山崎正一 串田孫一「悪魔と裏切者 ルソーとヒューム」

    ちくま学芸文庫 2014年11月
 
 まったく偶然に書店でみつけたもの。なぜ買ったかといえば、ヒュームに興味があるからで(ルソーには興味がない)、なぜヒュームに興味があるのかといえば、吉田健一の「ヨーロツパの世紀末」で18世紀ヨーロッパの文明人の典型として紹介されていたからである。何だか、風が吹けば桶屋がもうかる程度の関係かもしれないが、読んでとても面白かった。
 ここで悪魔とはルソーのこと。裏切者がヒュームである。本書は昭和24年に刊行されたもので、なぜ今これが文庫化されたのかはよくわからない。
 本文は200ページほど。二人の往復書簡を中心において、それに山崎氏と串田氏が注釈と感想を付したもの。それに、小林忠秀氏による20ページほどの「解題」と重田園江氏による15ページほどの「解説」がついている。ルソーとヒュームの論争?喧嘩?をあつかっているのだが、なぜそのような内輪の話をわれわれが知ることができるのかというと、二人のあいだの書簡のやりとりをヒュームが後に公開したからである。それによって、ヒュームは、どちらの側に分があるのかの判断を第三者(そして後世)に委ねようとしたわけである。
 著者の一人の山崎氏は当初はヒュームの肩をもっていたのに、書き進んでいるうちに段々とルソーに同情するようになってきたとしている。「解題」の小林氏はどちらに肩入れするとは書いてはいないが、「ルソーは現実の市民社会の底に、言わば底知れない深淵を見た。深淵を見た者のことばと生き方は、狂気の人のそれとなるであろう」といい、「両人の出会いは、狂気と正常との出会いであったが、しかし、それは同時に純粋と世俗との出会いであったということができよう」とも書いていて、どうも純粋のほうに肩入れをしているように読める。「解説」の重田氏は「和やかな社交と内面との対話」ということをいい、「ルソーだけが暴くことができた、善良さの裏側、あるいは「健全さの悪」」ともいっていて、「私もまた本書の著者たち同様、ルソーにエールを送りたいという衝動を抑えきれない」という。どうもヒュームの旗色は悪い。
 この「健全さの悪」というのは本書第10章のタイトルである(山崎氏執筆部分)。山崎氏はヒュームの善良さは、単なる善良さではなく、実証科学の方法と結びついた善良さであるといったことをいう。わかりにくい言い方だが、善悪の判定基準が自分のそとに客観的に存在するといった見方のことだろうと思う。一方、ルソーの立場とは善悪の基準はただただ自分の内なる良心だけに存するというものである。
 どうも純粋さというのは大いなる破壊力をもつようで、「二・二六」の将校たちも、全共闘運動の闘士たちも「純粋」だった。ここでも、みなそれに薙ぎ倒されてしまっているようである。
 本書を読んでも確かにヒュームにはある種の感受性の欠如があるように感じる。最初、ルソーと付き合いだしたとき、周囲のひとが「あいつは食わせ物だぞ、気をつけろ、あまり深入りするな!」といっても意に介していないし、少し関係があやしくなったときにルソーが思わせぶりな書簡をよこしたときにも自分のことだとは気がついていない。本当に le bon David なのである。「およそ人間は無節操で利に走りやすい悪人であり、人間の行動には私利私欲以外の目的はないと想定しなければならない」(「議会の独立について」)などとわかったようなことを書いてはいるが、人間のもつ「底知れない深淵」といった方面にはアンテナがあまり働かなかったひとではないだろうかと感じる。
 たとえば人に同情するということは、同情された人間にとっては微妙な違和感を生じさせる行為で、憐憫という感情にはなにがしか毒の成分が含まれているはずであるが、どうもヒュームはそういうことには鈍感なようなのである。
 一方、ルソーは人の前で頭をさげないぞとか人との関係を対等に保つぞといったことに感受性のすべてが働くようなひとで、ヒュームに庇護されているという関係自体に傷つくようなひとであった。マルクスが自分が一番嫌いな悪徳として「卑屈」ということをあげていたのを思い出す。
 L・ストレイチーはヒュームのことを、かれほど公平無私なひとはいなかったといっている。パスモアという人も、ヒュームの人生をどんなに詳細に調べてみても、どこにも卑劣な、あるいは悪意に満ちた行為というものは見当たらない」といっているのだそうである(竹内靖雄「経済思想の巨人たち」)。それにもかかわらずルソーからは「ヒュームは嫌なやつだ、イギリス人とは嫌なやつだ、総じて人間というものは嫌な奴だ」と罵倒されるし、本書の著者の山崎氏からも、解説者からも「健全さの悪」を非難されている。ルソーの「ヒュームは嫌なやつだ、イギリス人とは嫌なやつだ、総じて人間というものは嫌な奴だ」というのは「文明人というのは嫌な奴らだ、文明国というのも嫌なものだ、文明人というのもみんな嫌な奴らだ」ということであろう。文明には偽善の匂いがするのである。だからルソーは野蛮人に希望を見いだした。
