北中淳子「うつの医療人類学」(6)第7章「「労働科学」の新たな展開」

 
 もともとわたくしがこの方面に否応なしに関心をもたざるをえなくなったのは、数年前から産業医療の分野にかかわることになり、それまで持っていた古典的なうつの知識だけではまったく対応できない状況にすぐに直面することになったからである。
 そして本書を読んで、何となく変に思っていた部分のかなりが解消した。それは一言でいえば、この分野の方向を決めているのはどちらかといえば「医学」ではなく「司法」や「行政」なのだということで、わたくしの専門である内科でいえば、ある病気の原因が何かということを司法が決めるなどということはまず考えられないので(医療過誤の裁判などで争われるのは個々の症例での行為の妥当性であって、一般論ではない)、それが精神医学の分野ではおきているということがなかなかうまく腑に落ちてはこなかったのである。何となく、医学的な判断と司法の判断が並立しているような気がしていた。しかし、「過労うつ病」という概念は裁判の判例によって主導されてきたようなのである。
 過重な心理的負荷によって追いつめられた労働者がうつに陥るというストレス説がひろがったことにより、うつ病は「誰でもなる病気」であることが広く認識されるようになった。生物学的還元主義が主流であった精神医学の領域にそれは新しい動向をもたらした。、北米におけるPTSD論とともに社会精神医学的視点が導入された。
 しかし精神医学界の内部では、ストレス説に納得しない医療者が多い。
 政府・産業界のメンタルヘルスの方向転換を決定的にしたのが2000年に最高裁判決がでた「電通事件」である。ここから、「過労状況」が認定されれば、精神医学的議論にああまり踏み込まずに、過労→うつ病→自殺という因果関係が認められることが定着していった。
 うつ病は個人の脆弱性(素因)によるという反論はつねにあり、メランコリー親和型というのはまさにそれを指していた。それはうつ病の「生理学・身体モデル」であり、遺伝vs環境の二項対立を乗りこえるものとして提唱された。
 この説は、世界では認知されてはいないものの、日本においては現在でも精神医学分野での正統的なうつ病理解となっている。
 メランコリー親和型理論は社会の病理、時代の病をしめすものとされ、労働者がうつになるまで企業と一体化するその“心理的拘束”が問題とされた。最高裁判決では、メランコリー親和型の性格は「一般の社会人にもしばしば見られるもの」とされ、特異なものとはされなかった。
 うつをは個人と社会とのきわめて動的な相互作用によるものであるとみることが法律の場でまず確定され、それが行政を動かし、結果的には精神医学界に大きな波紋を投げかけることになった。
 それは従来の日本の精神医学界に根強くあった「正常と異常の境界には質的断絶がある」という立場をゆるがせることになった。うつに限らず、精神障害の多くが労災の対象となったことは精神医学の専門家を驚かせた。統合失調症躁鬱病までもが労災の対象となった。ストレスの結果としてうつ病が生じるというストレス説は現在では産業医学における常識となってきている。
 現代医学においては生物学的病因論が圧倒的に学説を席巻していっているので、ホーリスティックな視点は後景に退きやすい。
 社会因を科学的に示すことは非常な困難をともなう。したがってそこでの対策も睡眠時間とか労働時間とかの数値化しうるものへの対応に傾きがちである。それにより長時間残業をした労働者への面談が行われるようになった。
 しかしストレスの量よりも質が問題という指摘もなされている。客観的な時間数よりも、それを本人が“主観的に”どのように受け止めているかが大事ということである。このような「主体の問題」に応えるものとして認知行動療法やリワークといったものも注目されてきている。
 日本においては、“ストレスにより精神障害が発症する”という仮説はすでに実証された真実であるかのような扱いをされているが、これは実証された“科学的真実”ではないのである。
 
