H・G・ウェルチ「過剰診断」

   筑摩書房 2014年12月
 
 副題の「健康診断があなたを病気にする」はややミスリーデングで、健康診断の問題だけではなく、原題の「Overdiagnosed」の通りでオーヴァーに診断された人の問題をあつかっている。原著は2011年に刊行されているとのこと。
 本書で提示された問題を敷衍していけば、正常と異常とをどのように分けるか、さらには病気とは何かというようなかなり哲学的?な問題にまで広がっていくと思うが、医療の問題に限っても「症状がない《病気》」をどのように考えればいいかという悩ましい問題がここで扱われることになる。
 おそらく獣医さんのところに連れてこられるペットは何らか症状がある場合がほとんであるだろう。もちろん、最初は症状があって検査をしたら何らかの異常がみつかり、もう症状はなくなったが経過をみているという場合もあるかもしれないが。
 しかし人間の場合は、特に内科においては外来通院しているひとのほとんどは何の症状もない。どこも具合の悪いところがないのに何故通院しているのかといえば、将来に症状がでるような病気にならないためである。それで通院服薬を続けた結果、無事にその病気?については何も問題がでることなく生涯を終えたとする。さてそれなら、このひとがもし通院服薬をしていなかったとしたら、もっと早い時期にその病気が発症し寿命が短縮しただろうか?ということが問題になる。そうかもしれないが、そうではないかもしれない。そうであったのなら、この人の治療には意味があったことになるし、そうではなかったとしたら治療は不必要であったことになる。
 本書が主張しているのはわれわれが現在おこなっている治療と称するもののほとんどは、後者の不必要であるケースに該当するのであり、不必要であるだけならまだいいのだが(医療費の無駄使いという意味では大問題であるが)、しばしば有害でもあるということを主張している。
 わたくしは著者の主張のほとんどに同意するものであるが、それにもかかわらず、過剰でもなく過小でもないちょうど適正な医療をおこなうことが可能かといえば、はなはだ疑問と思っている。現在の医療を支えるパラダイムは「人間だれでも死にたくないはずであるのだから、そうであるなら長生きは無条件に疑問なくいいことなのだ」ということと思うからである。もしも「現世は汚れたところであり、生きれば生きるほど汚れはますばかりであるのだから、一刻も早く現世を離れ来世にいくことが望ましいことだ」というのがパラダイムであるのならば医療の様相は一変してしまうはずである。後者のような考えを持つ人間が医者になったとすればどういう医療をおこなうことになるのだろうか?(そもそもそういう信念を持つ人間は医者になどならないであろうが)
 著者はもちろんそういう風変わりな考えを持っているわけではなく、ヒポクラテスの「なによりも害をなすなかれ」という信条に忠実なひとなのであろう。
 余りに長生きをすることはそのひとにとっても益ではなく害である部分が大きいという信条を持っている医者はどこにでもいそうな気がする。そういう医者と、医療の目的は一日でも長く人が生きることができるように努めることであると信じている医者では、自ずとそのおこなう医療に差がでてくることになるだろう。
 しかし抽象的に考えれば議論が宙に浮いてしまうので、もっと具体的に本書を見ていく。
 最初が車の話で、いまや車はコンピュータの塊で、運転席にさまざまな警告をだすがそのほとんどは無視していいものの可能性が高いということがいわれ、そこから、アメリカ人は早期診断が大好きという話になる。
 詳しく調べれば調べるほど異常はどんどんと見つかってくる。多くの人は悪いところを見つけることにデメリットなどあるはずはないと信じている。しかし早期診断はそれが人を救う場合もあるし、過剰診断となる場合もある、と著者はいう。過剰診断とは「将来、健康上の問題を起こすことのない異常に対して、《病気》の診断を下してしまうこと」であり、さらには「決して症状が出たり、そのために死んだりしない人を、病気であると診断すること」と定義される。
