橋口稔「ブルームズベリー・グループ」

    中公新書 1989年
 
 このところ、長谷川郁夫氏の「吉田健一」を少しずつ読みながら、吉田健一という文学者についていろいろと考えてみている。
 吉田健一は若い頃にケンブリッジ大学に留学しており、いま丁度、長谷川氏の本のその辺りにきている。ケンブリッジで師事したディッキンスンやルカスというひとは「使徒会」あるいは「ブルームズベリー・グループ」とかかわっていたひとである。ということでそのブルームズベリー・グループについて、少し知識を整理しておこうと思い本書を読みなおした。
 おそらくオックスフォードやケンブリッジといった英国の大学、あるいはもっと広くヨーロッパに古くからある大学は、日本の大学とはまったく異質なものであり、吉田健一も「交遊録」でのディッキンスンやルカスの章で、英国の大学について多くのページを割いて説明している。しかし本当には我々にはそれを理解することはできないのだろうと思う。そもそも英国は日本とは異なり階級社会の国であり、それ故にスノビズムもでてくる。オックスブリッジは上流階級のためのものであり、橋口氏のこの本で論じられる「ブルームズベリー・グループ」も上流階級、あるいはエリートの存在を抜きには考えられないものである。
 本書は「ヴァネッサ、ヴァージニア姉妹とエリートたち」と副題されている。わたくしはヴァージニア・ウルフの小説をまったく読んでいないので、本書を読んでどの程度理解できたか、覚束ないが、以下少しみていきたい。
 ブルームズベリーというのはロンドンの中心部、シティの近くにある住宅地の名前であり、ブルームズベリー・グループというのは20世紀の初頭にこの地区に住んで生活した知識人たちの集まりである。ほぼ同じ年頃、同じ階級、同じ階層の人たちのグループで、その特徴は一言でいうならば「ある共通の生き方をしようとした」ところにあると橋口氏はいう。ある共通な生き方とは「自分たち自身の感情や思考を大切にして、それを頼りに、世間の批判を恐れずに、あくまで自分たちがよいと考える生き方をしようとした」ということであるとされる。自然発生的なグループなので、誰をそのメンバーとみるかもはっきりしないが、主要なメンバーがすぐれた作家であったから文学運動と思われることが多いがそうではないと橋口氏はしている。
 グループのメンバーの一人の子供であるQ・ベルが書いた「ブルームズベリー・グループ」が刊行されたのは、グループのメンバーの多くが他界した後であったが、それはその本がメンバーたちの同性愛や不規則な夫婦関係といった機微な問題をあつかっている以上、そうならざるをえなかっただろうと橋口氏はいう。
 このメンバーが属していた階級は「上流階級でありジェントリー階級であり、彼らは知的貴族でありエリート」だった。日本で強いて似たものを探すとすれば、学習院出身者のつくった白樺派かもしれないが、日本の白樺派は明治後半から大正にかけての日本の上昇期に活動したのに対し、ブルームズベリー・グループは19世紀後半のヴィクトリア朝の繁栄が終わった後の下降期に活動したという大きな違いがあるとされる。
 彼らは一方で「俗物的なヴィクトリアニズム」に反発したが、他方ではヴィクトリア朝よりも昔の時代の古い生き方に固執した。その表れの一例が18世紀への強い関心である。彼らは時代の趨勢が悪くなりつつあると感じていた。
 本書は「ヴァネッサ、ヴァージニア姉妹」が中心人物となる。その父のレズリー・スティヴンは1904年に死んでいる。母はすでに亡くなっており、後にヴァネッサ、トウビー、ヴァージニア、エイドリアンの4人の子供が残された。レズリーは「国民伝記辞典」などを書いた思想史家であり雑誌編集者でり評論家であった。が、何よりも、考える人であり思想家で、その立場は一言でいうならば「不可知論」であった。ケンブリッジで数学を専攻し、ケンブリッジのフェロー(ケンブリッジの教職者をそう呼ぶ)となった。この当時のフェローは聖職者でなければならず、妻帯が認められてはいなかった。レズリーは次第にキリスト教に懐疑的となり、35歳で結婚してフォローの地位を捨て、聖職者の資格も抛棄した。それでその後はいつも経済的な破綻を恐れて生きることになった。もともと下層中流階級であったスティヴン家であったがレズリーの父の代に上層中流階級になっていた。
