長谷川郁夫「吉田健一」(8)第10章「早春の旅」 第11章「酒中に真あり」

 
 40代前半、ようやく少し世に認められるようになってきた時代の吉田健一を論じる。
 
 昭和27年 四〇歳。
 二冊目の著書「シェイクスピア」を刊行(一冊目は「英国の文学」)。
 これに最も深い共感を示したのが福田恆存であるとされる。また福原麟太郎もまた「シェイクスピア」を賞賛した。
 長谷川氏は「吉田さんは戦中・戦後の十年を経て、その文学において、ようやく“大人”の域に達することができた」という。
 また「あまカラ」に「満腹感」を掲載するころから、食べることと旅することを書く随筆家としての吉田氏がみとめられていく過程が示される。
 石川淳との交遊も描かれるが、吉田氏が本当に石川淳を評価するようになったのは昭和29年刊行の「夷斎清言」からであろうと長谷川氏は推測する。そこに吉田氏は「文明人」であり「文章家」である人間を発見したのだ、と。「小説を書くといふこともする文章家」を石川氏にみたことが後年の小説家・吉田健一の誕生に深甚な作用をおよぼしていることが窺われる、と長谷川氏はいう。
 
 昭和28年 四一歳。
 家を建てる。その過程は翌年に発表された「家を建てる話」に書かれている。
 英国外務省情報局の招待で、池島信平河上徹太郎福原麟太郎とともに一ヶ月弱ジャーナリストとしての資格でイギリスへ。「英国の社会施設その他の視察」が目的。敗戦後いくらもたっていない時期の英国の対日感情は悪かった。この英国訪問がなぜ実現したのか長谷川氏にもよくわからないという。この4人がみな英国好きで、吉田健一サンフランシスコ条約に調印した日本の首相の息子であることを除いては、と。
 この旅行中、吉田健一はご機嫌が悪かったらしい。英国側は戦時・戦後の社会主義的施策が成功していることを宣伝するという意図があったようで、吉田氏も文士として招待されたわけではなく、むしろ宰相の御曹司として招待された気配さえあり、面白くないということがあったらしい。それでも訪英したのは、恩師のルカス先生にあえるからということであったらしい。
 もっともこの英国訪問から名品「ロッホ・ネスの怪物」が生まれている。わたくしはネス湖にはいったがもちろん怪物などは見ておらず、それを脚色したのだと思っていたら、ネス湖にいくことさえしていないらしい。大した創作力である。ここに長谷川氏は内田百間に近い何かが吉田氏にも認められることを指摘している。
 秋に初めての講演旅行。
 冬「国籍のない大使の話」を発表。吉田氏のGHQもの?の嚆矢。
 
 昭和29年 四二歳。
 「小林秀雄文庫」の全巻の解説。
 灘の菊正宗の工場を見学。木暮保五郎を知る。
 埼玉県の児玉町に神西清中村光夫三島由紀夫らと遊ぶ。そこから名品「或る田舎町の魅力」が生まれる。この随筆を最初に論じたひととして篠田一士が紹介される。
 最初の随筆集「宰相御曹司貧窮す」(私家版は「でたらめろん」という題)刊行。評論集より先に随筆集がでることになった。「宰相御曹司貧窮す」というのはいかにもという題で出版社が売るためにこの題にこだわったらしいが、氏が私家版につけた「でたらめろん」というのもなかなかの題で、随筆集なのに「でたらめ」なのである。この集におさめた文の嘘の含有量は少ないもので5%多いものでは80%などと書いている。
 「ビールの王様コンクール」に出場、ビールを大量に飲んだあと口直しにウイスキーとブランデーを大量にのんで吐血、胃潰瘍で手術したらしい。これ以降、大食漢吉田健一は普通に食べるひとに変わったらしい。
 このあたりでドナルド・キーンとの交遊も描かれる。キーンもケンブリッジで研究生活をおくったことがあるらしい。フォースターとも親しかったらしい。長谷川氏はキーンの吉田健一理解は必ずしも十全なものではなかったと思っているようである。
 この年、吉田内閣総辞職。それに関係して政治にかんする論も発表するようになり、以後、社会評論や時評も書くようになる。
 この年、福田恒存の「平和論の進め方についての疑問」が発表されている。
 
