長谷川郁夫「吉田健一」(5)第4章「「文学界」出張校正室」 第5章「戦争まで」

 
 吉田健一の「交遊録」はそういうタイトルであるが一種の自伝でもある。そこで挙げられてられている友人は、牧野伸顕、ディッキンソン、ルカス、河上徹太郎中村光夫横光利一福原麟太郎石川淳、ドナルド・キイン、木暮保五郎、若い人達、吉田茂である。ルカスまでは留学までの人なので、帰国後は河上徹太郎からとなる。第4章では主として河上徹太郎、第5章では中村光夫横光利一が中心となる。
 予期せぬ留学からの途中帰国は祖父の牧野伸顕を驚かせたであろうが、祖父は健一の意を理解して、納得のいくまで猶予を与えてやろうと思ったのではないかと長谷川氏は推測している。今後、父からの援助を受けないという約束もなされたのではないか、と。自由には責任が伴うから。
 帰国して、暫くして母の従兄弟の伊集院清三という人を介して河上徹太郎を知ったとされる。講談社文芸文庫吉田健一著作には藤本寿彦という方によるかなり詳細な年譜が付されているが、帰国した昭和6年の次が昭和10年となっていて、その間が空白である。河上徹太郎のすすめでアテネ・フランセに通い、もともと暁星でフランス語は鍛えられていたためか短期間でフランス語の全課程をおえ、さらにラテン語ギリシャ語まで終えて昭和10年にそこを終えたらしい。この講談社文芸文庫の年譜によれば、氏が何らかの仕事についたのは、昭和18年国際文化振興会翻訳室が最初である(氏31歳の時)。昭和16年には結婚もしている。その間、翻訳などはあるがそれが生活を支えるに足る収入をもたらしたとも思えない。氏がどのように生活していたのかがよくわからない。親の援助をうけないのだとすると牧野家あたりが支えていたのだろうか?
 河上徹太郎の最初の文芸評論集の「自然と純粋」は昭和7年に刊行されている。健一氏帰国の翌年である。これを読んだことが吉田氏を小説志望から批評へと変えていったのではないかと長谷川氏は推測している。吉田氏自身の言では、横光利一の「機械」や「寝園」を目標として小説を書こうと思っていたが、同じ横光の「書方草紙」や「欧州紀行」を読んだことで批評の方に傾いていったのかもしれないと書いている。
 長谷川氏の本では、昭和11年の2・26事件での祖父牧野伸顕の襲撃(健一24歳)などのエピソードが挟まれて進行するが、氏の最初の刊行書である昭和10年(健一23歳)のポーの「覚書」の翻訳以外には目立った業績はなく、むしろ雑誌「文学界」の校正の手伝いが吉田氏の文学修行として大いに有効だったのではないかと長谷川氏は推測する。
 そしてその校正の手伝いの中で中村光夫と知ることとなった。中村氏は後年「驚いたのは、氏の持っている文学の観念が、いろいろな点で僕らのと異質なことでした」と回想し、自分にとっては文学の中心は小説であったのに吉田氏にとってはどんなものでも詩であるがゆえに文学であったのだといっている。「文学概論」の氏はすでに25歳の時に明確に存在していたのである。中村氏は「少なくとも外国文学について、僕よりずっと本物の素養を、ずっと金のかかるやりかたで身につけた人がいると、羨望の念を覚え」たとする一方(「少なくとも外国文学について」という留保がついているのは、日本文学はあまり知らないけれどということかもしれない。)「氏の偉さは、ここに体得した「文学」の観念の普遍性を信じ、いわばそれを身体のなかに生かしたまま、日本文学の渦にとびこみ、そこで長い忍耐の末、自分を表現することに成功した点」にあるのだが、その頃の氏が「自分にとっての外国である日本の現実のなかで、精神の平衡を保つのに苦しんでいたことも事実」で、日本で住むには精神の領域でも備えていなければならない知識がいろいろとあるのに吉田氏はそういうものに気づいていないようで、そういう「教養と無知の不思議な併存」ということを言っている。本物の知識は持つが世間知らずのお坊ちゃんであるということであろうか。そういう吉田氏は、大岡昇平からは「日本語ができなかった。全然坊ちゃんだしな。当時、酒が全然のめねえんだよ。そのくせみんなと酒飲んで文学の話をしたがる」といわれることになる。大岡氏から見ると「幼稚で珍妙なディレッタント」に過ぎなかった、と。
 「交遊録」の「中村光夫」の章に吉田氏と中村氏が散歩にいって、その時にたまたまみた池の蕭条たる有様が妙に記憶に残っている、ということが書かれている。これは「東京の昔」にもエピソードとして書かれていて、清水徹氏や丹生谷貴志氏などがあれこれ論じるネタになっているが、長谷川氏はここを示すだけで特に感想は述べていない。