 父の死により4兄弟がブルームズベリー地区に転居したことがブルームズベリーグループ形成の発端となった。ケンブリッジを卒業して法曹界に入る準備をしていた長男のトウビーの仲間たちはトリニティー・カレッジで「深夜会」という集まりをもっていた。
 「使徒会」はケンブリッジの学生の中でも特にすぐれたものが選ばれる秘密会である。19世紀の初めからの長い伝統をもつ。使徒会に選ばれるものはごく一部であるので、それに選ばれなかったひともふくめて始めた会合が「深夜会」である。
 「使徒会」は教員をも会員とした。「使徒会」に大きな影響を持った教師として,哲学者のムア、政治学者のディッキンソンがいる(吉田健一が師事したディキンソンである)。やや年長の先輩としてはフォースターがおり、すぐ後輩にはケインズがいた。「使徒会」は会員の一人がエッセイを読み、それについて議論をするということをする懇話の会からはじまった。議論は相手を負かすことではなく、上手に議論することが大事とされた。幅広い知識、深みのある教養を身につけていて、上手に気のきいたことを話すのが大事であった。
 「深夜会」もまた会話を楽しむためのものであり、1905年ごろから毎週木曜の夜に定期的に行われるようになった。そこにヴァネッサとヴァージニアの二人の女性が参加したことにより、この会が独自のものとなっていった。というのはケンブリッジは男だけの世界であったからである。ここからブルームズベリーグループが生まれていった。
 イギリスで女子のための学校教育がおこなわれるようになったのは20世紀になってからである。それまでは上流階級の家庭では、女子の教育は女性の家庭教師によっておこなわれていた。ヴァネッサもヴァージニアも学校教育は受けていない。トウビーとエイドリアンはパブリック・スクールからケンブリッジ大学に進んでいる。イギリスのパブリック・スクールは私立の伝統ある学校で、ジェントルマンの養成を目的とした。支配階級の人としてのジェントルマンとなるためラテン語が教えられ、スポーツが奨励され、ジェントルマンとしての立ち居振る舞いが教えられた。
 この「深夜会」での話題はきわめて抽象的なものであったことを後にヴァージニア・ウルフが回想している。たとえば、美とは何か? ここには哲学者ムアの影響がみられると橋口氏はしている。ムアの「倫理学原理」は1903年に刊行されており、「それ自体において善なるもの」「正しい行為」とはどういうものであるかを理知的かつ論理的に追求したものであった。この本が若いひとに愛読されたのは、若いひとたちの知的虚栄心をくすぐったからではないかというのが著者の見解である。またそこで「人間の交わりの快楽」「美しいものの享受」が強調されていたことも大きいともいっている。若い人たちは古いヴィクトリア朝的なものに背をむけて、新しいそれに代わるものを探し求めていた。そもそも若い男女が夜遅くに一緒にいるということ自体が古いヴィクトリア朝的モラルに反するものであった。
 この会合に参加していたクライヴ・ベルがヴァネッサに求婚した。しかしヴァネッサはそれを断った。今の自由な生活の方が好ましかったのである。しかし、1906年トウビーが腸チフスで26歳で死んだ。それをきっかけにヴァネッサはベルの求婚を受け入れた。それは経済的安定をもたらすとともにスティーヴン家にあったピューリタン的な性格を払拭して芸術本位に生きることを可能にさせた。
 新婚のベル夫妻とヴァージニアとエイドリアンはパリに遊び、そこで「深夜会」のメンバーの一人のリットン・ストレイチーの従弟であるダンカン・グラントを知った。
 この頃のエピソードとして「ドレッドノート号悪戯事件」というのがある。本書からではなく竹内靖雄氏の「経済思想の巨人たち」の「ケインズ」の章から紹介してみる。ケインズも所属していたブルームズベリー・グループやその周辺の上流の若者たちがどのような人間たちであったのかが、この事件からよくわかるというのである。「これは、ヴァージニアほか数人の共謀者がエチオピア皇帝一行になりすまして、イギリスのもっとも警戒厳重な戦艦の一つに栄誉礼をもって迎えられて乗りこみ、見学し、歓待を受けて、最後まで正体を見破られることなく、悠々と退去したという事件である。首謀者はチェンバレン首相の甥のヴェア・コールという男で、何しろ4000ポンドをつぎこんだというスケールの大きないたずらだった。この自由奔放さ、傍若無人さ、自分たちにはやりたいことは何でもできるのだというエリートの自負、これらはケインズ自身が共有しているものである。」 この悪戯事件の実行犯?6人のうちの3人がブルームズベリー・グループのメンバーだった。