 昭和30年 四三歳
 「酒宴」発表。これが作家吉田健一の誕生であったとされる。この頃の氏は「英国の文学」に続くものとして「英国の近代文学」を書くことを目標としていたらしい。
 新潮社の新田けい氏の依頼によって書かれ「新潮」に連載された「東西文学論」が新潮社・一時間文庫の一冊として刊行された。吉田氏はじめての評論集。「新潮」の連載は5回で中途で打ち切られたらしい。それで5人の文学者の外遊をあつかったエッセイを加えて、一冊の本の体裁を整えたということのようである。
 氏のはじめての評論集がなぜ連載が途中で打ち切られたのかというと、明治期に日本の文学者が苦心して作り上げた日本語さえ残れれば、彼らの作品など全部なくなっても誰も困らないといったような過激なことを書いたかららしい。外国かぶれの文学者がする人目をひこうとして書いた暴論といったようにとられて反感をかったらしい。ほとんど何の反響もなかったらしい。福田恒存を応援する保守反動とみられていたことも立場を悪くしたと長谷川氏は推測している。この時期、日本は、そして日本の文壇は政治の季節のなかにいたと。
 この「東西文学論」を早くから称揚したひととして篠田一士が紹介される。「交遊録」では篠田一士氏が「名文を書くとはまだ言つてゐない」とされている。わたくしは原書房版「吉田健一全集」で吉田健一に接しだした人間なので原書房版の全巻に解説を書いていた篠田氏の吉田健一観にかなり大きく影響されていると思う(あるいはいたと思う)。で、篠田氏の文章を考えると、篠田氏という人が前に出過ぎていると感じる。語られている吉田健一の姿より語っている篠田氏の顔が見えてしまうのである。あるいは自分の文学観を論じるだしとして吉田氏を使っているという印象がぬぐえない。だから何かせわしい感じがして楽しめない。その篠田氏との関連でその友人としての丸谷才一氏も紹介される。
 また「東西文学論」に魅了された人として磯野宏氏の名前があがる。磯野氏は後に吉田健一の英文集「Japan is a circle」を「まろやかな日本」として訳したひとである。
 随筆集「酒に呑まれた頭」刊行。

