということかもしれない。そうであるなら、グローバリズムというのは野蛮の世界制覇と感じられるかもしれない。
 ヴァレリーに「方法的制覇」という論がある。ドイツの勃興への危機感の表明で、没個性の個人からなる規律的な集団が、個性的だが各人がばらばらで統制のとれない集団を凌駕していくことへのおそれを述べている。日本もドイツと同じに見えていたはずで、ドイツあるいは日本という野蛮がフランス(あるいはヨーロッパ)という文明を破壊しようとしているという憂慮である。野蛮だけれども強いものが文明的だけでも弱いものを征服していくという図式はアヘン戦争を見ていた明治維新の人の多くが感じていたはずで、和魂洋才というのは日本の文明と欧米の武力というような意味であったのだろう。
 
 橘氏の論の第一部「ローカル」を次にみる。最初に「新世紀エヴァンゲリオン」の話がでてくるのだが、わたくしはマンガやアニメの世界をまったく知らないので、ここはパスして、藤原正彦氏の「国家の品格」(2005年)についての論を見る。橘氏藤原氏アメリカとイギリスで暮らした国際人で偏狭なナショナリストや排外主義者ではなく、故郷を愛するパトリオティズム(祖国愛)の人であり、それ自体は穏当で真っ当な保守主義であるとする。橘氏によれば藤原氏の間違いは、祖国を破壊するものが「市場原理主義」であるとしたことで、近代合理主義に対し武士道を持ち出したことにあるという。
 藤原氏はスミス以来の古典派経済学を理解しておらず、スミスが批判した植民地政策の論拠となった重商主義とスミスらの貿易尊重の主張の違いがわかっていないとする。また社会契約説であるとか自由・平等・民主主義などを欧米が作り上げたフィクションとして否定し、それに対抗するものとして「惻隠の情」や「もののあはれ」などの日本古来の文化(武士道精神)による祖国の復興を主張している点も問題視する。
 藤原氏のどこが問題か? その論で、橘氏は「政治空間」と「貨幣空間」ということを持ち出す。私たちが生きていくうえでもっとも大事なのは家族や恋人たちとの関係である「愛情空間」であり、そのまわりに友人たちとの「友情空間」があって、さらにその周囲に「知り合い」がいる。ここが政治空間の場であり、敵も味方もいる。その外には「他人」がいる。われわれは「他人」のことはほとんど気にかけない。しかしその「他人」たちとは貨幣の交換によってつながっている(貨幣空間)。「愛情空間」は2〜10人程度で半径10メートルくらい、人生の価値の大半はこれがしめている。人類は昔から飽きずに小説でも映画でも音楽でもこの世界のできごと、すなわち「愛」を語り続けてきている。友情空間も10人前後で最大でも20〜30人。政治空間でも100人くらい(年賀状の数くらい)。ところが貨幣空間はお金でつながっているからその範囲は無限大でありうる。
 政治空間と貨幣空間ではまったく別の論理が働く。「統治の倫理」と「市場の倫理」である。富をえるには二つの方法しかない。奪うこと(権力ゲーム)と交易すること(お金儲けゲーム)である。権力ゲームでは「統治の倫理」がはたらく。武士道は「統治の倫理」の一つの典型である。一方、貨幣空間では八百屋のおじさんに愛憎を抱くことはないし、ネットの購入ではひとの顔さえ見えない。
 「統治の倫理」は集団でしか生きられなかったヒトの進化の歴史を背景にもつ。しかし「市場の倫理」にはまだ5千年の歴史しかなくヒトの遺伝子には組み込まれていないため学習で身につけるしかない。誰かが儲けているなら誰かが損をしているはずという「ゼロサム」の感情は強い。交易によってすべての市場参加者の富が増えていくという古典派経済学の「プラスサム」の基本原理は人間の本能と対立するためにほとんどのひとから理解されない。藤原氏もまた市場原理主義ゼロサムだと思っている。確かに日本経済は負け続けている。中国やインドのひとの所得はこの20年で大きく増えた。一方で、アメリカやヨーロッパや日本などの先進国の労働者の生活は相対的に貧しくなった。しかし世界全体の富は増加している。市場原理主義によるグローバル化・貨幣空間の拡大は世界の歪みを平準化していく。それは北と南の格差を縮小させていくが、北でも南でも強者と弱者のあいだの格差は増大していく。世界全体が幸福になっていくならば、自分が貧しくなることを受け入れるひとがはたしてどれだけいるだろうか?
 グローバル化は私たちの生活を破壊する侵略者である。また貨幣空間の拡大は家族や学校などの共同体を崩壊させていく。愛情空間にお金が持ち込まれると人間関係は簡単に崩壊してしまう。しかし市場経済の世界ではお金がないと生きていけない。「お金で買えるもの」はふえる一方である。
 われわれは貨幣空間の拡大を望んでいる。サービスがほとんど貨幣で購入できるなら、親戚つきあいは不要になる。友人との関係もドライになる。面倒なベタな人間関係から逃れることができる。しかし、そういう“無縁社会”は不安でもある。長い進化の過程で人間は集団のなかでいきてきて、群れから追放は死を意味したのだから。
 貨幣空間が世界を侵食していくと最後には狭い愛情空間しか残らなくなる。それもなくなれば残るものは孤独と社会の不安定化である。どうすればいいか? 貨幣空間の拡張という現実を受け入れるか、共同体を取り戻すか。もちろん二者択一という問題ではない。どちらか一方を選び、他を捨てるなどということはできない。しかし、この二つは異なる論理の上になりたつ。そのなかで「武士道」というような古風でバカバカしく見えるもので貨幣空間に対抗しようと提言した藤原氏の著作が多くの読者に迎えられたのは当然のことでもあったと橘氏はいう。われわれは共同体の崩壊の予感に怯えているから。
 
