北中淳子「うつの医療人類学」(4)第4章「「精神療法」と歴史的感受性」

 
 20世紀北米では精神分析がさかんで、うつ病の治療も精神分析によるものが主流であった。身体は精神によってコントロールされるべきと考えられてきた。しかし1993年長年抑鬱になやみ精神療法で改善していなかった人々がプロザック(SSRI)をのむことで一気に元気になり、性格も明るくなったという報告が発表されてから風向きが変わった。「心理学的人間」から「神経化学的自己」への転換がおきた。
 精神療法家からは、うつの薬物療法はうつの原因となっている生き方の問題を見逃してしまうことになるという批判がでた。
 著者の北中氏が北米での精神医学のフィールド調査をおえて2000年に日本に帰ったとき、北米でのバイオロジー派対精神療法という対立が必ずしも日本ではみられないことに驚いたという。日本では日々の診療においては北米ではバイオロジカルと呼ばれるようなアプローチを多くの臨床家がとり、精神分析に造詣が深い医師であっても、うつ病患者への精神療法についてはきわめて慎重で、「うつ病患者には、心理的洞察を求める精神分析は「禁忌」である」という医師さえいたのだという。
 その原因としては、1)日本では一般に精神療法が不人気であること、2)日本の診療報酬体系では時間のかかる精神分析などを臨床の場でおこなうことがきわめて困難であること、などがあげられているが、それだけとは思えないと北中氏はいう。
 日本ではうつ病はバイオロジカルな病気であると考えられており、薬物療法が第一選択であり、うつ病は本来まじめで勤勉な人々がなるのだから、そのもとの状態に戻すことが治療の目的であり、患者の語りについては耳をかたむけることはしても、それに深く切り込むことはせず、身体治療を優先すべきとされてのだ、と。
 うつ病を個人の文脈におさめ、「まじめ」で「周りに気をつかう」ひとがなる病気という社会的状況を強調することにより、それ以上の“原因”検索を避ける方向が治療のいきかたとなっていた。
 これは病者を自責感と道徳的責任から解放させるという近代医学の得意とする方向を可能とする。日本の精神科医は北米の医師はあまりおこなわないようなソーシャル・ワーカー的な介入、職場や家族面での調整を積極的におこなう。心理的側面は難治の場合、再発をくりかえす場合にはじめて考慮されるようになる。薬物での治療に抵抗があり、セラピーで治したいという患者もいるが、精神科医は内因性のうつ病が、誤った精神療法的介入によって「神経症化」していく危険性に敏感である。
 それまで電撃療法や持続睡眠療法が用いられていたうつ病治療は、1960年代以降、一気に抗うつ剤トランキライザーの併用へと変わっていく。しかし、再発や遷延化もまた問題となってきた。抗うつ剤の開発によっておきた当初の楽観主義はゆらぎ、反精神医学の動きや、ドイツなどを中心とする実存的・現象学精神病理学にも触発され、うつ病論は大きく変化し、内因対心因という二項対立から状況因という概念が中心となってきた。
 産業の合理化と機械化によってもたらされた危機と、それに対するこころの反乱がさかんに論じられ、1960年代には、うつ病論は一種の疎外論となって社会批判の意味ももちはじめた。「かつて勤勉・努力・節約などが美徳とされた時代には、きちょうめんにまじめに仕事にうちこんできたが、消費・レジャーが美徳とされる自体になって、みずからの生き方を見失い、慢性化したうつ病に落ち込んでいく中年のサラリーマン」「昔なら孫の養育に生きがいを見いだせたはずなのに、核家族化の進行で、子どもたちの成人後は生きる目的が得られず、うつ病になった老夫人」・・・。うつ病が「自分がいかに生きるべきかの迷い、あるいは生きがいを見いだせなくなった状況」からの病として語られるようになった。その結晶が1975年に発表された笠原・木村分類であった。こういう伝統があったことにより、DMS台頭後も、日本のうつ病論がある種の独自性と臨床的な豊かさを維持できた理由であろうと北中氏はしている。
 ある精神科医は、自分が精神療法的かかわりを始めた当初はかえって治療が難航する例が多かったことを述べ、患者の内面に関心を持ちすぎたことがその原因であったと述べ、あまり患者の葛藤を治療の場にださず、それに蓋をすることが治療の要になるといっている。
