長谷川郁夫「吉田健一」(終) 第16章「われとともに老いよ」

 
 「本当のような話」「金沢」から死までの晩年5年の吉田氏を描く。
 
 昭和48年 61歳 (26歳) 1973年 《25歳》・・すでに小澤書店店主として出版人であった著者長谷川氏の年齢。わたくしより一歳下のようである。
 1月 「本当のような話」刊行。
 3月 「文藝」に「金沢」一挙掲載。
 4月 「海」に「東京の昔」の連載開始。
 6月 「ユリイカ」に「覚書」連載開始。
 7月 河出書房新社から「金沢」刊行。
 同月 「文明に就て」刊行。
 8月 「書架記」刊行。
 10月 「ヨオロツパの人間」刊行
 
 昭和49年 62歳 (27歳) 1974年 《26歳》
 「文藝」に「旅の時間」連載開始。
 3月「東京の昔」「交遊録」刊行。
 5月「すばる」に「埋れ木」一挙掲載。
 7月「ユリイカ」に「詩について」連載開始。
 10月と11月に「ポエティカ」2冊が長谷川氏の小澤書店から刊行。
 12月「新潮」で「時間」連載開始。
 
 昭和50年 63歳 (28歳) 1975年 《27歳》
 「Japan is a circle」ロンドンで出版。
 1月「本が語ってくれること」刊行
 6月「言葉といふもの」刊行。
 7月「詩と近代」 8月「ラフォルグ抄」 長谷川氏の小澤書店から刊行。
 8月「ユリイカ」に「昔話」連載開始。
 9月「旅の時間」刊行。
 11月「すばる」で「思ひ出すままに」連載開始。
 
 昭和51年 64歳 (29歳) 1976年 《28歳》
 4月「時間」刊行。
 8月「ユリイカ」に「変化」連載開始。
 9月 「定本 落日抄」 長谷川氏の小澤書店から刊行。
 
 昭和52年 65歳 (30歳) 1977年 《29歳》
 1月「新潮」で「読む領分」連載開始。
 5月夫人とともの英国旅行。風邪から肺炎症状。
 7月3日 帰国。
 7月14日 聖路加病院入院。
 同23日退院。
 8月3日 自宅で死去。
 8月4日 無宗教のかたちで通夜。5日密葬。
 