 多くのひとが早期発見、早期治療がわれわれの寿命が延びてきていることの唯一の理由だと思っているが、実際には、禁煙・栄養・運動・急病への対応のほうがずっと重要である、と著者はいう。早期診断と早期治療はわれわれの寿命が延びてきていることとはあまりかかわっていない可能性が高いのだ、と。
 昔は症状がないときには誰も医者にはかからなかった。しかし治療の対象が「症状のあるひと」から「異常のあるひと」へと拡大されてきた。このパラダイム・シフトをもたらしたのが「高血圧」である。明らかに治療すべき高血圧は存在する。しかし不必要な治療を受けているひともまた多い。症状がないひとに薬をだすことは高血圧の治療からはじまった。
 保険会社は高血圧のひとは死亡しやすいことに気づいていた。1960年代に症状はないが血圧が高いひと(下の血圧が115〜129!のひと)の治療の有効性を調べるランダム化比較試験がおこなわれた。70人づつという少数の試験で一年半という短期間のものであったが、無治療群から27例、治療群では2例の発症という明らかな差がみられた。この結果からは治療からメリットをうけるひとは1.4人に一人である。治療群の過半数がメリットをうける。
 それならば軽症の高血圧を治療した場合には? 下の血圧が90〜100のひとではメリットを受ける人は18人に一人となる(これは5年間でのメリットであるから、もっと長期でみれば恩恵を受けるひとの割合はもっと多くなる)。少しでもメリットがあるなら服薬したほうがいいのではないだろうか? 治療すればお金がかかるとか、そもそも服薬が面倒ということもあるが、著者は治療にともなう害があることを指摘する。血圧の下りすぎとか・・。それならば、どこで線引きをするべきか?
 血圧は数字で定義される。糖尿病も、脂質の異常も、骨粗鬆症も。正常と異常の境となるカット・オフ値は専門家の委員会がきめている。そして過去数十年間にカット・オフ値がどんどんと軽症の場合も要治療とされる方向への改訂が続いている。改訂のたびに要治療のひとが劇的に増えてきている。糖尿病・高血圧。脂質の異常みなそうである。コレステロールの場合、100人を5年間治療すると2人が心臓発作などを避けられるが98人には無意味ということになる。
 医学の場においては、たとえ少数にでも潜在的なメリットがあるのであれば、残りのひと(の不利益?)は無視してよいと考える伝統がある。
 コレステロールの場合、24年間の服薬で無治療であれば22%に生じる重篤な心臓病の発生を14%まで減らせるとされている。つまり治療により助かるのは8%。つまり、治療を受けた場合、
 得をする人・・・8%
 無意味な人・・・14%
 損する人・・・・78% となる。
 
 同じく骨粗鬆症では、生涯にわたって治療を受けた場合、
 得をする人・・・5%
 無意味な人・・・44%
 損する人・・・・51%
 
 である。
 これらの数字をどうみるかについての正解はない。何を正常と定義するべきかについての科学的な方法はないし、それを導出する方程式もない。
 本書では、血圧や血糖値の下げすぎは問題だが、コレステロールの下げすぎが問題かどうかについては結論がでていないとされている。少なくとも一度心臓発作をおこしたひとの再発予防には有効ではないかと書かれている。
 1997年、高血圧に関するアメリカ合同委員会は、正常高値血圧というカテゴリーを創設した。130〜139/85〜89である。現在では前高血圧という名称になった(日本ではいまだに正常高値血圧ではないかと思う)。
 2002年、アメリカ糖尿病学会は、前糖尿病という用語を作った。それに該当するアメリカ人は5700万人いるとされた。
 コレステロールの研究者は子供のコレステロール値を測定することを提唱している。