 昭和13年に中村氏がフランスに留学する(この留学記が「戦争まで」として後に刊行されている)。留学で中村氏が吉田氏の眼前から消えた後は、長谷川氏は横光利一との交遊の方へと話をすすめていくのであるが、ここでの筆はあきらかに戸惑いをふくんでいる。それは「今日では顧みられることの少ない、悲壮な印象につつまれたこの作家」をなぜ吉田氏がかくも高く評価するのかがどうしても理解できないからなのだろうと思う。
 吉田氏は「横光さんといふのは、考へるのを止めることがない人間だつた。尤も、その頃の我々は皆さうだつたのではないだらうか。併しその辛さを日本の小説家の肌身に感じて一番やり切れなく思つてゐたのは横光さんだつたのかも知れない。その辺のことになると、それまでの日本の小説家といふのは考へない動物だつたと言ひたくなる」などといっている。
 何だかな言い方であるが、吉田氏によれば「横光さんは近代の文士だった」ということになるわけで、そうであるなら近代人=考える人ということになるのかもしれない。わたくしは横光利一のものをほとんど読んでいない。「日輪」とか「機械」とかは随分と人の意表をつくことを意識した小説に思えた。われわれが横光利一ときくと何か引いてしまうのは、その戦争中の言動とそれと平行して「旅愁」(わたくしは冒頭しばらくで抛棄のまま)がどんどんと飛んでもない方向にいってしまったということをきいているからで、そういう方向にはあまり考える人はいかないのではないかと感じるからではないかと思う。「交遊録」の「横光利一」の章で、健一さんは「頽廃と近代は同義語をなし、そこで精神はそれ自体の他に一切の支えも望みも奪われてそれ自体の働きに生き、この近代の豪奢と暗黒・・」といい、横光さんはそれを知るのにとどまらず「それを身に受けるとともに見詰めていた感じがする」とし、「ここで大ざっぱに近代と呼んでいるものに我々の中で最も悩まされのは横光さんだった」として、「近代というのは人間の精神を幾重もの壁で囲んだ世界史的に言って一つの特異な時代だった」といっている。「日本の小説家で最初に近代に正確に自分の現実を認めたのは荷風でもなければ芥川龍之介でもなく横光さんだった」というのである。「近代というのはいても立ってもいられない状態を人間の精神に強いることがある」のだ、とも。
 さらに吉田氏は「近代の袋小路という世界的な現象が消滅したのがこの前の大戦という世界的な事件による」というのであるが、「併しそれは今となってはであって横光さんがそこまで考えていた訳がない」とする。
 「今となっては」である。戦前あるいは戦中に、その先の世界がどうなるかわかっていたものは誰もいなかった。「近代」の中で多くのひとが悶々としていたが、その「近代」を消滅させたのはそれについて様々に考えていた人のなした仕事ではなく、第二次世界大戦で多くの人が死んだことによってであるとするのが吉田氏の実に特異な史観なのである。
 知識人のさまざまな右往左往を一切超越して、世界大戦という巨大な物理的な動きが近代が孕む問題を解決して(消滅させて?)しまった。しかし、それは結果論である。その渦中にあったものにとっては、横光氏の示した錯乱?のようなものはありえる一つの形であって、それを後智恵で批判するようなことは今がもう現代になっていることを理解できないものがすることというようなことが吉田氏のいいたいことなのだと思う。
 吉田氏の用いる近代という言葉、現代という言葉はわかりにくい。これは一般性のない氏独自の用法のように思われるが、吉田氏のあらゆる論に潜在する概念なので、なんとかとりつかないと吉田氏がいっているところが見えてこない。
 わたくしが吉田健一を読み出した大学はいってしばらくのころ(昭和43年頃)には、まだ「ヨオロツパの世紀末」は刊行されておらず、以前に刊行されたものは原書房版の全集で少しづつ読んでいたが(この全集には昭和42年刊行の「文学の楽み」は収められていなかったと思う)、新しく刊行されてくる本はたとえば「余生の文学」とかいった題のあまり元気のでない感じのもので、同じころでた「作者の肖像」も随分と素っ気ないタイトルに思えた。そこに「梶井基次郎」という文があり、近代ということがいろいろと論じてあった。わたくしが読み出したころ頭に漠然とあった吉田氏の「近代」はそれらを通じて形成された。