 これを見てもわかるように晩年の吉田氏は実によく書いている。何か憑かれたようにというと語弊があるのかもしれないが、尋常ではない印象がある。
 吉田氏は「ヨオロツパの世紀末」を書くことで、それまでにはなかった何かを自分のものとしたのだと思う。今までの読者層とは別の読者層に語りかけるべき主題を我が物とできたと感じたのではないだろうか。これは余生での繰り返しではない主題で、作者にとっても読者にとっても《新しい》ものであった。タイトルこそ「ヨオロツパの世紀末」であるが隠れた主題は日本の西欧受容であり、現在の日本に広く行き渡っている歪んだ西欧の像である。そしてその歪んだ西欧の像がわれわれにもたらしている《生の歪み》(あるいはその歪んだ西欧像は日本においてだけでなく、西欧の文化が行き渡っていることろであればどこにでも見られるものであるのかもしれないわけで、そうであるならば世界のどこにでも見られる《生の歪み》)のよってきたるところとそれへの対応を吉田氏は見出したと感じた、それを述べたのが「時間」であって、これは文学とは何か、あるいは文学の楽しみとはどんなものかといった主題とは違って、はるかに根源的で普遍的な主題であるので、自分でも信じられない思いで、だからこそそれは繰り返し書いて絶えず確認する必要があった。晩年の多作は豊穣というのとも何か趣が違って、切羽詰まったような、追い立てられるようなせわしさがあるように、わたくしには感じられる。
 「金沢」はその時間論の小説版で、「瓦礫の中」や「絵空ごと」あるいは「本当のような話」とは明かに異なるもので、吉田氏がいう「お小説」ではなくてもっと真面目に真剣に書かれている。そして真剣である分、余裕がなく遊びごころも感じられず、楽しめない。わたくしは刊行当時すぐに購入して読めずに挫折、その後何度か試みて駄目で、ようやく数年前に入院した時に通読したが、印象は変わらなかった。これは幻想小説などといわれるけれども、もう克服したつもりであってもしつこく甦ってくる《近代》を殺す話なのではないかと思う。
 とすればこれは「瓦礫の中」や「絵空ごと」などとは違って、読者のために書いた小説ではなく、なによりも自分のために書いた小説で、そういうものを読まされても読者は楽しめない、とわたくしは思うのだが、一般には氏の小説のなかで最高のものとするひとが多いようである。氏の小説のなかでこれがもっとも力を入れて真剣に書かれたものであることは間違いがないが、小説というのは真剣さよりも余裕から多くの実りがえられるのではないかと思う。その後に書かれた「東京の昔」と「埋れ木」の二作はいわば、東京の昔と今であって時間と場所という人間の生の二つの側面がこの三作で扱われることになった。
 学生時代に小澤書店を設立した長谷川氏は吉田氏の晩年に直接接し、その著作のいくつかを出版し、とにかく氏に心酔していたらしい。「ただ吉田健一という「人間」の魅力に痺れていた」のだという。吉田氏の文学観からいえば作品がすべてであってそれを書いた人間の穿鑿などは無用ということになるのではないかと思うが、やはり本人の謦咳に身近に接していれば、なかなかそういうわけにもいかないのかもしれない。
 この最後の章でも長谷川氏は晩年の吉田氏の著作のところどころを引用し感想を述べるのであるが、それは批評というよりもただただオマージュである。
 たとえば「覚書」冒頭の「何かしなければならないといふ考へが余り昔からあつたのでそれが凡そもの心が附いて以来のことといふ気がしてならない。どうしてさうなのか、或は今からすればさうだつたのか、又誰にもあることなのか例外なのかはその考へに憑かれてゐたことの方が強くて最近までそのこと自体に殆ど注意を向けたこともなかつた」という文について、「吉田さんの生真面目な性質と、強調するなら自らの生に対するひたむきな態度の一端が窺える」と書く。
 吉田氏のその文は「何でもいいから何かするに価することをしなければならない」という問題をめぐって展開していき、それが「さういふことをしてゐる際にも時間はたつて行つた」ということから「時間」の問題と結合されていくのであるが、「何かしなければならない」というのは吉田氏の論からは明白に「近代」の心理であって、「最近まで」というのがいつまでを指すのかは不明であるが、いずれにしても「近代」の問題が吉田氏の中で決して解決済みの問題ではなかったことを示すのではないかと思う。
 「近代」の問題は「生活」という形、あるいは端的に「生きる」ということで暫定的に解決されていたのだと思われるが、それが決して充分ではなかったからこそ「時間」の問題がそれを補完するものとして浮上してきたのだと思う。