 それで例えば、笠原の「小精神療法」などが提唱されてくる。患者がいかにも精神療法の対象になりそうなことを語っても、あえてそこに介入しないことこそが「逆説的だが、精神療法的である」と知ることがこの時代のあらたな臨床哲学となっていった。「精神分析は、こころの外科手術にも似て、一介の臨床医が安易に試みるべきではないもの」とされた。
 あえて「精神」の領域には踏み込まず、不眠といった「身体」の症状からアプローチするやり方は、伝統的心身一元論とも共鳴する日本のローカル・サイエンスにも合致していて、北米風の「うつは感情の病」とする見方とは異なる、「心身エネルギーの低下」に着目する「生理学的」見方の伝統に沿ったものだったのかもしれない。
 日本のうつ病臨床を独自なものとしているメランコリー親和型の言説は、個人の性格論と社会的生活論の二つの側面を持つので、個人が過剰な心理的洞察の深みにはまることを防ぐ役割を果たしてきた。そこでは患者が自ら変わるという側面は重視されない。最近の認知行動療法などの隆盛はそれへの批判としてでてきた可能性がある。
 
 ウッディ・アレンの映画などをみているとアメリカのインテリはみんな精神分析を受けているような気がする。一方、日本ではまわりをみても精神分析を受けているひとなどいない。そうではあるが、精神分析といった大げさなものではなく、カウンセリングのようなものへの期待は大きいのではないかと思う。患者さんを精神科に紹介すると、行ってもろくに話もきいてくれなかったという不満を表明するかたが多い。精神科というところは、患者さんの話をきいて、そこからその人の生き方の問題点を指摘してくれて、今後どのような生き方をするかをアドバイスしてくれるところと思っているかたが多い。したがって、ちょっと話をきいただけで、じゅあお薬で様子をみましょうなどといわれると非常な不満を感じるらしい。
 日本には精神分析医は多くないがカウンセラーの数は多い。それが日本の精神科医療に果たしている役割はどのようなものなのだろう? 精神科医はカウンセラーにあまり好意的でないひとが多いように感じる。精神科医薬物療法ができるが、医者ではないカウンセラーはそれができないので、もっている武器は心理療法だけである。「患者がいかにも精神療法の対象になりそうなことを語っても、あえてそこに介入しないことこそが「逆説的だが、精神療法的である」と知ることがこの時代のあらたな臨床哲学となっていった」のが日本の精神医療の動向であったとすると、その立場は微妙である。
 精神科医は自分たちがあえて近づかず、蓋をしている患者さんの「こころ」の問題に、カウンセラーがそれをこじあけて近づき、結果として問題をこじらせてしまうことが多いと感じているように思う。しかも善意で熱心なカウンセラーほどそうなりやすいとも。
 河合隼雄さんの本などを読んでいると、面談の場でしていることはクライアントの話をきいているだけのように感じる。「ほう」とか「難儀ですなあ」とかだけいっている。おそらく介入しなくてはならないクリティカルな場面というのは滅多になくて、それ以外の場では何も指示などしない。これは名人芸であって、誰にでもできることではない。
 名人芸を必要とする点で心理療法というのはまだ非常に多くの問題点を抱えているのだろうと思う。神田橋條治氏は「精神科の臨床をやるなら、「ほう」という相づちにも8種類(だったように記憶している)の別々のニュアンスを込めた音調の使い分けができなければいけない」といっているのだそうである。そのくらいのこともできずに、「こころの外科手術」をすることなどは危険なだけで、「生療法は怪我の元」なのである。神田橋氏は精神療法の達人なのだそうである。
 などと偉そうに書いているが、ひとのことはいえない。若いころ何度も大火傷をしている。大学を出て市中の病院で働きはじめたころ、大学では肝臓の勉強をしていたが、今と異なり、そのころの肝臓病の臨床は診断はできても治療法があまりない時代であったので、外の病院にでたら治せる病気をみたいななどと考えた。治せる病気というのは、病気ではないが病気であると患者さんが思っている病気なのである。若気のいたりであった。どういうわけか、そとの病院にでたとたんに自分の生涯でも最重量級の患者さんに立て続けに遭遇した。今から見ると広義のヒステリーに属するかと思われる症例ばかりで、みな女性である。笠原嘉氏の本にもあったが最近は本当にヒステリーが減った。この数年、まったく見ていない。