 「もし、我々が生きている今日の時代が現代であるならば既に過去になった近代というものの性格に就てどういう風に言えばいいのだろうか。・・兎に角思い浮ぶままに書いて見ると近代というのは人間の精神が凡ての拘束を脱した時代だった。・・このように枠という枠が外されることが自分がここにこうして存在しているということからもその確たる根拠を奪うことになる。・・もし無数のものが至る所に何れもそれと解る形でその位置を占めているという具合に世界が存在するならば一人の人間というものもその無数のものに加えられた一つのものに過ぎなくなることを免れない。/ 併しその一箇の人間が凡てを意識している存在であることも事実である。・・その為に人間は雁字搦めになるという結果を招いた。・・近代の無秩序な世界にあっては精巧に出来たものはそれ自体、秩序を思わせるものがある・・無秩序な世界に秩序を見出すのが意識の仕事であるということは世界の改変が意識次第であるというのと同じである。・・こうして近代人は世界との、或は意識する自分以外との一切との対決を常に強いられていた・・近代人はこういう生き方を強いられたのであって、それにはいいも悪いもなかった。・・近代という時代に生きるということはそれ自体には余り意味がなかった。・・その代りに作ることが人間に許されて・・見方によっては、意識するというのは生きることの正反対であって意識することは作ることである。」
 長い文章をこまぎれに引用したのではその文意を伝えられないことをおそれるが、まず感じるのが「暗い」ということである。そしてちょうどこれをひっくり返したのが、晩年の氏が描いた「明るい」世界であったのではないかということである。吉田氏の文業は「近代をどう克服するか」という方法についての氏なりの試みの報告だったのではないだろうか?
 上の文章で吉田氏が描く「近代人」の像を読んで、そこに何からの精神病理の像を感じ、近代人=病んだ人ととるひとも少なくないのではないかと思う。そこに描かれているのは全然ありがたくない人間像であって、誰でもなんとかそこから抜け出したいと感じるのではないかと思われる異常な状況なのである。
 以前、精神科医である計見一雄氏の「脳と人間 大人のための精神医学」という本を読んでいて、あるところで唐突に吉田健一の「時間」の冒頭の引用が始まる(p99)ので驚いたことがある。引用の後、計見氏はいう。「吉田健一氏の名作『時間』の美しい出だしの文章である。 /この本は人間にとっての時間についての、重要なことはすべて述べられている書物である。私にとっては一種の畏敬の感情の対象である。読書子は全編を読まれれんことを願う。一部を引用するのは内心忸怩たるものだが」といって、さらにいくつかの部分を引用し、「普通の暮らしの中で、これと同じような時間があればいいなと思う。日常がそういう時間で満たされたら至福の生涯といえるだろう。そういう幸福はどんな体験かと言えば、子供が夢中になって遊んでいる時、芸術家が創造に打ち込んでいる時、友達同士が話し込んで、夜の更けるのも忘れて気がついたら空が白みかけていたという時、自然とともにいる時。希有ではあるが、全然ないわけではないこれらの「時の経つのを忘れる」時間がそれにあたる。そういう時間がたまにあるから、この世は捨てたものもないのであろう」といって、「精神分裂病の人から、ほとんど決定的に奪われてしまうのが、かくの如き時間である」としている。
 「吉田健一頌」に収められた丹生谷貴志氏の「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」も精神科医中井久夫氏の分裂症(統合失調症)の発症過程を論じた文とからめて吉田氏を論じたもので、一部の統合失調症患者が発症の直前に経験することがあるそれまでの混乱と焦慮が一時消失して短時間であるが出現する安定して静謐な時期と吉田健一が晩年描いた世界が相同なのではないかといったことを述べていた。
 吉田健一がいったことは、氏のいう「近代」に安住するな、そこから抜け出すために各人が努めよ、ということであり、吉田氏なりの努力の方向をその著作で示したということなのであろう。世に健一ファンが多いのも、自分の内に「近代」の残渣があることを感じていて、そこから抜け出る道が氏の著作に示されていると感じるひとが多くいるためで、吉田氏の本を読むと、「近代」の迷妄から現実に抜け出すことのできた一人の生身の人間がそこにいることを実感できるからということなのだと思う。
 もちろん、「近代」から脱出する方法は数多あるであろう。そんなものはボディビルでもやれば消し飛んでしまうと嘯いていたひとがいたが、あんな死に方をしてしまった。
 飯島耕一氏の詩集「バルセロナ」に「川と河」という詩があり、三島由紀夫についての部分がある。「彼は にせものの軍服を着て/ 一切のテレビに反抗して/ 自滅した。・・彼は、正月の元旦のような気分が/ 一年中 ほしかったのだろう/ あわれな男。」