 ここで新潮社の吉田健一集成5の月報にある丹生谷貴志氏の「獣としての人間」をとりあげてみたい(この月報には長谷川郁夫氏の「ネッシーの骨格」も収められている。丹生谷氏はその「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」で、ここで長谷川氏が引用している「覚書」の冒頭を異様な文章とし、そこに「焦り」を見るひとである)。「獣としての人間」で丹生谷氏は「すべてを喪失すること、或いは「使い切ってしまうこと」これが吉田健一のモチーフであったと言ってもよい」といい、すべてとは観念や理念のこととする。「吉田健一の特異さは、観念や理念の完全な喪失が絶望としてではなく「人間の取り戻し」として捉えられる点である。」「吉田健一はあらゆる理念を喪失して「獣」となった人間の中に十全な「人間」の姿を認めるのである。」「無感動で正確な「自然」の中にそれ自身の最低属性にまで還元された「獣」としての「人間」が現れる・・・。」「そしてその状態を、如何にも逆説的だが、吉田健一は「文明」と呼ぶのである。」
 「覚書」には「戦後の日本では人間が動物でなくなつてゐるらしい」ということを論じた文もあり、そこには「人間以外の動物は純粋に時間とともにあると言へる」とあり、「人間といふのは過去を振り返り、これから先のことに気を遣つて現在の時間にゐることが稀にしかない」というヴァレリーの言葉も紹介されている。「動物はただ生きてゐるのを望み、或は生きてゐるのを続けるのを自然のことと心得てゐるに過ぎない」ともされる。吉田氏が「時間」で述べていたのも、人間も他の動物のような健全な時間を生きろということであったのだと思う。
 吉田氏が亡くなった時のことはよく覚えている。訃報は確か新聞の一面に出た。「あらら」という感じと、この人新聞の一面に出るひとなのかなという感じを同時に持った。吉田氏の作品は吉田氏という風変わりな人の肉体が裏打ちしているように感じていたので、その死によって肉体が失われるとリアリティを喪失し、段々と読まれなくなるのではないかとその時には感じた。事実そのような感じに一時はなったが、そのうちにどういうわけか復活し、作品の集成が出、著作集が刊行され、かなりの作が文庫化された。そのような死後の評価の変遷のようなことはこの長谷川氏の本では何も述べられていない。
 (ところで、吉田氏の死因は何なのだろう? 公式には肺炎とされているが、死因の公式発表というのが当てにならないことは医者としてよく知っている。あれだけの愛煙家であったのだから肺癌なのだろうか? 今時肺炎で死ぬだろうかということもあるし、聖路加に入院していて退院したばかり、死の翌日に通夜、その翌日葬儀というのも随分と手回しがいい。もういかんともしがたい病状であることが入院で確認され、自宅での死を望んだ結果としか思えない経過である。)
 長谷川氏は出版人であったひとで、吉田氏に惚れ込んだひとである。どういうわけか吉田氏は信者を生むひとのようで、そういう人たちの存在が文学者吉田健一を作っていったことが本書を読むとよく理解される。吉田氏の何が信者を生んだのか? 「ハムレット異聞」とか「英国の文学」とか「文学概論」とか「文学の楽しみ」、さらには「酒宴」といった作品がまず第一にあずかって力があったことは間違いないであろう。それと同時に吉田氏が日本の文壇といったものとはどうにも混じりようのない特異な人であったこともまた大いに力になったに違いない。
 吉田氏の死後、中村光夫氏が「アメリカって国が存在することを、黙認してやるっていったような調子だったねえ(笑)」といっていたのだそうである。丸谷才一氏にいわせると「ニューヨークに、何とかというバーがあって、非常にいいバーである、こういうバーがある以上、アメリカ文化というものは、何か見こみがある(笑)そういう話なんです。つまり一つのバーの付属品として、一国が存在するんだな(笑)。」ということになる。なんだか滅茶苦茶な話で、現代世界でアメリカを無視した論などありえないのに、そういうことを平気でするところが吉田氏の吉田氏たる所以であったのであり、それが多くのひとを引きつけたのであろう。
 丹生谷氏は、吉田氏を観念を捨て去ることに文明を見たひとであったという。
 ここで唐突であるが佐野洋子氏の文を引用したい。「私はそうは思わない」から。
 「男ってどんな生き物だと思いますか」という問いに答えて、「男って、生きる根拠ってものが自然にはわかんないもので、アダムの昔から、共通な幻想というか、観念とかいうものを必死で作り上げて、そのわく組みの中でそのわくをくずさない様に、世界中の男が手を組んで戦っているという感じがします。それをとっぱらうと、たちまち、スコンところがって、地震でつぶれた家みたいにぺっちゃんこになる。ならないために又新しい観念というものを絶えることなく作り上げてゆく。それが、科学であり哲学であり芸術であり金もうけであり、女とやることであり戦争であり政治であり、その他この世のもの全てであり人類の歴史そのものだったと思います。偉い、素晴らしい、尊敬すると同時にバカみたいとも思いますし、健気だと思いますが、一昔前の高倉健みたいに「ウー」とか「ウッ」とか「男は黙ってサッポロビール」なんて言われると、一人でやってもらいたい。女を道連れにするなと思います。」
 次に田村隆一氏。「言葉なんか覚えるんじゃなかった」から。