 グループに新たにロジャー・フライというやや年長の男が加わった。彼もケンブリッジの出身で「使徒会」のメンバーだった。美術評論家で、それが中心になって、その当時イギリスではほとんど知られていなかった「後期印象派」展をブルームズベリー地区で開いた。これはこのグループがおこなった活動のうちで後世に残るものの一つである。
 その頃、ヴァネッサとクライブの夫婦関係はうまくいかなくなっていた。(精神病院に入院中の妻を持つ)フライとヴァネッサは親しくなっていった。フライはオメガ工房をつくった。室内装飾をふくめ美術を日常生活と結びつけようとするものであった。
 この頃のケンブリッジでは、すでにフェローも妻帯できることになっていたが、ムアもディキンソンも妻帯していなかった。妻帯していないフェローの多くは同性愛者であった。同性愛者であったリットン・ストレイチーはフェローになることに固執したが、それはうまくいかず、文筆の世界で生きることを決めた。フェローにはなれなかったが「使徒会」員であったので、そこで得た友人がリットンの生涯の伴侶となった。
 リットンとはきわめて相反する性格の持ち主であるメイナード・ケインズは、それ故にか親しい友人であり続けた。というかそもそもブルームズベリー・グループの中ではケインズは異質な人間で、世俗的な社交性とずば抜けた経済観念をもっていた。
 ケンブリッジを優秀な成績で出て、「使徒会」員でもあったレナード・ウルフは、父を早くに亡くして資産がなかったためセイロンという植民地にいかざるをえなかった。フェローにはそれなりの財産を持っているものしかなれなかったのである。6年半セイロンで暮らした後に与えられた休暇で帰国しときに、ヴァージニアと結婚することになる。ヴァージニアには神経症躁鬱病?)があり、1913年に睡眠薬自殺を図った。それは未遂に終わっているが、最後には自殺で生を終えている。
 1914年、戦争がおきた。このグループの多くが徴兵制に反対し、徴兵を忌避した。そういう中で大蔵省に入り、戦争に協力したケインズは異質であった。このグループの徴兵忌避はノブレス・オブリージに反するものとして、ブルームズベリー・グループの評判を悪くした。
 戦争が終わったころには、グループも終わっていたが、逆にその頃から、このグループは有名になっていった。それはグループの個々人がそれぞれの分野で成果をだすようになっていたからである。ストレイチーの「著名なヴィクトリア朝人たち」は1918年に刊行された。ケインズの「平和の経済的帰結」も1919年に刊行されている。このグループの一員とはいえないが、「使徒会」のメンバーの一人のディキンソンは国際連盟の組織作りに参画している。ヴァージニアも小説を発表しはじめている。しかし、それはもはやばらばらの活動であった。
 
 吉田健一の著作を残らず読んでいるわけではないが、ヴァージニア・ウルフについてはあまり書いていないと思う。ブルームズベリー・グループとその周辺で吉田健一にもっとも大きな影響をあたえたのはリットン・ストレイチーではないかと思う。「てのひらの肖像画」のヒュームやギボンの像は「ヨウロツパの世紀末」のそれと極めて近いと感じる。あるいは「メアリー・ベリー」の章にでてくるデフォン夫人とかホレス・ウォルポールの名前も「ヨオロッパの世紀末」や「ヨオロツパの人間」にでてきたはずである。篠田一士氏は「吉田健一のタネ本はリットン・ストレイチーウッドハウスといっていたが、ウッドハウスジーヴスものなどイギリスの階級社会というものを無条件の前提にしているわけで、「瓦礫の中」などは確かにその香りがするように感じる。