 吉田健一の「私の食物誌」にこんなことが書いてある。「兎に角、正月に他のものよりも早く起きて既に出来上がったこのおせちを肴に同じく大晦日の晩から屠蘇散の袋が浸してある酒を飲んでいる時の気持ちといったらない。それはほのぼのでも染みじみでもなくてただいいものなので、もし一年の計が元旦にあるならばこの気持ちで一年を通すことを願うのは人間である所以に適っている。」 健一さんも「正月の元旦のような気分が一年中ほしかった」のである。「あわれな男」なのだろうか? また「酒宴」にこういう部分がある。「本当をいうと、酒飲みというのはいつまでも酒がのんでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのはけっして本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間そうなるのかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止っていればいいのである。庭の石が朝日を浴びているのを眺めて飲み、それが真昼の太陽に変って少し縁側から中に入って暑さを避け、やがて日がかげって庭が夕方の色に沈み、月が出て、再び縁側に戻って月に照らされた庭に向って飲み、そうこうしているうちに、盃を上げた拍子に空が白みかかっているのに気付き、また庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね」と相手にいうのが、酒を飲むということであるのを酒飲みは皆忘れかねている。」
 飯島耕一氏は吉田氏とはまったく肌合いの異なる人で、吉田氏固有の語を用いるならば一生「近代」のなかにいたひということになるのであろう。「川と河」を書き下し?で引用してみる。「1 きみのみじめさは/ 内部に 大河をもっていない/ ということに/ つきる。// 言えることは/ きみのみじめさは/ 内部に 大河をもっていない/ ということだ。 2 この夏は一度だけ/ 川を見た/ 大泉から 池袋に行かずに/ 西武秩父行きに乗った/ まだ午前なので/ 一つの車輌に/ 三人くらいしかいない/ 窓からの風に/ この夏 ただ一度/ の涼しさを 味わった/ 山あいの川が/ 見えはじめた/ どこまでも 川はあった/ 自分のため だけに 川は流れている/ ほんものの 川だった/ 川は/ この夏 見たもので/ いちばん 立派な 存在(もの)だった。// 3 その川の ことを/ ときどき 思い出す/ このごろ 川が/ 気になる/ 内部に 川をもっている/ ような人に会わない/ まして 大河をもっている/ ような/ 人を見ずして久しい。// 4 水をのむと/ 渇きは 癒える/ しかし それでも/ 癒やされない 渇きといものがある/ その渇きだけは/ 確乎として 存在している/ どこへでも/ ついてくるのだ。」・・・まだまだ続くのであるが「11」で三島がでてきて「三島の死のあと/ きみは少しずつ 狂って行った。人の顔が見られない。/ テレビをきらっていては/ 生きては行けない/ (きみがじいっとがまんして/ テレビを見る練習をした一刻一刻)/ 日本中がテレビを囲んで 放心している。」ということになる。(飯島氏のこういう詩を読むと、すぐにエリオットの「荒地」を連想してしまう。現代の日本の詩人に「荒地」のあたえた影響は実に大きいものがあるのであろう。(ここは岩ばかりで、水はない。/ 岩があるばかりで水はなくて、砂の道が/ 山の中をうねつて行き、/ それも水がない、岩ばかりの山なのだ。/ 水があれば、我々は立ち止つて飲めるのだが、/ 岩ばかりの所では立ち止つて考へることも出来ない。・・吉田健一訳)
 多くの人が自分の中には「岩ばかりで、川が流れていない」と感じ、いくら水をのんでも「癒やされない」渇きがあると感じていて、吉田氏の中に「川が流れているひと」「大河が流れているひと」を見たのだと思う。飯島耕一の「おれ 万歳」という詩。「パリの地下鉄でひとりの子供が/ 肩からかけるズックのカバンに/ ヴィーヴ・ル・モア・・・/ 《おれ 万歳》/ とマジックの黒で描いていた。/ きみはその少年に/ しんからの好意をもった。」(Vive le roi(王様万歳)のもじりらしい。 Vive le moi ) さらにもう一つ「孤独」 「酔った三好達治は 全身で孤独をあらわしていた/ そこに さびしさの塊りがあった/ わたしは 三好達治に批判的立場にあったが、/ その孤独に対して/ 話しかけずにはいられなかった/ ただの二回だったが・・。」