 「男は観念的な生き物だけれども、女は本質的に、観念的にはなれない。男はモノの性質として、観念的なんだ。男は足が宙に浮いている。地に足がついていないから、空中を飛ぶよりしようがないんだ。そして、また別の観念と結びついてしまう。観念と観念が肩組んだり、ぶつかったりするんだよ。だから、政治や経済なんて実体がよくわからないものに夢中になってしまう。出世なんて共同幻想を、男はすぐに抱いてしまうわけさ。」
 最後に三島由紀夫氏。「第一の性」から。
 「男はとにかくむしょうに偉いのです。・・女のオッパイの競争は肉体の領域だけの問題だが、男の愚劣な英雄ごっこは、ただちに肉体の領域を通り抜けて、精神の世界にまでひろがってゆき、根本的動機は実に幼稚なのだが、ひろがりゆく先は、世界の政治・経済や、思想や芸術すべての英雄ごっこ、あらゆる大哲学や大征服事業や大芸術を生みだした英雄ごっとへと到達するのです。つまり男の足は、女よりもずっと容易に、地につかなくなりうるのです。「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。」
 吉田健一は足を地につけて生きよ!といったのかもしれない。あるいは「男であることにこだわるな、もっと女になれ!」といったのかもしれない。そして世の多くの男たちが男たらんとしてくたびれていて、それで吉田氏の書くものに引きつけられたのかもしれない。(吉田ファンには女性もいるが・・倉橋由美子さんとか島内裕子さんとか) しかし、観念を否定するというのもまた別種の観念であるかもしれず、吉田氏の論も新たな男性同盟を密かに築こうとする企図が裏にあるのかもしれない。島内さんというかたはよく存じあげないが、倉橋氏は男に生まれていたら「盾の会」に入りたいといった人である。ついでにいえば倉橋氏も凡そ人の足を引っ張るといったこととは無縁に生きた人であったように思う。「人間通」ではなかった。
 足を地につけた生き方というのは「英国の文学」で吉田氏が英国人の生き方としたものであるかもしれない。そうであるなら吉田氏は生涯を一貫した生き方で貫いたひとということになる。「現実に堪え抜く強靱な生活力」である。その吉田氏から見れば進歩的文化人私小説作家もみな観念的に見えたのである。
 しかし長谷川氏は吉田氏を「士」(さむらい)と呼ぶのだから、そういう見方とは少し違う方向から吉田氏を見ていたのであろう。この「吉田健一」をつらぬくキーワードは「大人の文学者」である。そういう方向から吉田氏を讃えるひとは多く、篠田一士氏をはじめとして吉田崇拝者の主流を形成するのかもしれない。丸谷才一氏などもその路線であろう。俺はこんなに辛いのだ!などというのは子供の駄々である。大人はそんな泣き言はいわないものだということで、湿った日本文学の風土に反発し、清澄で明朗に誇り高く己を持した文学者としての吉田氏を敬愛した。武士は食わねど高楊子! ということになれば吉田氏は士である。
 原口統三は「二十歳のエチュード」に「武士は食はねど高楊子。 全く僕はこの諺が好きだつた」と記した。「僕は、誘ひ合つて断頭台に登るやうな殉教者を軽蔑する」とも。「僕は馴れ合ひが嫌ひだ。僕の手は乾いてゐる。日本では年中黴が生える、この国の人々の手は汗ばんでゐる」と。
 吉田氏は馴れ合わなかった人であった。徒党を組まない人であった。乾いた人であった。しかし「酒宴」とか「海坊主」のようなものを書いた人でもあり、子供っぽいところもまた生涯持ち続けたひとでもあるのだろうと思う。生涯大人になれなかった大人の文学者というのは形容矛盾でしかないが、子供っぽさと育ちのよさはどこかで通じるものがあり、「ローマの休日」で宮殿の外にでたお姫様がお金というもの解らないという場面があったが、吉田氏はお金について散々苦労したひとであったことは間違いないが、それにもかかわらずお金というものが本当のところは身に沁みなかったひとではないかと思う。それが育ちのよさというものなのだろうと思う。
 精神医学者の計見一雄氏は「脳と人間」という本のなかばで、突然、吉田氏の「時間」からその冒頭を引用し、「吉田健一氏の名作『時間』の美しい出だしの文章である。/ この本は人間にとっての時間についての、重要なことはすべて述べられている書物である。私にとっては一種の畏敬の感情の対象である。読書子は全編を読まれんことを願う。一部を引用するのは内心忸怩たるものだが。」として更に引用を続け、「普通の暮らしの中で、これと同じような時間があればいいなと思う。日常がそういう時間で満たされたら至福の生涯といえるだろう。そういう幸福はどんな体験かと言えば、子供が夢中になって遊んで居るとき、芸術家が創造に打ち込んでいる時、友達同士が話し込んで、夜の更けるのも忘れて気がついたら空が白みかけていたという時・・・」と続ける。子供は誰でも夢中になって遊ぶことができる。しかし大人になるとそういう時間を持つことが難しくなる。それで、何か違う、これは本当の自分ではないといった分裂した感覚で日々を生きるようになる。そこに吉田氏の本を読むと本当の自分を生きているひとがいるように思える。吉田氏の著作の魅力はそこにあるのだと思う。吉田氏にそれができたのは子供っぽいところを生涯持ち続けることができたからで、それが大人の文学者吉田健一の一番の根となった。しかし吉田氏はもはや子供ではなく大人になっていたのであるから、その中で敢えて「現在」に生きようとすれば意志的たらざるをえない。晩年の氏の著作はすべてそのような強固な意志の産物であったのだと思う。何よりも大事なのは精神が健康であることなのであり、多くの人が吉田氏の著作の中に精神の健康への処方を見出した。