 ブルームズベリー・グループの一員のヴァネッサ・ベルの息子が書いた「ブルームズベリー・グループ」という本に、ウルフの「オーランドー」という奇妙な小説で、ウルフがもっとも愛したのが18世紀と彼女が生きた時代であることが示されていることがいわれ、また「クライブ・ベルがリットン・ストレイチーヴァージニア・ウルフと共通してもっていた18世紀への郷愁をふくんだ愛情」ということもいわれる。それは「宗教戦争ナショナリズムの戦争とにはさまれた休日の時代だったのだ」と。そこでは階級の間の緊張が比較的おだやか」なのだった。それに比して、「19世紀は野蛮」だったのである。
 このようなブルームズベリー・グループにかなり共有されていたであろう19世紀を嫌い18世紀を称揚するような見方は、ヨーロッパ19世紀を野蛮として否定し、18世紀ヨーロッパこそ文明の世紀だったとする吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」と非常に近いものであるはずである。氏がケンブリッジに留学した当時の西欧の知識人の(少なくとも一部の)間では吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」的な見方はかなり常識的なものですらあったのかもしれない。
 ただ日本が明治期以来輸入しつづけた西洋は19世紀ヨーロッパであったので、日本における西欧像は著しく19世紀西欧に傾斜している。それでわれわれには(少なくともわたくしには)「ヨオロッパの世紀末」がきわめて衝撃的であったということなのであろう。もちろん、ヨーロッパで正統とされている考えがわれわれにとっても正しいということにはならない。しかしいろいろな見方を知っていることは大事である。
 「使徒会」の主要なメンバーだったとされるディッキンソンは「交遊録」でも氏に決定的な影響をあたえたひとの一人とされている。「ディッキンソンと付き合っていると知識階級の人間というものが実際にいることがわかった。・・一般の知的な水準を抜いている以上はこと毎に、或は度重ねて一般に是認されていることに反対する立場に置かれることは覚悟の前の人間を指す」と。(それに対して日本の知識階級というのは「肝心の所で世論に阿って大向うの喝采を博すことを狙う輩」がほとんどなのだ、と。) ブリームズベリー・グループのしたことは、「一般に是認されていることに反対する立場」につねにあることだったのかもしれない。要するに、たくさんの書物を読み、それを自分の頭で咀嚼し、自分のものにしている人間が知識人なのであるが、知識人は孤立せざるをえない。「交遊録」の「河上徹太郎」の章で、「若くて教養がある日本人が口をきくのを聞いた最初」が河上氏に会った時だったといっている。「若くて」と書くのは「若くない人」であれば、牧野伸顕の名前などがあがるということなのであろう。
 ブルームズベリー・グループも当時の知識人の集まりで、知識人であるが故につねに少数派であったわけである。
 「交遊録」でディッキンソンの次にでてくるキングス・カレッジの直接の supervisor だったルカスの章で、吉田氏が描いているその当時の講義のスタイルは「深夜会」での議論をもっと密にしたようなもののように思える。ルカスはブルームズベリー・グループの多くのメンバーとは異なり、徴兵忌避などはせず、第一次世界大戦に従軍し、勇敢な兵士として戦史にも記載されているような人だったらしい。
 ブルームズベリー・グループの一員だったケインズを含めた数名のメンバーをD・H・ロレンスが非常に嫌ったことは一部には有名な話らしいが、わたくしはこのエピソードを清水幾太郎の「倫理学ノート」で知った。前意、少し詳しくそれを論じたことがある id:jmiyaza:20200117 。このことは、Q・ベルの「ブルームズベリー・グループ」でもかなり多くのページを割いて論じられている。ケインズの「若き日の信条」で回顧されているらしい。
 清水氏によれば、ブルームズベリ・サークルと呼ばれる人たちは「合理主義とシニシズムの絶頂に立っていた」のであり「高い塔に住んでいた。」 それは精神的貴族の閉鎖的なグループで、両親の身分と財産の上に築かれたものなのであり、そこにそのままヴィクトリア時代が生きていた。わたくしはブルームズベリー・グループヴィクトリア朝的なものに反抗したと思っていたので、この清水氏の言は意外であった。父が炭鉱夫であったロレンスにとってそれは、高嶺の花であると同時に非常に「いやらしいもの」でもあった。ロレンスから見ると、彼らの会話は「一瞬の感情の発露もなければ、一片一粒の敬虔な気持ちもないものなのだった。