 さてここまでは数字で表すことのできるものであったが、ここからは画像診断の問題に移る。画像診断技術は日進月歩で改善が続いており、どんどんと解像度がよくなってきている。つまり、今まで見えなかったものが、どんどん見えるようになってきている。
 たとえば頭部のCTをとれば、高率に副鼻腔の異常がみつかる。
 腹部超音波をおこなうと10%のひとに胆石が見つかる。
 MR検査をすれば、約40%の人に膝の半月板に損傷が見つかり、50%の人に椎間板ヘルニアが見つかる。
 自分が元気といっているひとに画像診断をおこなえば、悪いところがたくさん見つかる。
 それならば、膝の痛みを訴えるひとにMRで半月板の損傷がみつかった場合、その痛みが半月板の異常に由来するといえるか? それは実に難しい問題である。
 健康な人に頭部のMR検査をすると10%に脳卒中の痕がみつかる。
 健康な人の全身をCTで調べると86%に最低でも1ヶ所の異常がみつかる。平均的には2.8ヶ所に異常が見つかる。
 超音波検査をすれば触診では検出できない小さな腹部大動脈瘤が見つかる。小さな動脈瘤は破裂のリスクは低いが、破裂すればしばしば致死的である。
 とにかく検査をすれば見つかるのだから、統計上はこういう病気はどんどんと増えてきている。
 深部静脈血栓症も精査すれば、よく見つかる。その最悪の帰結は肺梗塞である。換気血流スキャンやヘリカルCTで検査すれば、足に静脈血栓があるひとには高率に小さい肺の血栓が見つかる。
 より多くのものが見えるようになると、医者はそれを放置してもいいのか治療すべきかの選択をせまられることになる。
 つぎが、がんのスクリーニング検査。
 従来から、がん治療の王道はがんの早期発見であることには異を唱えるひとはまずいなかった。しかし前立腺がんスクリーニングがはじまってから風向きが変わってきている。前立腺がんはさがせば見つかり、男性の非常に多くが前立腺がんを持っていることが明らかになってきた。
 2008年アメリカでは前立腺がんで2万9千人が死んでいる。9万人の肺がんについで男性では2番目に多いがん死である。
 典型的な場合、アメリカ人男性が前立腺がんで死ぬリスクは3%、死亡時の年齢の中央値は80歳。前立腺がんと診断される男性は18万6千人。典型的なアメリカ人男性がその診断をうける可能性は16%、診断の年齢の中央値は68歳。
 診断はされないが実際には前立腺がんを持っているひとは当然もっと多い。膀胱がんで手術した時に摘出した前立腺を調べると、ほぼ半数に前立腺がんが見つかる。(60歳以上では五割以上)
 別の研究では、60〜69歳では約70%、70〜79歳では80%に前立腺がんが見つかる。(20歳代にも10%に前立腺がんが見つかった。) 前立腺がんで死ぬひとが3%であるのに対して、高齢男性の半数以上にそれが見つかるとすると、かなりの過剰診断がおきていることは間違いない。
 前立腺がんにはPSAという非常に有効な腫瘍マーカーが存在する。これが高いと前立腺がんの可能性が高いが低くても否定はできない。
 かつては、がんは治療しなければ容赦なく進行し、つねに成長していずれは転移し、ついには死にいたる病気と考えられていた。だが、この考えは間違っていることが明らかになってきている。病理医が「がん」と診断しても、非常に早く増殖するものからまったく変化しないものまでさまざなタイプがあることがわかってきた。進行が非常に遅いものであれば、がんが症状を出す前に他の病気で亡くなることが多い。
 一般にあるがんの診断率が向上しても、そのがんによる死亡が増えないものはそれが過剰診断である可能性が高い。
 アメリカがん協会は「症状がなく75歳以上の男性には前立腺がんスクリーニングは勧めないとしている。PSAの発見した学者は「PSAでは死に至るがんとそうでないがんとを区別することはできない」といっている。
 前立腺がんの場合には過剰診断がおきている可能性が強く疑われる。それならば、他のがんではどうなのか?