 「兎に角、正月に他のものよりも早く起きて既に出来上がったこのおせちを肴に同じく大晦日の晩から屠蘇散の袋が浸してある酒を飲んでいる時の気分と言ったらない。それはほのぼのでも染みじでもなくてただいいものなので、もし一年の計が元旦にあるならばこの気分で一年を通すことを願うのは人間である所以に適っている。」(「東京のおせち」『私の食物誌』) たしかにそうなのではあろうが、正月の気分で一年を過ごすことは凡人には難しい。第一、朝から飲むこともできないし・・。しかし吉田氏は正しいのは正月の朝酒のほうであって、普段の仕事のほうではないことを忘れるなと言い続けた。仕事とは生きるための手段に過ぎない。正月元旦の酒のほうが生きることそのものなのである。それなのに生きるための手段のほうに科学だとか哲学だとか芸術だとか偉そうな名前をつけ、金もうけだとか女とやるとかその延長の戦争だとか政治だとかこそが生きる目的であると思い込もうとしている。もしそれがなくなれば後には空虚があるだけで、スコンところがって、地震でつぶれた家みたいにぺっちゃんこになること必定と思い込んでいる。しかし、そんなものなくてもぺっちゃんこなんかにならないでいけるのだということを吉田氏は言い続けた。その見本として吉田健一という人間が現にそこで生きているのだった。
 しかし晩年の吉田氏は過労死したといっていえないこともない仕事ぶりであった。後は余生だ、もう書きたいものはないと言いながら書き続けた。書くことが正月の朝酒と同じであるという境地に達していたのだろうか? それともやはり吉田氏にとっても、自分が作り出した「時間」という観念のほうが正月のお屠蘇よりも重かったのだろうか?
 そんなことは吉田氏自身にもわからないことだろうし、誰にもわからないことであろう。吉田健一というちょっと変わったひとが昔いて、たくさんの著作を残してくれた。後は銘々が自分の家に帰って、それを読んで考えていくだけである。
 
 この世に来るのが早過ぎた彼は、おとなしくこの世から去つたのだ。
 だから私の廻りで聴いてゐる人達よ、もうめいめい家にお帰りなさい。
 
 河上徹太郎吉田健一の葬儀の時に読んだこのラフォルグの詩の部分は長谷川氏の本で河上徹太郎訳とされている。それで吉田健一訳も掲げておく。一行目は表記をのぞけばまったく同じである。
 
 この世に来るのが早過ぎた彼は、大人しくこの世から去つたのだ。
 それだけのことなのだから、人よ、私の廻りで聞いてゐる人達よ、銘々お家にお帰りなさい。
 
 ということで約三ヶ月にわたってだらだらと続けてきたこの論をとりあえず終えることとする。吉田健一については、またいろいろと書いていくことだろうと思う。
 

吉田健一

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ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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時間 (講談社文芸文庫)

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金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)

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覚書

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吉田健一集成〈5〉/随筆〈1〉

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鼎談書評 (1979年)

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私はそうは思わない (ちくま文庫)

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第一の性 (1973年)

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英国の文学 (岩波文庫)

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脳と人間-大人のための精神病理学 (講談社学術文庫)

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私の食物誌 (中公文庫)

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