北中淳子「うつの医療人類学」(1)「序章 うつと自殺の医療人類学」

      日本評論社 2014年9月
 
 著者は医療人類専攻のひと。医療人類学は「病や死、苦しみに関する文化を考察する学問」ということらしい。病気というものは、医学の見地からみれば世界に普遍的なものであるはずで、その治療法についてもどこでも共通のものがあるはずである。しかしそれは医学のなかでも「科学」としてあつかえる領域、つまりは「モノ」としての病に関する部分だけであって、「コト」としての病ということになればさまざまな地域の文化の影響を色濃くうけるのも当然である。人類学(特に文化人類学)は当然そういう方向からアプローチしていく学問である。
 最初に「うつ病が世界的な流行をみせている」ということが書かれ、それの原因として、
 1)不況が続くことにより社会的なストレスの増大している・・・しかし、不況の地域以外でもうつは増えている。
 2)うつ病の科学的啓蒙が進んだ・・・しかし日本では啓蒙は以前からなされていた。
 3)概念が変化した・・・アメリカ精神医学会による診断マニュアルで従来ならうつとはされなかったような状態もうつとされるようになったこと(医療化)が影響している可能性はある。しかしこのマニュアルの刊行とうつの流行にはタイムラグがある。
 4)治療技術の進歩・・・副作用が少なく効果の高い抗うつ剤であるプロザックが開発され、製薬会社が患者の掘り起こしをおこなったこと。
 などが原因としてあげられている。
 人間であれば当然と思われる人生上のさまざまなできごとに対する反応を〈病気〉としてしまう「医療化」の動向には従来から批判がある。2013年に発表された最新のマニュアルDSM−5で「喪失の悲哀」までうつ病にふくめることにしたことについては大きな批判がおきている。
 著者は、この15年間での日本での「うつ」の急速な増加は、決してバイオロジカルな還元主義の広まりを示すものではなく、新たなバイオソーシャルなうつ病理解が生まれてきていて、それにより、ある種の〈社会救済としての医療化〉が可能になってきていることを指摘している。それが本書のテーマの一つとなる。
 日本の精神医療の特徴は、「個人の心理的葛藤」にのみ焦点を当てるのではなく、また「バイオロジカルな脳疾患」としてのみ語るのでもなく、「うつ」を「社会的なストレスの病」と位置づける点にあると著者はしている。その動向は現在の日本では司法や行政によって主導されており、「うつの個人を変えるだけではなく、社会をも変えていこう」という意識がそれにより醸成されてきている。そのことは、世界的にも先駆的な試みであると著者はしている。
 過労とうつ病との関係がこれほどまでに強調されるようになったきたのは、日本の労働環境も関係している可能性が高い。過酷な労働現場により疾患となったひとの「社会的救済」への道をひらいたのが「日本のうつ病言説」の特徴であり、これが日本でのうつ病流行の第5の説明となる、と著者はしている。それにより、日本では「弱さ」に対する新たな共感が生まれつつあるのだという。
 日本では以前には、精神医学に対する一般の人々の抵抗が強く、そのため治療の対象が重篤な患者に限定される傾向があった。アメリカでは広く受容された精神分析も一般社会には浸透しなかった。日本ではうつ病自体が問題となることもきわめて少なかった。「鬱」を病理とはみなさず、そこに美を見いだす文化的、身体的な感覚も日本にはあった。
 鬱は人生の問題なのか病理なのかという問題があるが、日本では長らく自殺は自由意思の問題と捉えられてきた。
 日本では、うつは心身一元論的な語りでしばしば述べられ、また仕事と直に結びつけられて論じられる傾向もある。
 1900年代から30年代に日本で「流行」した「神経衰弱」はいまから遡って考えるとうつと何ら化の関係をもつ病態だったのかもしれない?
 うつがほとんど精神療法の対象とはされてこなかったのも日本の精神医療の特徴の一つである。
 1990年代まで、日本の精神医学内でのうつ病論を特徴づけていたのは、「うつ病前性格論」(「執着気質」や「メランコリー親和型」)であった。これは日本とドイツの一部を除いてはほとんどきかれる説ではないにもかかわらず、日本では正統的な学説として圧倒的に支持されてきた。そこで想定されているうつ病患者は中高年のサラリーマンであった。そのため日本ではうつ病=男性というイメージがあるが、これは欧米のうつ病=女性という図式と対照的である。
 日本におけるうつ病の言説のもうひとつの特徴はうつ病が社会病理として広く語られていることにある。個人の弱さや欠陥という視点ではなく、社会的状況に目をむけるという方向がそこにみてとれる。
 「うつ」をなぜ自然科学で捉えるのではなく、人類学的・歴史的に捉えるのか、という点について、精神医学の対象自体が、自然科学的アプローチだけでは十分に理解できないものであるからと著者はしている。
 ここで著者が持ち出すのがイアン・ハッキングの「何が社会的に構成されるのか」での「自然種」と「相互作用種」という概念である。「自然種」は「人間がそれにどう名づけ、定義づけ、介入しても対象自体がその影響を受けないようにみえるもの」である、「相互作用種」とは、その反対に「わたしたちの名づけ、定義づけ、介入によって、その影響を受けて対象も変わってしまうようなもの」をさす。科学者であれば、時代を超え、文化・社会を超えて、客観的かつ普遍的に存在する「うつ病」の「自然種」を捉えようとする。しかし、うつ病においては、ある人が自分はうつ病であると思うこと自体が精神科医の診断に影響し、精神科医うつ病概念を変えていくということがおきる。つまりうつ病は観察者の外部に普遍的・伽感的に存在する中立的で確固たるモノとしてはうまく捉えられないということである。
 これは精神医学が非科学的であるということではない。自然科学が前提とするモデルだけでは万全なものではないということである。
 以上、序章の「うつと自殺の医療人類学」をまとめてみた。
 