 
 甲状腺がんアメリカで甲状腺がんで死ぬのは年に1600人、その診断を受けるのは3万7千人(20倍以上)。その数字が示唆するのは、治療成績がとてもいいか、過剰診断かのどちらかがあるということである。著者は後者が正解で、大部分の甲状腺がんは治療が必要ないとしている。なくなった高齢者の甲状腺を調べると1/3以上に甲状腺がんが見つかる。もっと細かくしらべればほぼ100%にがんが見つかるという見解もある。甲状腺がん前立腺の場合以上に過剰診断がされていると著者はしていて、前立腺がんの場合にはまだ存在するであろうスクリーニングによる救命例も甲状腺ではほとんど存在しないだろうと、著者はしている。
 
 メラノーマ。皮膚がんの中でもきわめて悪性度が高く、これで死亡するアメリカ人は年間8400人ある。一方、この診断を受けるものは年に11万6千人くらいである。メラノーマと診断されるひとは年々増えているが、死亡者数は一定である。これもまた過剰診断がおこなわれている可能性が非常に大きい。
 
 肺がん。アメリカでは年間16万2千人が肺がんで死んでいる。その診断を受けるものは21万5千人。つまり診断されたもののほとんどがその病気で死んでいることになる。となれば、これはスクリーニングの絶好の対象であるはずである。しかし胸部レントゲンでのスクリーニングでは肺がん死は減らなかった。それでアメリカではクスリーニングは推奨されていない。しかしそこでも過剰診断の可能性は指摘されている。
 レントゲンでは駄目なので、ヘリカルCTでのスクリーニングが試みされているが、当然CTをすればいろいろなものが見えてくる。1950年代にドールらがおこなったイギリスの医師を対象にした古典的研究で喫煙者は非喫煙者の17倍肺がんになりやすいことが示された。しかしヘリカルCTでスクリーニングをおこなうと本当は放置していいような《がんのようなもの》が大量にみつかるようになり、喫煙と肺がんの因果関係が希薄になるという奇妙なことがおきてきている。
 
 子宮頸がんと大腸がん
 ここでの問題は《前がん病変》である。
 子宮頸がんのスクリーニングが行われるようになって子宮頸がんによる死亡は激減した。これはスクリーニングの有効性を示すものであるが、衛生面の改善や性感染症の減少といった要因の寄与もあるかもしれない。
 子宮頸がんで死亡する生涯リスクは0.2%であることを考えるとかなりの前がん状態の過剰診断がおこなわれている可能性が高い。そのためアメリ産婦人科学会は若い女性のスクリーニング検査を中止するか、スクリーニングの頻度を減らすことを提唱している。
 大腸がんでも同様のスクリーニングの有効性を示すデータが得られている。しかし前がん状態とされる大腸ポリープの過剰診断がおこなわれている可能性は高い。
 以上から生じる二つの問題:
 1)早期発見できるがんに治療は必要か?
 2)悪性度の高いがんに治癒はありうるのか?」
 われわれががんをさがそうとすればするほど、「無害な」「がん」を発見する可能性が高くなる。(これは近藤誠さんの「がんもどき」論とかなり近い発想である。)
 この後に、乳がんのスクリーニングとDNA診断のことが述べられ、その後に一般論にうつる。
 たとえば以下のような宣伝《甲状腺がんアメリカで最も急速に増えているがんの一つであり、そして、最も治療成績のよいがんの一つでもあります。》 この文は偽りのない事実をそのまま伝えている。しかし、急速に増えているのはスクリーニングが増えているためで、治療成績がいいのはもともと治療の必要のないものがほとんどであるためであるからというのも事実なのであるが、そのことをこの文から理解できる非専門家は少ない。(福島の原発事故の後に子供が受けている甲状腺のスクリーニングが将来様々な問題を引き起こすであろうことは想像に難くない。)
 ●リードタイムバイアス・・早期診断は常に生存期間を延ばす。・・早期診断によって誰も延命しないとしても、早期診断グループは診断から死亡までの時間が長くなるから、早期診断グループの生存期間は長くなる。ここでの生存期間とは「がんであることを知っている生存期間」のことである。
 ●過剰診断バイアス・・過剰診断があれば、早期診断グループの生存統計はよくなる。もともと治療する必要のないものを治療しているのであるから当然である。
 そういうバイアスを回避できる唯一の方法がランダム化試験である。ランダム化試験の結果として、する価値があることが実証されているがんのスクリーニング検査は非常に少ない。皮膚・膀胱・腎臓・膵臓・卵巣・精巣・甲状腺では証明されていない。
 マンモグラフィー・スクリーニングは乳がんの死亡リスクを20%減らす。(10年間で、1000人あたり5人の乳がん死亡が4人になる。)
 
 なぜ過剰診断がおきるのか?
