長谷川郁夫「吉田健一」(6)第6章「東京大空襲」 第7章「海軍二等主計兵」

 
 この2章は太平洋戦争中の吉田健一を描く。
 昭和16年5月吉田健一結婚。
 同年10月 母雪子逝去。乳癌。熱心なカトリック教徒であったため、関口の教会でミサ。
 この辺り、健一氏ばかりでなく父茂の戦争回避のための動きも記される。
 さて、12月8日。開戦の報は、多くの文学者・知識人に一種独特な感動と興奮を与えた、と長谷川氏は記している。
 「批評」の「編輯後記」に吉田健一は「我々の思想の空からは英米が取り払はれた」と書いている。「国民の隠忍は何も満州事変とともに課せられたのでなく、実に明治維新以来のものであることを我々は銘記すべきである。今日我々日本の国民が等しく頒つて居る感激と生気とは茲に生じて居る」とも。中村光夫もまた「ともかく痛快でした」と書いている。河上徹太郎も「今や国民は、ものを見る眼の純一さを獲得したといつていい。気兼ねもいらぬ。仮想された観念に仕へることもいらぬ。今日の日に生きる覚悟の真剣さだけに頼つて生きればいいのだ」としている。
 昭和18年から伊集院清三の計らいで国際文化振興会翻訳室に努め始める。吉田氏の初めての会社勤めである。このことを最初に知ったのは「三文紳士」という随筆集に収載された「満腹感」を読んだ時だったと思う。吉田健一に親しみはじめた頃はこういう随筆が一番おもしろかった。ここで、その一例として「満腹感」を少し見ていく。
 まず書き出しが、「人間は食っていなければ死んでしまうのだから、食わないで食った振りをしなければならない通人などというものになるには、特殊な技術を身に付けていなければならないのだろうが、食いしんぼうでだけはありたいものである。嫌でもしなければならないこと楽しんでやれた方がいいのに決っていて、食うのが人生最大の楽みだということになれば、日に少なくとも三度は人世最大の楽みが味える訳である。」 若いころは頭でっかちなことばかり考えていたので、まずこういうのが新鮮だった。
 続けて、「併しこれは平和の時の話で、戦争中は全くみじめなものだった。その頃は大家でなければ出版界が相手にしてくれなくなっていたので、仕方なく或る所に勤めていた。当時の配給では、昼の弁当に小さなお結びが四つしか作っても貰えなくて、女房が栄養価を上げようとしてこれを油でいためてくれるのだが、そういう加工が施してあるだけになお更そんな小さいのが四つでは腹の虫が納らなかった(実際、悲しいのを通り越して、何だかもう無念で仕方なかった)。同じ部屋にいた女の子が、吉田さんがお弁当を食べているのを見ているとほんとうにおいしそうだわ、オッホッホと言った時は、張り倒してやりたくなった。その四倍も五倍も食べたいのに、雀の涙の四粒で我慢しているのだから、ガツガツしているように見えなかったらどうかしている。」
 この「実際、悲しいのを通り越して、何だかもう無念で仕方なかった」というのには初読の時唸ったものである。その強烈な印象は今でも覚えている。吉田健一を信用できると思うようになったのは、こういうところを通してであったと思う。身体の感覚のこんな表現にはそれまで接したことがなかった。「英国の文学」の「如何に美しいものにも対抗することが出来る忍耐力といふことが、英国人の国民性に認められる一つの特徴であると言へる。或るものを美しいと見るにも力がなければならず、それを美しいと見た上で更にそれを自分のものにするには、力が一層に必要なのである」などといった部分と同じで、体全体で受け止めるとでもいった感覚を知った。(ところで、「その頃は大家でなければ出版界が相手にしてくれなくなっていたので、仕方なく或る所に勤めてていた」というのはいささか気取り?であって、戦争以前にも出版界が相手にくれる存在ではなかったことは長谷川著にも明らかである。自分のみじめを売り物にしないというのは吉田随筆の根本方針であるので、あえてそうしたのかもしれないが・・。)
 次に、ほとんど仕事のない勤め先をさぼって食べものを漁って歩いた話が続き、「一体、あの頃の我々は数字で言って、どの位腹を減らしていたのだろう。もしそういう計り方があるとすれば、零下何十度と言った数字が出て来るに違いない。これは「満腹感」という言葉が発明されたことによっても解る」と言って、表題の「満腹感」の話になり、「雑炊食堂」の話にうつる。そこで一ヶ所で雑炊を二杯食べて四カ所食べあるき、計八杯食べて、「雑炊は駄目だとやっと覚った」ということになる。「戦争中の我々は、或は少なくとも筆者一人は、餓鬼道に落ちていたらしい」とされる。それで戦中のみじめな話はやめようといって戦後の話に移る。それで「維新号」のわんたんとかの話になり、食べ物の店は「悠々と人中の孤独が楽しめるものでなければならない」といったことがいわれ、最後に、豪華本の限定版のような「本もの」の店(今ならミシュランの星がついているような店?)を揶揄して終わる。