 「三島の死のあと少しずつ 狂って行った」飯島氏は医師から「他人はきみのことを/ たえず意識しつづけることはできない/ きみはそれほど、 /自分を過大評価することはない―/」といわれ、「一年分のカルテだけがある小さな部屋で/ いつものようにきみの瞳(め)を真正面から見つめて/ 医師は ようやく治癒に向った/ きみに言った―/ もうきみと会うこともないだろう。・・」ということになる。同じ飯島氏の「ゴヤのファースト・ネームは」の末尾のほうに、「きみは また/ 時間を味わう ということを/ 知りはじめた。」という部分があった。
 近代では、「もし無数のものが至る所に何れもそれと解る形でその位置を占めているという具合に世界が存在するならば一人の人間というものもその無数のものに加えられた一つのものに過ぎなくなることを免れない。/ 併しその一箇の人間が凡てを意識している存在であることも事実である」と吉田氏はするのであるが、精神科医中井久夫氏は「成熟とは、自分が大勢のなかの一人であり、同時にかけがえのない唯一の自己であるという矛盾の上に安心して乗っかっていられることである」といっている。この見方からすると、近代人は「世界との、或は意識する自分以外との一切との対決を常に強いられていて、こういう生き方を強いられたのであって、それにはいいも悪いもないのであり、近代という時代に生きるということはそれ自体には余り意味がなく、その代りに作ることが人間に許されているのであり、見方によっては、意識するというのは生きることの正反対であって意識することは作ることである」などというのは成熟していない人間の言葉であることになる。「生活などは召使いにさせておけ」といったのはリラダンだっただろうか?
 三島由紀夫ファンにして吉田健一ファンであったが、三島の死後は健一さん一筋に転向した倉橋由美子氏の若いころのエッセイに「文学的人間を排す」というのがある。「私のいう文学的人間とは精神的小児」といい、「もっぱら人間の卑しい部分、弱い部分、女々しい部分、小児的な部分」に関心を持って、「普通なら恥しくてひとにいえないことを書く」のが文学的人間の特権と思っている人たちに倉橋氏は侮蔑の念を表明していた。だから、このような「文学的人間」の対極にある人として三島由紀夫吉田健一を敬愛するようになったのであろうが、倉橋氏が軽侮する「文学的人間」と、吉田氏がいう「近代」の呪縛の下で生きたひとがどのような関係にあるのかが問題である。
 「近代」という八方塞がりの時代に生きた人たちは、今からみればみな「精神的小児」だったということになるのだろうか。やはり吉田氏のいう「近代」はわかりにくい。なにより「近代」そのものを歌ったとして吉田氏が最大限のオマージュを献げる(何しろ「書架記」でラフォルグの「短編集」について「これを最初に読んだ時に経験したことはその後にも先にもないもので、こんなことを書いた人間もゐたのかと思ふよりも前世か何かで自分が書いたことをそれまで忘れてゐた感じだった」というのである)。しかし、ラフォルグを読んでわたくしがそこに感じるものが、吉田氏の描く「近代」と一向に結びつかないのである。確かにラフォルグに「倦怠」は感じる。しかし「焦慮」といったものいささかも感じない。
 ということであいかわらず「近代」はわたくしにはまだ焦点を結ばないままであるが、長谷川氏の本では、「批評」の編集を手伝ううちに野上弥生子などの仲立ちで健一青年は無事結婚することになる。だが時代は戦争にむかっていき、第6章「東京大空襲」、第7章「海軍二等主計兵」へと進んでいく。この戦争が「近代」を消滅させ、健一青年をも変えていく。
 

吉田健一

吉田健一

交遊録 (講談社文芸文庫)

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東京の昔 (ちくま学芸文庫)

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脳と人間-大人のための精神病理学 (講談社学術文庫)

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私の食物誌 (中公文庫)

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金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)

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わたしのなかのかれへ―全エッセイ集 (1970年)

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ラフォルグ抄 (1977年)

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