 この辺りを読んでいてなぜか10年くらい前に読んだローティの「偶然性・アイロニー・連帯」を思い出した。東浩紀氏の本が奨めていたので読んだもので、以前にかなり詳しい感想を書いているが内容はほとんど覚えていない。思い出したののはこの本が、われわれの生は「私的な部分」と「公共的な部分」からなり、両者をまとめあげるような統一的な理論とか枠組みはないと主張していたことを覚えているからである。橘氏がここでいう「愛情空間」とか「友情空間」が「私的な部分」であり、政治空間とか貨幣空間とかが「公共的な部分」であるとはすぐにはできないと思うが、橘氏は最初から「貨幣空間」を無理論の場としており、そこに「私的」あるいは「友情的」な「政治」的論理を持ち込むことが間違いのもとしているようである。
 ローティはその本で、シュクラーというひとの「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びとが、リベラルである」という言葉を自分の「リベラル」の定義としても採用するといっていた。この「残酷さ」というのは「私的な部分」でも「公共的な部分」でもおきることではないかと思う。「なぜ残酷であってはならないのか」という問いには答えはないとローティはしていたが、たしかにそれには根拠はない。しかしそれが文明的であるということはできるのではないかと思う。「リベラル」ということは「文明的」ということなのだろうか?
 わたくしは藤原氏の本は読んでいないのだけれど(なんだか顔が好きではないので。というのは、偏見ではあるが、しかし、人生長くはないので、こういう偏見に頼らざるをえないと思う。内田樹さんのいう「体の頭のよさ」を信じるしかないと思う)、氏の論の一番の問題点は日本への過大な評価なのではないかと思う。武士道も文明の一つの形態であり、文明の形態には様々なものがあり、それぞれの文明は文明であるという点で等価であるという視点が乏しいのではないかと思う。なんだか夜郎自大的という感じがする。
 藤原氏は経済学をわかっていないのかもしれないが、市場原理には文明を破壊する要素があることは確かだと思う。
 村上龍さんは、出てきた当時は農村的共同体が大嫌いで狩猟民族でいこうと意気盛んであった。一時、経済について猛勉強していて、おそらく市場原理が農村的共同体を破壊し日本を変えてくれる力を持つと感じたのだと思う。しかし、ある時期から「勉強すればするほどグローバリズムの怖さがわかってくる」というように方向転換した。「五分後の世界」などを読んでも、龍さんもまた「武士道」的なものが好きなようであり、共同体だって嫌いではないのかもしれない。じめじめした共同体はいやだがからっとした共同体ならいいのかもしれない。
 文明というのは余裕の産物であるから、都市のものである。橘氏のいうようにグローバリズムすなわち市場原理は余裕産出運動なのであるから、文明はそもそもグローバリズムなしには出現しない。しかし文明化というのはヒトがもつ進化的基盤を洗練させることなのだから、その洗練のさせかたは多種多様でありうる。だが、一方、グローバリズムは平均化の運動である。
 ここで問題になるのが「普遍的」ということなのではないかと思う。わたくしがわからないのが「西洋」が「普遍」を発見したのだろうかということである。ポストモダンの運動がいったことは、西洋が奉じる価値というのは西欧文明という一地方文明のもつ価値なのであり、それが世界中に通用するということはないということだったのだと思う。
 一時はさかんであったポストモダンの運動も最近は勢いがないようであるが、一方では西欧的価値観と対立するイスラム圏、あるいはロシアや中国といった国々は、民主主義とか議会主義とかを、西欧という一地域でのみ通用するローカルな信条であり普遍的なものではないとしてきているのかもしれない。しかしそこに住んでいる人たちは「個人」というものになってきている。その「個人」というのは西洋の発明品であるにもかかわらず、普遍的に人間ととらえる力をもっているのではないだろうか? そうするとやはり西洋が普遍を発明したことになるのだろうか?
 わたくしは医者であるから、抗生物質は世界のどこにいっても有効であると思っている(日本のように濫用されている国では効きにくいということはあると思うが)。しかし、妊娠中絶のような問題になると、これは世界のどこにいっても通用する普遍的な対応というのはないだろうと思う。医療技術は普遍的であっても、医療行為は文化の制約を強くうけている。抗生物質は科学技術の産物である(科学と科学技術の関係はきわめて論議の多いところであるが)。妊娠中絶自体が科学の産物であるか否かは難しい問題だが、それを以前よりは安全におこなえるようになってきていることは確かであり、それは科学技術の進展に負う。しかしそれがしていいことなのであるかどうかについては、科学は何も発言でいない。