 さて、吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」である。そこでは、「(ヒュームが)哲学の面でその理性を存分に働かせることが出来たのは彼が成熟した文明人だったからで、それ故に彼は天性の社交家でもあり、その論敵も彼の洗練された機知と温厚な人物で魅了してフランスではワルポオル以上に社交界の花形になった」と書かれている。
 吉田健一信者のわたくしとしても、氏のいうことでわからないことはいくつもあるが、その一つが社交である。氏によれば、社交とは特別なものではなく、日本語でいえば人付き合いのことなのだという。人付き合いができる立派な人間でしかも機知縦横、さらに優雅なふるまいができる人間たちが互いに織りなして作り出すのが社交の世界だという。つまるところ人間らしい人間のいる世界でのその人たちの交わりである。そして、人間らしい人間とは「(自分も含めて人間というのが)救い難いものと諦めらめなければならない」という諦観をも抱いているのであるとされる。
 わたくしがイメージする社交のひととはタレーランのようなひとで、まさに文明人であると思う。人間としての器量の大きさだと思うが、人間について微塵も幻想を抱いていないことも確かで、だからこその大変節漢であり、大政治家であり、とにかく大人物であるが、「タレーランは嫌なやつだ、フランス人とは嫌なやつだ、総じて人間というものは嫌な奴だ」というひともたくさんいるだろうと思う。
 社交は偽善とカードの表裏の関係にある。偽善の反対がまごころなのだろうか? ルソーは客観的には(というのがすでに山崎氏に嫌われるであろうが)とんでもない悪人で、文明人の資格をことごとく欠く、それゆえに野蛮人の系譜の上にいる人であるが、ルソーによれば文明人は偽善の存在で、野蛮人はそのような偽善とは無縁の存在であるがゆえに美しく、文明化することにより人は頽落していったのであるから、主観的には自分は真心の人、良心のひととなる。
 吉田健一が「瓦礫の中」「絵空ごと」「本当のような話」で描いた世界はまさに社交の世界であろうが、同時に「絵空ごと」であり、「本当のよう」だが実際にはありえない話である。小説の中でこそ美しいかもしれないが、現実には社交は煩わしいものであり、人付き合いは億劫なものである。なぜなら人間のなかに文明人というのはそう多くはいないからで、一向に文明的でないひとと社交などしていたら、人間というのは嫌なものだ、という場面にすぐ直面することになる。
 吉田健一はこういうことをいっている。「我々が人間と言う時に文明人と野蛮人を区別を付けないのは断るまでもないことで人間は野蛮の状態にあっても生きているのであるから生きて行く上で文明は必要でない。又そこに医学の進歩というようなことを考えるのが意味をなさないのを理解するにはその医学の進歩で野蛮人を病気から守って長生きさせてもこれが文明人にならないことを思うだけで充分である筈である。」 なかなかとんでもない言い方であるが、だからこそ、社交というのは絵空事としてしか書けないのかもしれない。
 吉田健一森鴎外の「雁」の一場面を引いて、そこにあるのが社交であるというのだが、わたくしにはどうしてもそうは思えない。立派な人と立派な人が人交わりするのが社交であるなら、力点は立派な人というほうにあり、人交わりのほうにはないはずである。
 渡部昇一氏は「不確実性時代の哲学 ーデイヴッド・ヒューム再評価ー」で、ルソーの構成的主知主義とヒュームの個人尊重の自由主義の対立ということをいっている。構成的主知主義というのはハイエクの言葉らしい。渡部氏によれば、フランス革命を準備したルソーの「社会契約論」がその典型で、「人間の人知に頼って国家を思いのままに作り変えることができる」という思想を指すのだという。
 だがヒュームによれば、われわれはいかようにも理想的な共和国を書斎の中で作り上げることができる。頭の中では完全な共和国を想像することも簡単にできる、しかし、実際には・・ということになる。とはいっても、20世紀を支配したのは構成的主知主義のほうであり、典型的にはコミュニズムがそれであったと渡部氏はいう。
 山崎氏のこの本によれば、ヒュームは「知」のひと、ルソーは「情」のひとである。一方、渡部氏によれば、ルソーは「頭」のひと、「観念」のひとであり、ヒュームは「体」?のひと、「現実」の人である。うまく整合しないような気がする。