 医療経済の方面からは製薬会社の営利追求から、医者の側からは、訴訟が怖いから。
 しかしかなりの医師あるいは政策立案者は、心から、本当によいものとして早期発見を推進しようとしている。しかし早期発見が医療費を減らすというのは間違いで、ほとんどの場合はコストを増やす。
 啓蒙団体もよいことをしていると信じて活動をしている。また早期発見の方向の研究は研究費が得られやすいが、早期発見には意味がないという研究についてはそうではない。
 医者が過剰診断に走る最大の理由は訴訟へのおそれである。検査をしなかったから裁判になったひとはいても、したから裁判になる医者は少ない。診断の見逃しは罪になるが、過剰診断は罪にはならない。しかし裁判への恐ればかりでなく、不確実なことには耐えられないという気持ちが多くの医者の過剰診断につながっている。どこにも悪いところはないことを証明しようとして何らかの異常を見つけてしまうのである。
 診断は早ければ早いほどいいというのは現在の支配的な文化になっている。しかし、診断された人は気弱になってしまう。またある診断はさらなる検査に結びついていく。そして、治療が害をもたらすこともしばしばある。
 しかし、軽い異常なら放っておくという選択肢は現在では選びにくい。重症のひとにいいことが軽症のひとにもいいはずということには決してならないのだが。
 病気になる原因は本当は「運が悪かった」からなのかもしれない。症状がない病気は本当に治療すべきか、もう一度考えたほうがいいかもしれない。
 
 現在内科外来通院患者の過半が高血圧・糖尿病・脂質異常症である。つまり症状がほとんどない。脂質異常症ではまず症状がないが、糖尿病では低血糖症状や高血糖症状さらにはそれの極端な場合としての昏睡などがあるし、口渇多飲多尿などの症状もある。眼底の検査をすれば血管の変化がきている場合も多い(ほとんどが症状はないが)。四肢末端の知覚障害や、検査をすれば腎機能の低下も認められることが多い(これはほとんどは症状はないが)。高血圧で症状がでることがあるか、極端に高い場合でなければまず症状はでないと思われるが、患者さんは多くの症状がでると信じている方が多い。現在、家庭血圧計が普及してきているので、高血圧の患者さんで家庭での血圧を測っているかたは多い。もし頭痛がしたので測ってみたら、150/85だった、普段は130/80なのに・・ということがあると頭痛がしたのは血圧が上がった為と信じ込む方は多い。おそらく頭痛⇒何か悪いことがおきていないか心配⇒交感神経が緊張気味となる⇒血圧上昇というようなことがおきている可能のほうがずっとありそうなのであるが、一度、こういうことがあると頭痛とか何か普段と違ったことがいつも血圧を測るようになり、そのたびに高く、血圧がいろいろな症状の元凶であると信じこんでしまう方も多い。
 そもそも高血圧をなぜ治療しているのかということを理解していないかたも多い。血圧が高くなるとポンと脳の血管がはじけてしまうというようなイメージで血圧を捉えている方は多く、そのようなかたは一日中、つねに《正常な》血圧でいないと不安になってしまう。
 さらにいえば正しい血圧とは何かというのが大問題である。確かに血圧は数字ででるが、測る度に変動する。自宅で計るたびに変動するし、病院に来て、置いてある自動血圧計で測るとまた違う。さらに診察室で測るとまた違う。一日の中で、130〜145/80〜90の変動をするひとは正常血圧なのか、正常高値血圧なのか、本当の高血圧なのか? 確かなのは、このひとが30年くらいまえであれば高血圧とはされなかったであろうことで、わたくしが医者になったころは160/100を越えるものが高血圧だった。著者のいうように基準はどんどんと厳しい方向へと変わってきている。
 わたくしは最近脂質にかんしては治療が不要なのではないかという方向に考えが傾いてきているのだが、糖尿病に関してはわからないままである。糖尿病によりきわめて悲惨な状況になってしまう患者さんがいることは間違いないことで、失明とか血液透析が必要なってしまった患者さんを医者を長くやっていれば誰でも数例の自験例としてもっているだろうと思う。しかし、糖尿病はきわめて多い病気であるから、その大きな母数の中からこれらの事態が生じてくる率はそれほど多いわけではない(しかし、眼底の変化のためにレーザー治療などを必要としているひとの数はかなりなものである)。そしてさらに問題なのが、極めて悪い数値でありながら一向に節制する気はなく体重が100キロを越えたままで平気というなひとで、不思議なことに何の合併症もおきないひともいることである。