 産業医の仕事のかなりの部分を占めるものに長時間の残業をしている者への面談がある。これは当初、脳卒中や心臓疾患の予防という観点から導入された。しかし、外来で患者さんをみていて脳卒中や冠動脈疾患の発生を予見することなどほとんど不可能なのであるから、長時間の残業をしている人と面談したとしても、予防の観点からはまず意味はない。これが導入された当時、会社としてもちゃんと気はつけていますというアリバイ作りのために作られた制度のように思われ、意味がないことをしているなあという感想をもった。その後、メンタル不調の予見という視点も導入され、現在ではもっぱらその視点からの面談となっている。
 とにかく日本は異常に残業が多い国であるにもかかわらず、それをなんとかしろと国が指導をしても一向に減る気配がないので、搦め手から攻めているのかなと最近は感じるようになった。司法が主導するようになっているというのも、過労死と認定されれば多額の賠償金が生じるという方向から会社を変えるしかないということがあるのかもしれない。
 日本でこれだけ残業が多いのは、日本では一度雇用したら容易には解雇できないということがあるので、景気の動向によって社員数を調節できないので、働く時間で調整するしかないからというような説明がなされているらしい。非正規労働者が増えているのも、同じ理由によるらしい。
 長時間残業の面談をしてそこでうつになりそうな人を早期発見して介入するなどというのは完全に方向が違うわけで、残業時間を減らすのが本来あるべき方向である。しかし今の日本の雇用の形態がすぐに変化するようにはみえない。
 現在、面談をしていても「メランコリー親和型」的なうつへの危険を感じるひとはあまりいない。多いのが今自分のしていることに意味を感じられないという方向の元気のなさである。そして若い人は、それを見ていて、偉くならなくてもいいから無理しないでいこうというような気分が目立つ。
 そうであるとすれば会社と心中するようなメランコリー親和型はこれからは減っていくと思われる(今でももう少なくなってきていて、代わって、いわゆる新型うつのような人がとても目立ってきている。そしてもうひとつ問題なのが、高度成長期に大量採用され、年功序列でそこそこの地位まであがったはいいが、そこで完全な「無能レベル」(「ピーターの法則」)に達してしまっているようなひとである)。
 まさに「メランコリー親和型」のうつはある時期の日本社会の縮図であったわけで、栄養ドリンクのコマーシャルで「24時間戦えますか」などということがいわれていた時代の産物である。なんでそこまで頑張ったのかといえば、日本が上昇しいている成長しているという気分がそれを支えたのではないかと思う。一部のひとはうつで倒れたかもしれないが、多くのひとはアドレナリンを大量に分泌しながら乗り切っていった。しかしそれに同調できないひとはその当時においてもたくさんいたわけで、1976年刊行の笠原嘉氏の「精神科医のノート」には、「メランコリー親和型性格」が語られるのと平行して「スチューデント・アパシー」の章もあって、これはいわゆる「新型うつ」とそっくりの病像である。「はじめから降りてしまう」人たちである。笠原氏はメランコリー親和型にもスチューデント・アパシイにも共通するのが強迫性の心性であるという。しかし当時はメランコリー親和型が前景にでていた。
 もうこれから日本が大きな経済成長をすることはないであろう。そうするともうメランコリー親和型がうつの主流となることはなくて、停滞に親和的な「新型うつ」が前景にでてくるのではないかと思う。しかし、このタイプのうつ?を司法も行政も積極的に擁護していくことはまずないだろうと思う。精神科医もまた「新型うつ」に対しては腰が引けている。裁判官も官僚も精神科医もみな「メランコリー親和型」の性格に同情的であり密かに自分もそうかもしれないという共感を持っていたからこそ、日本でのこのような展開があったのであろう。中井久夫氏によると日本人の「執着気質」とはほとんど仕事へのかかわりであり、その典型を二宮尊徳にみている。それは復興の論理なのだという。そしてマージナルなものへの感覚に乏しく、大変化への対応を苦手とする。日本は戦後の復興に頑張った。そして、東日本大震災に狼狽し、成長の時代が終わったことへの直面を避けている。昔、小学校の校庭には二宮金次郎銅像があったような気がする(八重洲ブックセンターの前には今でもある)。その現代像が歩きスマホなのだろうか? しかし、それは勉強しているのではないような気がする。
 

うつの医療人類学

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