 こういう話が身に沁みたのは、それまで「豪華本の限定版のような」ものばかりを文学に求めていたということがあるのだと思う。日常の生活と地続きになっていない本の読み方をしていることに気づかされた。
 さて、昭和20年3月9日夜の空襲によって自宅が全焼、蔵書もすべて焼ける。5月、吉田健一にも召集令状。海軍が陸軍と協定して全国から丙種の国民兵を駆り集め、農工隊として方々に送ることになったためで、準備期間は横浜の海兵団ですごすことになったのだが、しかし農工隊には組み入れられず、事務を担当する第百分隊に二等主計兵として配属された、と。なにか特別あつかいされたらしい。長谷川氏の記載を読んでもそのようなことになった理由が判然としないが、吉田茂の子であることと陸軍と海軍の対立が関わっているらしい。海軍大臣の米内光政は戦争早期終結を図っていたので吉田茂と通じていたのだろうか?
 終戦までのわずか3月であるがこの軍隊の経験が吉田健一を変えた、と長谷川氏はしている。尋常小学校とかの日本の教育制度の外で生きてきて「教養ある人間らしい人間」ばかりに囲まれて生きてきた氏が、はじめて“娑婆”を知ったのであり、それからは観念と現実世界が奇妙なバランスで溶け合うことなった、と。この百分隊は有名人や大物の息子といったひとたちばかりで構成されている“極楽分隊”ではあったらしいのだが。
 軍隊に入って、雲の上にいるのではない普通の市井のひとにふれることになったということなのだと思うが、普通に考えれば、近代の倦怠とか焦慮などとは縁もゆかりもない人と接することになったのだと思う。吉本隆明的にいえば「大衆の原像」に触れた? 吉田健一が自立した生活、自分の稼ぎで暮らしていくことを始めたのは戦後のことであると思うが、それも軍隊での生活が関係しているように思う。
 「三文紳士」の「満腹感」の前には「中村光夫」の項があり、その最後に、戦後「鉢の木会」が中村光夫福田恒存吉田健一3人だけだった時代に箱根に一緒に旅行した話があり、「牧歌的な旅行だった。福田君の人柄ということもあるが、中村君も、筆者も、戦争で体力がひどく弱ったと思っているうちに、いつの間にか大人になっていたようである。何れ我々も白髪になる時がくるのだろう」とある。吉田氏によれば、若いということには何もいいところはないが、ただ若さからくる混乱を乗り切るための体力だけはあたえられている。体力がなくなるということは、乗り切らなければいけない混乱もいつのまにかなくなっているということで、それが大人になるということとされるのであろう。戦争で吉田氏は大人になったのである。
 それともう一つ考えておいたほうがいいと思うのは、吉田健一というひとがおよそマッチョとかマチズモといった方向とは縁がなかったひとであるということで、河上徹太郎によれば「猫背で、手頸などに女のやうなしなを作る青年が、静々と入つて来た。彼の第一印象は、寒がりだなといふことであつた。足許にガス・ストーブをカンカンにつけたソファの上で、猫のやうに頸筋と尾てい骨を同じ角度の放物線に曲げて蹲り、短くなつた煙草を指先で舐めるやうにうまさうに吸い、そのままいつまでもうつとり座つて御満悦なのである」といったことになるし、中村光夫によれば「ひどくはにかみ屋の、身体をくねくねさせる人というのが第一印象」ということになる。そのほか、「異様に胸板がうすい」とか「運動神経がまったく駄目」とか、とにかくそういう人が兵隊にとられたらどういうことになるか、考えるだにおぞましい話である。小林秀雄とか「青山学院」とかはかなりマッチョへの傾きをもっていたのではないかと思うが、そういうところに本当のところはなじめなかった吉田氏が軍隊でとられ兵隊になって何を思ったかということは、吉田健一という人間の形成にとてはとても大きな問題であったのだと思う。