 一例が、種々症状があるが器質的な変化がまったくない女性で、自然科学畑の女性研究者で女性であるがゆえにいかに学者社会で差別を受けてきたか、それに自分がいかに傷ついてきたかというようなことを縷々訴える。器質性の原因が一つも見つからないので、こういう話をきくとああこれだ!と思ってしまうわけである。別に精神療法をしたわけではないが、そういうことが病気の真の原因ではないかと本人が気がつけば症状を消失させることもできるのはないかとなどと甘いことを考えてしまった。話をきいていくと聞けばきくほど面白い、いかにも精神分析の対象となりそうな父親との関係の問題とかがどんどんでてくる。後から考えると作話がはいっていたかもしれないと思うし、本人にしても本当の話と空想の話の境界がなくなっていたのかもしれないが、とにかく一生懸命に患者さんの話をきくほど患者さんはどんどんと悪くなっていった。今から考えると患者さんの症状は周囲の関心をひくためにでてきたのであるから、それに関心をもってくれるひとがでてきたら待ってましたであって、症状がよくなる可能性ははじめからなかったわけである。この症例で、患者さんに関心をもつこと自体が患者さんを悪くする可能性があることを身をもって知った。どんどん悪くなっていったので、お願いして精神科の専門家に診てもらうようにしたが、その先生ははじめから治せるとはまったく思っていないようであったのにびっくりした。その後、症状はずっと続いていたようで、ときどきわたくしの外来にもみえたが、とにかく治らないことが苦になっていないようなのである。むしろ医者が診断に苦慮するような特別な症状があることが、自分が特別な人間であるというアイデンティティの保証になっているような印象さえあり、この症状が消えたら自分は普通のただのつまらない人間になってしまうと思っているのではないかと思えるくらいだった。手足が動かなくなったり、あるときは体が自然に動いてしまってといって、外来の間中、まったく座らず(座れず?)診察室のなかで歩き回りながら話つづけたりした。
 また一例は、膠原病を背景にした気管支喘息の患者さんで、膠原病による肺病変のため、喘息発作がすぐに重度の呼吸困難を引きおこしてしまう症例で、その発作が自分が何か気に入らないことがあるとおきるのだった。当然、病棟のスタッフは本人の精神状態を平静に保つように気を使うわけだが、そのような状況をつくりあげることによって、患者さんが完全に病棟を支配してしまうようなことがおきることを知った。“操作”というような概念は後から知ったのだが、患者さんの病歴(履歴)をきくと若いころからショービジネスの裏道で大変な苦労をしてきたひとで、わたくしのような世間知らずのお坊ちゃんにはただただびっくりするような話ばかりだった。そして本人はそういう話を親身にきいてくれるひとがいることがとてもうれしいようだった。その話を遮ってほかにいこうとすると発作がおきる。本人の精神の平静のためにもわたくしはその話をきかざるをえずというようなことになり、抜き差しならなくなっていった。わたくしには手におえず、友人の精神科医に病棟の調整などを依頼した記憶がある。患者さんに一生懸命にかかわることが決して患者さんの予後をよくするわけではないことをまた身をもって学んだ。
 もう一例は、鎮痛剤中毒の若い女性で、某大学の某医局の女性秘書のひとで、驚いたことにその秘書さんはその医局の医者の相当数とできているらしいのである(本人のいうことが誇張である可能性も高いのだが)。ある先生が当直のときに急に激烈な腹痛がおきる。するとその先生が鎮痛剤を打ってくれる、というようなことをきっかけに次々と関係ができていくというようなことのようだったが、先生方が患者さんの味方になって安易に鎮痛剤を打つことを続けたため中毒になってしまった。その症例のときにはわたくくしも少しは経験を積んでいたので、患者さんとの距離を意識的にとるように心がけた。
 とにかくこれらの症例を通じて学んだのは患者さんとの距離のとりかたがいかに難しいかということで、決して近づけば親身になればいいというわけではないということである。これは精神分析の「転移」とか「逆転移」とかにもかかわっている問題なのだろうと思う。
 そういう苦い経験があるので、本書にかかれている、精神科医が安易に精神療法に走らないという姿勢は非常によく理解できた。
 日本であるいは世界でヒステリーが激減してきているのは、女性の地位の向上のためなのだろうか? 身体が声をあげなくても女性も自由にものをいうことができる時代になってきたのであろうか?