糖尿病というのはおそらく疾患群であって、さまざまな病態のものが結果として糖尿病という病態を呈しているだけなのであろうから、ある種の患者さんはいくら数値が悪くても合併症をおこさないのかもしれない。そういうひとは本当は治療はあまり必要でないのかもしれないのだが、われわれはどの人がそうであるかがわからない。さらにいえば、50歳で糖尿病を発症し、一切節制せず、食べたいものを食べ、呑みたいだけ呑み、70歳で死ぬ場合と、まじめに節制し、食べたいものを我慢し、酒を断ち、90歳まで生きた場合の人生のどちらがよりよい人生であるかも解らないのである。もちろん医者は後者をよしとすることを自明としている。「酒も煙草も女も知らず百まで生きた馬鹿がいる」という都々逸?のようなことを煙草を吸うひとはみんないういうようであるが、どういうわけか自分だけは肺がんにならないと信じているかたが多い。いざ肺がんになったら、やっぱり吸わなければ良かったと思うのかもしれないが、自分の人生は一回限りであるのだから、二度別々の人生を生きることは誰もできない。
 著者は煙草が悪であることを自明をしているようであるが、本書の論理を敷衍すると、高血圧の人がみな脳や心臓の病気で死ぬわけでないのと同じで、煙草を吸う人がみな肺がんや食道がん、あるいは肺気腫で死ぬわけではないのだから、問題は喫煙が重症の高血圧と同じくらいに明白な悪であるのかということである。例えば一日20本の煙草は悪であるが5本なら許容されるというようなことがあるのだろうか? 愛煙家にとって一日5本などというのは蛇の生殺しなのであろうが。
 価値観は数値化できない。一方、寿命は数値化できる。寿命だけではあまりに殺風景だということで最近では健康寿命などということもいわれるが、命の濃さというのは数字にはできない。
 その昔、まだ学生のころに読んだ福田恆存の「平和論に対する疑問」というのにこんなところがあった。「もつとも笑止だつたのは、この間の洞爺丸転覆事故の時です。次の日の新聞で・・著名な「文化人」数名が・・「堂々たる卓見」を吐いてゐました。あるひとのごときは、海の事故は、船長の指揮さへよろしきを得、救命具をつけてさへすれば、海上をただよつてゐるうちに、かならず助かるものだなどといふ珍無類の意見を述べてゐる。・・誰も彼ももつともらしく、あるいは船長を責め、あるいは当局を難じ、あるいは造船技術について云々してをります。だが、「運がなかつた」といつたひとはひとりもゐませんでした。・・あのばあひ、船長を非難するのと、運が悪いといふのと、いつたいどういふちがひがあるのか・・たつたひとつのちがひは、「文化人」なら運のせゐにしないといふこと、逆にいへば、船長や当局や、その他どこかに適当な原因を見いだせる人間、それを「文化人」といふ―さういふ、また別の定義が下せさうです。」 これを読んだときに、まさかこれが医療の問題にかかわるとは少しも思わなかった。
 またもう少し後に読んだ吉田健一の「覚書」にはこういうところがあった。「十九世紀の後半頃からの短い期間は災害にはその対策があり、例へば渇水には貯水池、疫病には薬、飢餓は食物の輸送、戦争も国際会議で防ぐことが出来るといふ考へが行はれてゐてその結果が人為的な災害も自然のものも既になくなつたも同然だといふ気持でゐることに人を馴れさせて来た。・・どういふことにでもその対策があるといふ種類の考へ方が既に理性が許さない筈の何かに対する過信であつて人間は人間の状態を忘れる時に醜くなる。又この短い期間に我々の世界に災害がなくなつた訳でも少しでも減つた訳でもなかつた。」 これを読んだ時にはさすがにこれは医療とかかわる話であることは理解できた。
 さらにもっと後で読んだものとして養老孟司さんの「「都市主義」の限界」。「都市化とは意識化である。計算であり、「ああすれば、こうなる」なのである。さらには一般化、普遍化、透明化である。そこでは人間を構成するもう一つの重大な要素、「無意識」は勘定に入っていない。」
 「ああすれば、こうなる」の世界、コントロールの世界、「どういうことにでもその対策がある」はずの世界、「運が悪かった」などという言葉が許されない世界、それが早期診断、早期治療を自明のものとする世界をつくっていく。しかし、そうではあるが、一方では、命には限りがあり、それが一回限りのものであるという不条理なコントロールできない事実も厳然と控えている。
 本書の主張がきわめてまともなものでありながら、それでも医療の世界を変えることはあまりないだろうなとわたくしが思うのは、現在の医療の世界を背後から支えている「ああすれば、こうなる」という世界観から生まれる「自分の生もまた自分のコントロールのもとにおきたい」とする思潮を覆す力が本書にはほとんどないと感じるからである。