 さて、同じ「三文紳士」には不遇時代の氏を描く「貧乏物語」というのもあって、戦後原稿を書いてもなかなか金を払ってもらえないこと多かった時期、出版社に金をもらいにいっても払ってもらえず、すごすごと帰るときのことが書いてある。「そういう風に手ぶらで帰らなければならないのは、実に情ない気持がするものだった。それだけならまだいいのだが、幾ら情ながっても、それで金や食料がどこからか出て来る訳ではない。そうなるともう絶体絶命で、それを通り越すと今度は頭の中が寒気がするような、何だか却って楽しい心持になった。今思い出して見ても、ぞくぞくして来るのをどうすることも出来ない話である。金がないのだから、東京にいた所で仕方がないので早目に横須賀線に乗って帰ると、沿線の夕焼けした空が変に綺麗に見えたりする。或る時、それこそ自棄になって、その挙句に何か冴え返って悟りが開けた感じに満ちて鎌倉で降りてから、近所に住んでいる人の所に金と米が欲しいと言いに行った。何の理由もありはしないので、ただのゆすりとどこが違うのか決めるのは難しい問題である。併しその人は一晩中、酒を飲ませてくれた上に、こっちが言っただけの金と米を出して家まで来てくれた。こういう行為に対して何をなすべきか、これも問題である。」 ここの所もよく覚えている。なんというのだろう、生きることの肯定、生きることへの後ろめたさのなさ、とでもいうのだろうか? 「文学の楽み」の、サルトルが余り不景気なことばかり言うので、それならば何故生きているのだと新聞記者に聞かれた時、自分でも解らないと答えたのは今日での日本と違って余りに突飛なことに思われたので新聞種になった」というところもよく覚えている。
 「英国の文学」なども同じと思うが、生きているのがいいことであるからこそ文学もあるのだということを吉田健一から教えられたように思う。それまで親しんでいた日本の文学は、サルトル流お不景気な者が多かったようで、ついでに生きているというか斜に構えているというか、まともに生きてれば人生の空しさが自ずと見えてくるというような話ばかりだった。それで、吉田氏の論が実に意外というか新鮮だったのである。
 近所のひとにお米をねだりにいく話の後、「人間も他所の家に米をねだりに行くようになってはおしまいで、何とか一つここで発奮しなければならない所である」となって、吉田氏はある計画を思いつく。という辺りから話が怪しくなっていって、占領軍のところに出入りしていて知り合ったモリス大佐という典型的なアメリカのギャングに一流の鎌倉文士が集団で乗っている列車を転覆させてもらえば、自分のような二流以下の文士にも仕事がまわってくると思って、うきうきしてそれを頼みにいったら、サツの方はぬかりはねえんだろうなといったことをアメリカのスラングでいわれ、それで「人を殺せば、人殺しをしたことになるのを勘定に入れずにいた」のに気づき、あわてて大佐が哀れに思って恵んでくれた300ドルを口留め料に握らせた、というようなことになっていく。ここまで読んできて、はじめて米をねだりにいった話も創作かなと気づく仕掛けになっているのだが、随筆で深刻で暗くなりそうな話も、こういう法螺話で空気を濁らせないのが氏の流儀でああった。
 ついでに「三文紳士」には「家を建てる話」というのもある。「ベスト・セラアを訳してくれ」と出版社にいわれ、そのベスト・セラーが「何でも、戦争中に英軍の海軍が船団の護送に活躍する話で、スリルはあるし、エロでグロで、文学の香り高く、猛火に包まれた甲板に立って、四角関係の恋に悩む彼は何をしたか」というのはモンサラットの「非情の海」のことかと思うが、それの収入を当て込んで家をたてようとするが、思ったほど本が売れず苦労する話である。そこに工事の関係者が何かというと「貴方は変っていらしゃるから」と二言目にはいったと書いてある。文士は変わっているからお金のことなどは解らないでしょうという意味だなのだと。おそらく青年時代は、本当にお金のことなどは解らない人間であったであろう吉田健一は、こういうお金の苦労とともに普通のひとになっていったのだろう。この「三文紳士」には随分といろいろなことを教えられた。昭和三十一年の刊行である。
 いつの間にか戦後の話になってしまったが、戦後については第8章の「宰相の御曹司」以下であらためてもう一度考えてみることとして、ここで見ておきたいのが、開戦直後の「我々の思想の空からは英米が取り払はれた。国民の隠忍は何も満州事変とともに課せられたのでなく、実に明治維新以来のものであることを我々は銘記すべきである。今日我々日本の国民が等しく頒つて居る感激と生気とは(ここ)に生じて居る」といった吉田氏の言である。