 「解説」で重田氏は「ヒュームは行って戻ってくる」ひとであるといっている。ヒュームは自分の懐疑を徹底的に突き詰めていく。だが、それにもかかわらず、「私たちの日常感覚、ふつうになんとなく当たり前だと思っている「感じ」を決して手放さない」のだ、と。ヒュームは「人が自我が存在すると心のどこかで思っている、理性的なひととは情念を抑制できる人だと思われている」といった一般に信じられている通念を忘れることはない、と。徹底した懐疑家であると同時に「人が生きる常識の世界、日常感覚、つまり哲学者たちの突拍子もない結論とは関係のない、一般に信じられている事柄」につねに立ち返るひとでもあり、その二つを両立させるような説明原理を探求した人であったのだ、と。
 このような世間につねに立ち返っていくヒュームの姿勢に重田氏は何かずるいもの卑怯なものを感じ取っているようである。だから「客観的」な事実などは一切顧慮せず、自分の本当の心情のみに信をおく、「良心」のみに信をおくルソーに共感を抱く。他人ならだませるかもしれないが、自分のうちなる良心はそうはいかないぞというわけである。
 重田氏によれば、近代とは凡庸だが穏和な社交を求めるブルジョアの価値観が支配した時代、とてつもないものではない平均的なものが規範となりモデルとなった時代ということになるのだが、一方では自らの良心との対話に絶対的な価値を置く時代でもあるという。「和やかな社会」対「内面との対話」、「世間的な常識」対「自己の良心」。
 吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」は、「凡庸だが穏和な社交を求めるブルジョアの価値観」などというのはヨーロッパが頽落した時代であった19世紀の産物であり、本当の社交は、そして文明は18世紀にあるとした。吉田氏の執筆当時の日本ではそれはきわめて奇矯な主張に見えた、しかしヨーロッパの思想の潮流の中では、それは連綿として続いてきていた正統派?の思想であり、その正統思想を日本に紹介しようとした本なのであったのだと今からみれば思う。
 ブルジョアへの憎悪という感情が、山崎氏にも重田氏にもある。それゆえにヒュームが嫌われ、ルソーが歓迎される。一方、本当の社交というのはブルジョアなどはおこなうことはできないもので、なぜならブルジョアにまともなひとなどほとんどいないのだから、というのが吉田健一の立場ということになるのだと思う。
 ルソーはブルジョア社会を嫌悪したので、それを根源的に転覆する方向を考えた。おそらくブルーズベリー・グループなどもブルジョア社会を嫌悪した。しかし、ルソーは根源へ根源へとどこにもない場所に戻っていこうとした。一方、ブルームズベリー・グループにとっては18世紀に立ち帰ればよかった。立ち帰る手本がある場合には穏健に、立ち帰る手本のない場合にはラディカルになるのだろうか?
 吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」を読んで驚いて以来、それまで考えたこともなかった見方を教えられてただただ打ちのめされたままできているが、それと同時に、何か微妙に消化できないものがあることもつねに感じてきた。マルクス主義的見方というか「七人の侍」的見方というのかうまくいえないけれども、何しろ吉田健一の本ではヨーロッパ18世紀には貴族と文人たちだけしかいないように描かれ、当時悲惨な生活をしていたであろう農民のことなどは文字通り一顧だにされていないのである。そういうのを読むと、自分を余計者というかはみ出し者のように感じる意識を払拭できずにいて太宰治的・吉行淳之介的感性をいつまでもひきずっている人間としては、貴族と文人だけの世界でいいのだろうかという思いがどうしても残ってしまう。自分が絶対的な少数者のがわにいる意識はいまでも濃厚にあって、少数者は片隅で生きる存在であって本流にはなりえないという思いが消えずにある。
 ルソーとヒュームの内輪の喧嘩の話も理屈をこねれば、いくらでもひろがっていく。しかし話が広がり過ぎると収拾がつかなくなる。わたくしの一番関心は吉田健一にある。それで次からはしばらく、今年刊行された長谷川郁夫氏の「吉田健一」について見ていくことにしたい。
 

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

経済思想の巨人たち (新潮選書)

経済思想の巨人たち (新潮選書)

てのひらの肖像画

てのひらの肖像画

タレイラン評伝 上巻 (中公文庫 D 23-2)

タレイラン評伝 上巻 (中公文庫 D 23-2)

本当のような話 (講談社文芸文庫)

本当のような話 (講談社文芸文庫)