 わたくしがはじめてヒステリーの患者さんをみたのはまだ学生の頃、夏休みに地方の病院に見学にいっていて、そこで大騒ぎで「痛い、苦しい!」と泣き喚いている女の子をみたときだった。不思議なことにそこのお医者さんたちは知らん顔して誰も相手にしないのである。きいたら、東京から夏休みに避暑にきていて、そこで好きな男の子ができて帰りたくないから“病気”になっているということだった。今ならもっと違う表現法がいくらでもあるのだろうと思う。アドレスを交換してメールのやりとりでもすればいいので、泣き叫ぶことはないわけである。わたくしが大学にいたころは「君の名は」の時代からまだそう時間がたっていなかったということなのかもしれない。医者になって大分してから、ハイヤーの中で電話をしているひとをみてびっくりしたことがある。
 計見一雄さんの本で読んだのだったと思うが、日本人は病気になると「なぜ自分がそうなったのか」ということを非常に気にするらしい。病気は一種の災厄であるから、ほかならぬ自分がそうなったのは何か自分が悪いことをしたからなのかという方向に頭がいくらしい。あなたが何々さんに意地悪したからですよといったことがないと納得できないらしいのである。そうであればメランコリー親和型という説明は納得性ということについてはなかなか強力なものなのではないかと思う。
 笠原嘉氏の「精神科医のノート」にも書いてあったが、精神科医自身も自分もまたメランコリー親和型と思っているひとが多いらしく、それが日本でこの病前性格論が大いに受け入れられた一つの原因ではないかとしていた。別のところで読んだことだが、精神科医はお互いに他の精神科医をいろいろと批評しあうものらしく、どう考えても他からはメランコリー親和型とは見えないひとが自分ではそう思っているケースが多々あるのだそうである。
 最近ノーベル賞を受賞した中村さんというかたは日本では評判が今一つではないかという気がするのだが、ああいう「俺が俺が」の自己主張のひとばかりであれば、メランコリー親和型などという話はまずでてこないはずである。学会などにでるとアメリカからの演者が「自分はこの分野での世界的権威である」などと自己紹介をすることがあって驚く。
 最近、メランコリー親和型のうつが減少してきているといわれるが、日本の社会の変化を反映しているのであろう。社会が変わると病気が変わるのであれば、DMS分類などというのは、いかにもアメリカ的な大味なものという気がする。
 さて、日本は男社会である。医者の世界もまた男社会である。精神医学の世界もまた男社会である。とすれば「メランコリー親和型」といった言説が日本で正統的なうつ病因論となったことは、その反映なのではないかという見方が当然でてくることになる。
 高校生の時、確か島崎敏樹さんという精神科医の確か「こころで見る世界」という本を読んだ記憶がある。なんで読んだのかというと、そこから多くの国語の入試問題が出題されていたからなのだが、そこにこんなことが書いてあった。確かイギリスの王女様が政治に関心をもっていろいろと口を出してくる。困った周囲が一計を案じて美男を王女に近づける。王女は恋におち、やがて結婚して、子供もできる。それでしみじみというには、子供を産んで育てるというこんな無常の楽しみがあることも知らないで、政治などに関心を持っていた自分はなんと愚かであったのだろうか。今こんなところを出題したらフェミニズム陣営から猛烈な抗議が来ることは必定である。昔はよかったわけである。
 それで、次はジェンダーの問題を論じた第5章と6章を見ていく。
 

うつの医療人類学

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精神科医のノート

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脳と人間-大人のための精神病理学 (講談社学術文庫)

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