 Q・ベルは、ロレンスが反発したのは、このグループの男性メンバーのもつ濃密な同性愛的な雰囲気にであり、それを見てロレンスは自分の中にもまたその性向があるかもしれないと感じ、それ故にこそ激しく反発したのではないかと推測している。いずれにしても、このケンブリッジのコレッジにある同性愛的な濃密な友愛というのは「使徒会」とか「グルームズベリー・グループ」について考える場合に無視できない要素であると思うが、吉田健一の留学記ではそれらのことはまったく言及されない。吉田健一の「健全さ」である。これも「人が裸でいるときには見ない」という姿勢なのだろうか(わたくしはそれを何かヒュームの「健全さ」に近いもののように感じる)。
 ストレイチーもケインズもフォースターも同性愛者であった。おそらくムアやディッキンソンもそうであったらしい。この当時のイギリスにおいては同性愛は社会的な禁忌であったことを考えると(フォースターは死ぬまでそれを秘し続けた)、秘密を共有するもの同士の親密さもあるであろう。しかもそのグループの中にフェミニズムのはしりの一人のようなヴァージニア・ウルフがいたことを考えると、ヴィクトリア朝道徳への反発というこのグループの旗印が、たんにその偽善性にむけられたということだけとはいえないようにわたくしは感じる。
 このロレンスの嫌悪をみて思い出すのが、チェホフの「退屈な話」での「いいかげんにしなさい。どういうつもりできみたちは、二ひきのがまみたいに座りこんで、自分たちの息で空気を腐しているんです。もうたくさんだ」とか、あるいは同じチェホフの「あなたはりっぱな教養も教育もおありで、とても潔白で、一本気で、ちゃんとした主義をおもちですけれども、それがみんな、あなたのいらっしゃるところ、どこへもところきわわず、一種むっとする空気や圧迫感を、なにかしらとてもひとを気まずくさせるような、見さげるようなものをもっていく結果になるのですわ」などといった部分である。これは両方とも福田恆存の「チェホフ」で引用されているものの孫引きであるが、福田氏の神輿がロレンスだったわけで、ロレンス的感性からみると、教養ある貴族の会話などみな「一片の敬虔な気持ちのないもの」に感じらてしまうのだろう。
 わたくしが吉田健一のいう「社交」というものに今一つ納得できないものを感じるのは、「社交」にはどうしても偽善という成分が混入することが避けられないように感じるからで、偽善がいやだなどというのはこちらが子供のままでいる証拠なのであろうが、しかしそんなことに気をつかうくらいなら家にいて一人で本を読んでいたほうが楽という気持ちはどうしても否定できない。
 吉田健一のことを、吉田茂の息子がいい気なことをいっているだけとみるひともすくなからずいると思う。だからこそ長谷川氏は吉田氏を上流階級の生まれとする清水徹氏の見解に反発するのであるが、ロレンスからは反発されるであろうような何かはもっていたのではないかと思う。吉田氏のエピソードの一つとして酒場にいる楽士さんにチップをあげるのを好んだというようなことをきくけれど、これもわたくしにはわからない話で、そういうくすぐったいことはこちらはとてもできないのである。生まれが悪いからなのだろうか。
 吉田氏はとんでもない貧乏生活もしたらしいが、その貧乏が氏の人生観を変えたというようなことはまったくなかったように氏の書いたものを見る限りは思える。「乞食王子」であって、乞食でいるときにも気持ちは王子様であったようである。やはりお育ちがいいのであろうか?
 これだけの準備をして、次は長谷川氏の「吉田健一」の第3章「二都往還」へゆく。
 

吉田健一

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ブルームズベリー・グループ

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