 ここに書かれている時期になって吉田氏はようやく本を少しはだせるひとになっていく。しかしそれは本来氏がめざしていたであろう批評文を集めたものではなく、随筆家としての本なのである。
 しかし随筆を書いていくうちに文章を書くという点で評論・批評を書くことが変わりはないことを得心していったこと、随筆で読者にとどく文章を心がけていくうちに批評の文も自ずと読むひとを意識したものになることによって。文学者としての吉田健一が形成されていったと長谷川氏はしている。
 わたくしが原書房版の「吉田健一全集」で氏の書くもので一番ぴんときたのは随筆の類で、「文学概論」とかはよくわからなかった。それでは随筆の何が面白かったのかというと、そのころわたくしが抱いていた考え、あるいはその頃わたくしの周囲で当然とされていたこととあまりに異なることが書かれていて意表をつかれびっくりし、氏からそれまで自分が持っていた見方とはまったく異なる見方があることを教えられたということが大きいのだろうと思う。
 それは一体何なのかというと、今から思うと、「英国的な何か」とでもいうしかないものであるような気がする。それでは「英国」の反対に位置するものは何かといえば、これも今から思えばであるがドイツ的とでもいうほかない何かである。
 昭和20年代の日本は政治的な季節の中にいたと本書でもされているが、その政治とは端的にはマスクス主義であり、それはドイツの系譜なのである。
 吉田健一「英国に就て」所収の「英国の文化の流れ」という文に以下のようなところがある。「英国人が文化というようなことを余り考えないのは、そういうものが幾らあってもいずれは死ななければならない我々にとって、どれだけの意味があるかという観念がそこに強く働いているからである。・・英国人はやがて過ぎ去る我々の命をはかないと見る代りにこれに執着し、生きる喜びをこの地上に生きているものとしてすべてに優先させる。またそれと一体をなしているのが、もっと本式な英国人の絶望、或は厭世観、或は現実主義で、いずれは死ぬ人間であっても死ぬまでは生きていなければならず、それ故にそれまではただ堪えていなければならない。」 つまり「人間は生まれてその一生をこの世で送って死ぬものなのだ、という認識に徹底している」というのである。それは「享楽主義」と呼ぶこともできるが、「酒色に耽ったところで死が近づいて来るのを少しも遅らせるものではないことを充分に知って、それが常識になっている享楽主義なのである」といっていきなり話が水洗便所の話になる。これはエリザベス朝の時代に発明されたものなのだそうで、その百年後にできたフランスのヴェルサイユ宮殿にまともな便所がなかったこととくらべると英国のものの考え方がわかるというのである。だから英国の文化でもっとも発達しているのが文学でそれは言葉が生活と深く結びついたものだからで、それにくらべると絵や音楽が英国ではあまり発達していないのは、それがそれ自体で成立しうるものである点で、言葉にくらべて生活との結びつきが少ないからという。
 吉田健一は随筆を書くときに上に述べているような英国人の目でその当時の日本と日本人を見て、そこに感じるずれをただ書いていったのではないだろうか。では吉田氏はどこでそれを学んだのだろう? 6ヶ月のケンブリッジで? あるいは「英国の文学」を書くことによって? しかしそういう英国と英国人はすでに「英国の文学」に書かれている。それならば、幼児からの外国生活体験なのだろうか?
 福田恆存の「平和論に対する疑問」もおそらく吉田氏と同じ路線からの発言である。そのような単なる違和感を書いただけで保守反動といわれたのであるから、当時の日本のがいかにおかしかったかということである。(いまでもまだおかしいかもしれない。) この当時、内灘闘争というものがあり(朝鮮戦争で砲弾の需要が増した米軍が石川県の内灘村に砲弾の試射場を作ろうとして広範な反対運動がおきた)基地問題が議論されていたのに対して、基地があることによってそこに生じる様々な問題を、「基地問題の根底には安保条約がある、安保条約の根底には冷戦という現実がある。冷戦の根底には資本主義対社会主義の対立がある」という方向で議論をすすめて、冷戦の問題が解決しなければ基地の問題も解決しないという方向の議論はおかしいのではないか」というようなことを述べたものである。要するに基地の騒音問題もその根底には資本主義対社会主義という対立があり、世界が社会主義体制にならない限り基地問題の解決もないといった議論はおかしいのではないかということを言ったもので、「先日の「平和論の進め方にたいする疑問」にした所で原稿料稼ぎに少し枚数を多くした感想文であり、それが所謂、知識人階級の手に掛かると「福田提案」などとものものしくなるのだから、実際、こういう連中は早く消えてなくなればいい、とこっちも思うのである」(吉田健一福田恆存」 「三文紳士」所収) 福田氏にいわせると、全世界が社会主義体制にならない限り、個々の場における問題を解決することには意味がないという議論は変ということになるのだが、その当時においてはそういう論は小数で(今でも?)、地上に天国が出現しうるのであり、その天国になるまでは何をしても無駄という態度は英国的感性からいえばありえないことになるわけである。
 わたくしが強烈な印象で覚えているのに吉田氏の「文句の言ひどほし」所収の「平和を愛しませう」という文があり、そこに「平和とは何か。それは自分の村から隣の村に行く道の脇に大木が生えていゐて、それを通りすがりに眺めるのを邪魔するものがないことである。或は、去年に比べて今年の柿の方が出来がいいのが話題になることである」というところがある。初読のときにあまりに奇矯なものいいに思えて理解できなかった。これを読んだ当時、大学生の時であるが、当時学園闘争(紛争)というものがあり、平和勢力と戦争勢力といった言葉もあり、要するに平和勢力とは社会主義陣営、戦争勢力とは資本主義陣営(当時の言葉でいえば米帝国主義)のことであり、平和とはほとんど社会主義のことだったわけである。おそらく平和憲法という言い方もその用法に準じているわけで、戦争という悲惨は資本主義の体制の国が存在する限りは根絶できず、ただただ全世界が社会主義体制になることによってのみ実現できるといったことが大まじめで論じられていた。
 この当時の吉田氏の随筆の根底にあるものは生活という言葉と通じる何かだったのだと思う。それは文学と通じるところがないことはないにしても、言葉にかかわる文学と、生活にかかわる随筆との関係は氏の中で充分に混然一体となったものではなかったように思う。
 

吉田健一

吉田健一

英国に就て (ちくま文庫)

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三文紳士 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

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