 わたくしは実は西洋が普遍を発見したのではないかと思っていて、科学ということもさることながら、「個人」というものを発明?発見?したことが一番大きいと思っている。そして「個人」というのは「公共」と対立するもので、実はわたくしが藤原氏の論(読んではいないから推測であるが)で一番問題ではないかと思うのは、氏が「個人」というものを嫌って「公共」のほうに価値をおくひとなのではないかという点である。石原慎太郎氏は「個人」主義というようなものが大嫌いで「我欲」というのには虫酸が走る人なのではないかと思うが、何かそれに近いものを感じる。
 人は「個」として生きる限りは不幸なのであって、何らかの集団に帰属してその一員になることによってはじめて幸せになれるという主張は根強くあって(わたくしは便宜的にそれを「カトリック」思考と呼んでいるが・・だから石原慎太郎氏もカトリックだし、「美しい日本」の安倍首相もまたカトリックというとんでもないことになる)、橘氏もそれには進化論的な根拠があることを認めている。しかし集団のなかにいなければ生きられないというのは、いやいやであってもということもありえて、そうであるなら、そうしなければ生きられないのでなくなれば、属する集団の規模は小さくなる一方であり、面倒なベタな人間関係がいやでそれから逃れればついには独りになる。その結果として”無縁社会”に生きることになっても、それはトレードオフの関係なのであるから仕方がない。“孤独死”は英雄的であるというひともいる。上野千鶴子さんが若いことからさんざん好き勝手なことをしてきながら今になってコミュニティ作りに走るなんて虫がいいじゃないというひともいるかもしれない。
 「風と共に去りぬ」のレット・バトラーは南部の大義などと声高に叫ぶ若者を鼻で嗤う市場原理主義の信奉者にしてブローバリズムの人であるが、南部が敗戦濃厚になるとあえてそれに参加していくという文明への殉教者を気取る人でもあり(この小説では南部に一つの偉大な文明があったことになっている)、自分は一匹狼であることに何の痛痒も感じないひとであるが、子供ができると子供には共同体が絶対に必要であるとして、あえて共同体に参入していくひととして描かれている。中学2年くらいでこの小説を読んで以来、レット・バトラーというのが好きで好きで、これはわたくしの人格的な問題点を如実に示しているに違いないが、好きなのだから仕方がない。
 この小説の主人公であるとされているスカーレット・オハラは単純な市場原理主義者で文明というのを少しも理解できないお馬鹿さんである。この小説では男は理解するひと、女は理解できないひとあるいは誤解するひとということになっている(例外はベル・ワットリングという娼館の主人くらい。もう一人の女主人公であるメラニーはあらゆるものをいい方向に解釈してしまう天使であり、もう一人の男主人公であるアシュレィはすべてがわかってしまうため足が腐ってくるまで動けない人である)。
 この小説の構造の最大の眼目はスカーレットにはレット・バトラーという人間が理解できないが、レットのほうはスカーレットのことがすべてわかっているという非対称性にある。要するに、男のほうが女よりも上にいるということで、そしてそれにもかかわらず、上にいるほうが勝つとは限らないということである。この小説を書いたのが女性であるのがただもう不思議である。
 なぜいまここでこんなことを書いてきたかというと、わたくしはグローバリズムを批判するひとを見るとグローバリズムを擁護したくなり、グローバリズムを擁護するひとを見るとグローバリズムを批判したくなるという二重規範をもっていると感じるからで、グローバリズムが勝利していくであろうことは理屈ではわかるのだが、それがわかるのであれば余計に負けるほうに肩入れをしたいという東映やくざ映画的な(あるいはレット・バトラー的?)心情がどこかにあることも否定できないと思うからである。橋本治さんによれば、チャンバラ映画というのは歌舞伎の大衆化であるが、やくざ映画はそのインテリ版なのだろうか(わたくしはチャンバラ映画もやくざ映画もほとんど観ていない)。
 つまり橘氏のいうことは理屈ではわかるが、感情的にはなかなかそうもいかないということである。
 「「日本人」というオリエンタリズム」はまた別に。
 

(日本人)

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日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)

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