 有名なというか悪名高いというか開戦後半年くらいで行われた「近代の超克」という座談会がある。これは河上徹太郎の主導で行われたものかと思うが、河上氏に「近代の超克」という言葉を提供したは吉田健一だったのではないかということをいっていたかたがあった(誰であったはか失念)。その頃、河上徹太郎のそばにつねにいた吉田健一が「近代の超克」ということをしょっちゅう言っていて、それを河上氏が座談会のテーマにしたのではないかというのである。
 ブルマらの「反西洋思想」では、「近代の超克」での「近代」が「西洋」を指すことは明かだが、「西洋」も「近代」同様に定義しがたい概念で、この座談会の出席者も「西洋のことが気にくわない」ということだけはわかっていたが、西洋の何が気にくわないのかはよくわかっていなかったといっている。一義的には西洋は科学であり物質であり、それに対抗する東洋?は精神といったものに通じる何かなのであろう。しかし、吉田健一がそのころ言っていた近代は倦怠であり焦慮であったのだから、科学とか物質とかとはまったく関係はない。それでも近代が飽和とか行き詰まりといった言葉と関係したものとして捉えられていたことは間違いないはずで、袋小路にはいっている「近代」の脱出の方向が開戦で見えたように思えたということはあるのではないかと思う。
 しかし戦中の氏は戦意高揚といった方向とはまったく縁がなかったはずで、「青春」の観念性の自覚という方向に戦時の体験は働き、それが氏を解毒していったのではないだろうか。「観念と現実世界が奇妙なバランスで溶け合うことなった」と長谷川氏はいうのだが、もしも、観念=近代、現実世界=現代、とすると近代と現代が併存するという奇妙なことになってしまう。吉田氏の論がわかりにくいのは、「近代」というのが氏の若い時においては現実の世界であったとするかなり強引な立論(議論A)と、氏の若い時代の未熟と混乱が「近代」においては必然であったとして肯定されてしまう議論(議論B)が並立しているところにあることに由来するのだと思う。戦争前の人間の誰も彼もが梶井基次郎になったわけではないわけで、軍隊にいってみればそこには一人の梶井もいなかったわけである。もっともその時代においてもっとも時代へも感受性に富んでいた人間が梶井になったという議論はありうるし、事実それに近いことを吉田健一も言っていたように思うが、しかしその頃の吉田氏は一篇の「檸檬」も書けず、ただラフォルグを読んで陶然となっていただけの青年だったわけである。ラフォルグなど軍隊にいけば何の価値もない。
 しかし吉田氏の凄いところは、そうではあっても氏がラフォルグを抛棄せずに自分の核として持ち続けたことであり、ルーカスからの教えを自分の根として堅持しつづけたことであり、何よりも生まれもった言葉への感受性への自信も失わなかったことにあるのだと思う。氏は長いこと眼高手低のひとであった。しかし己を恃むことについては一貫していた人であった。
 わたくしは吉田健一の文業の根底に「自分の生を矮小なものとしない」という意思のようなものがあると感じる。その意思によって氏の修行時代の不毛も近代の必然として肯定されてしまうアクロバットがおこなわれることとなり、結果として氏の「近代」という言葉がとてもわかりにくくなっているのではないかと思う。氏のいう「近代」は吉田氏一人のためにあればよかった用語なのであり、氏は自己説得のために「近代」ということを語り続けた。そしてまた氏のいう「現代」もまた氏の自己説得のための用語であったのではないかと思うのだが、それはもう少し先でまた検討することになると思う。
 

吉田健一

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三文紳士 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

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文学の楽しみ (講談社文芸文庫)

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英国の文学 (岩波文庫)

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反西洋思想 (新潮新書)

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