 ここまで読んできても、ここで論じられていることが、直前のエントリーでとりあげたニスベットの「木を見る西洋人 森を見る東洋人」と関連があることことは明かと思う。要するに、西洋人はうつ病患者個人という木しか見ないのに対して、東洋人はうつ病患者と社会とのかかわりという森を見る、という話である。そしてもっといえば、科学という西洋の見方には限界があるという話である。
 ハッキングの「何が社会的に構成されるのか」は、危険・感情・知識・現実などといったものが社会的に構成されたものであるという主張の検討から本がはじまっているが、その中には病いという項目もあり、本文では当然、自然科学が検討されており、「イギリス人の報告するサルはどうしうもなく強情で、アメリカ人のそれはえげつないまでに進取の気性に富み、日本人が見たサルは身分の違いにうるさくかつ協調的、フランス人のサルは性関係が乱れ気味」などという冗談を紹介した後、物理学や化学、さらには分子生物学だってそうかもしれないぞというというように展開していく。そして第4章は「狂気」で、そのサブタイトルが「生物学的か構成されるのか」である。ここで「自然種」と「相互作用種」という概念が導入され、自然科学は自然種をあつかい、社会科学は「相互作用種」をあつかう、とされる。
 こういう話をきくと、たいていの自分は自然科学者であると思っている人間は頭にくる。その典型が「悪魔に仕える牧師」に収載されている「何が真実か」という文でのドーキンスがしている「文化相対主義」への悪態である。そこで示される科学的真理への信頼(信仰?)はすさまじいもので、それを理解できないのは「そうでないようにしつけられているか、それよりよいものを知らなかっただけ」なのである。知ればかならず科学の方に転向するはずとドーキンスは固く信じている。そこで、ポパーやクーンの科学哲学も批判されている。これを読むかぎり、ドーキンスが本当にポパーを読んでいるのか疑問であるが(ポパーはここに描かれているようなシニックな見方をする人間ではない。なによりもシニックを嫌う人、科学への熱い情熱を持った人であり、相対主義を徹底して嫌った。ポパーは真理が存在することを確信していたが、われわれは真理に到達したとしてもそれが真理であることを知りえないとしたのであって、個々のひとにそれぞれの真実があって、そのどれが真理であるかは知りえない、あるいはそのどれもが個々のひとにとっての真実であるとしたのでは決してない)、真理が相対的である、あるいは文化に依存的であるという見方は多くの自然科学者を苛立たせるらしい。
 本書を読んで一番驚いたのは、日本において精神医学の領域において何が真実?であるかを決めているのが、医者でもなくまた医療の問題を研究している学者でもなく、司法であり行政であるという指摘であった。現場にいて何か変だなという感じをいつも感じていたが、それがなぜおきるのかうまく理解できずにいたのだが、ようやく了解できるようになった。
 社会のなかにおいてうつ病をこのようなものとして捉えていくという方向が司法により確定され、それに基づいて行政が現場を指導していくということで精神医療の大きな方向が作られていくということである。医学者のなかにはこのような見解がある、司法の判断としてはこうである、行政はこのような指導している、ということが並立してあるのではなく、医学者や医学研究者がどのようにいっているのであるとしても、それはそれとして、現場においてある事態がおきた場合には、このような考えのもとでやっていくという方向がすでに司法の判断として確立していて、それがある意味で精神医学界をも引っ張っているという現状である。相対的にいろいろな見方があるにもかかわらず、司法と行政が絶対的な強制力を持つ見方を採用したことによる影響がいろいろと及んできているということである。
 行政が一つの価値判断から、入試の改革をしたり、ゆとり教育を導入しあり、メタボの健診を制度化したりといったことと同じ流れのなかの一つとして、社会を変えるための一つの方策としてメンタル不調を広義の労働環境問題としてとらえる視点が採用されている側面が間違いなくあるということを、本書を読んでいてようやく気がつくことができた。
 より広い視点をとるなら、これから世界的に景気が停滞していくことが不安視され、どこでも労働環境が一層厳しくなっていくことが予想されるなかで、そこで生じてくるであろうさまざまな問題への一つのセーフティネットとして日本の司法や行政のやり方が世界でも先進的なとりくみとして機能していくのではないかということを著者は期待しているように思えた。
 グローバル化というのはおそらく西欧化・アメリカ化の方向である。そのなかでは、メンタル不調もまた個人の責任とされていく可能性が高い。それとは違う見方がすでに現実に機能し定着しだしている日本のありかたは、個人だけの責任ではなく社会もまた責務を負う視点を持っている点で、今後、世界に発信していく価値のある方向を示していると著者はしている。
 数年前から産業医療の現場にいて、うまく理解できないこと、整理できないことが多々あったが本書を読んで、ある程度、問題の相互の関係が呑み込めるようになったのは収穫であった。それで、以下、もう少し個別の問題を見ていく。
 

うつの医療人類学

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何が社会的に構成されるのか

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悪魔に仕える牧師

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果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

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