 そもそも著者も「自分の生もまた自分のコントロールのもとにおきたい」とすること自体は否定していないわけで、ただそうしようとすることは結果的には「自分の生を自分のコントロールのもとにおけなくなる」かもしれないのだという方向から、その思潮に対抗しようとしているわけである。それは弱いと感じる。
 そもそも、その思潮は魔法の弾丸である抗生物質の発見に端を発しているように思うが、それが有効なのは急性疾患への対応の場においてであり、慢性の疾患がほとんどを占める現在ではもはや有効性は乏しいとしても、その発想自体は連綿と続いているはずである。たとえばがんの治療で手術などというのは野蛮な話であって、薬一粒呑めば治るというのが理想である。どんな時期に見つかっても一粒で治るなら誰も早期発見などとは言わなくなるはずである。
 そしてがんでは誰も死ぬことがない時代がユートピアであるのかユートピアの反対であるのかはわからないが、人間というのは(そして医療というのは)その方向を目指して永久に走り続けていくのではないかと思う。
 わたくしの先輩の先生はが常々「がんはいいね、がんは死ねるから」といっておられた。「まだまだ生きたいと思って死んでいく」のと「今日もまだ生きているのかと思って生きている」のとどちらがいいのか誰にもわかることではない。それはわれわれにはコントロールできないことなのである。晩年のモームは毎晩「明日の朝、目が覚めることがないように!」と祈りながら床についていたという話をきいたことがある。もちろん「まだ生きていて嬉しい」と思って生きるのが一番いいわけであるが、それが実現できるか否かは医療の能力の範囲をはるかに越えている。
 多くの医療者は医療に出来ることはごく限られた範囲の些細なことで、それができるのも何らかも幸運が味方した場合だけであることをよく自覚していると思う。だから患者さんの側からの過剰な期待には多くの場合困惑するだけである。しかし、どういうわけか、時に、神の手などといわれても少しも困った顔もしないお医者さんとかがでてきて医療は万能でありうるような幻想を振りまき、そしてひょっとすると自分でもそう思っているのではないかというような言動をする。そういうひとが歓迎されるのは、患者さんの側が持つコントロール幻想に応えるからなのであろう。
 そして医療の実に困ったところは、患者さんが自分のことを名医であると誤解してくれていてくれることは、しばしば治療効果にプラスの影響をあたえるということである。「わたしの手術の成功率は70%です」などと正直にいう医者よりも、「わたしにまかせなさい。この手術ではまだ一度も失敗したことはありません」と平気でいう医者(言っていることは本当で、たまたま一回してうまくいっただけかもしれないが)のほうが事実いい成績につながるかもしれないということである。
 通常、何らかの症状で病院にくる患者さんの大半は医療行為を必要としない。だから初診で一番正しい可能性が高い対応は「何でもありません。大丈夫です」である。そして患者さんのかなりは正確な診断を求めているのではなく安心感を求めているのであるから、こういう対応は患者さんの求めにも的確に対応していることになる。
 しかし時に本当の病気が潜んでいる。それを見落とすと医者は非常に落ち込む。だから念のために検査をする。多くの場合、医者は何かがあると思って検査するのではなく、何でもないと患者さんに納得してもらうために(そして自分でも安心するために)検査をオーダーする。だから予想に反して何かが見つかると驚く。「あっ、この人は本当の病気だったのだ!」
 本当にごくわずか、見つけることに意義があり、それは治療可能で、気付かなければ命にかかわっていた可能性が高い病気がみつかることがある。そういうことが時にないと医者をやっているモチベーションが保てないかもしれない。しかし残念ながら、それよりも見つかったがもはや治療不可能にまで進展している場合や、現在の医療ではどうすることもできない病気であることのほうが多い。この「見つかったがもはや治療不可能にまで進展している」病気の存在が早期診断早期発見へと多くのひとを駆り立てていく。
 そういうのは本当は「運が悪かった」ということなのかもしれないのだが・・。
 

過剰診断: 健康診断があなたを病気にする (単行本)

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