今日入手した本  C・カリル「すべては1979年から始まった」

すべては1979年から始まった: 21世紀を方向づけた反逆者たち

すべては1979年から始まった: 21世紀を方向づけた反逆者たち

 先週の朝日新聞の読書欄で紹介されていた本。
 現在の世界でみられるさまざまな大きなうねりは1979年からはじまっているということを述べた本であるらしい。
1)ホメイニのイラン革命、2)アフガニスタンでの聖戦のはじまり、3)サッチャーの選挙での勝利、4)ローマ教皇ポーランド巡礼、5)中国での経済改革への着手、の五つが歴史の道筋を従来とは大きく変わるものとしていったのだ、と。長年、無視されていた「市場」と「宗教」という二つの力が、猛烈な力で舞い戻ってきた。それは同時に社会主義ユートピアの終焉のはじまりを意味していたのだ、と。社会主義からみれば最大の敵であった市場が甦り、阿片であった宗教が息を吹き返してきた。
 わたくしなどは1968年の子であると思うから、その当時を覆っていた社会主義あるいはマルクス主義の後光というのを知っている。今から思うと社会主義が宗教の代用をしていたのかもしれないわけで、社会主義の神話が崩れれば、その空白に本物の宗教が入り込んでくるのは当然なのかもしれない。
 現在における思想の分野での大きな混乱は、人は経済的に豊かになってくると「個」を自覚するようになるから、必然的に「民主主義」の方向、「世俗化」の方向にいくだろうという予想が間違っていたのではないかと思わせる事態が世界のあちこちでおきていることから生じているように思う。
 わたくしのように文明開化路線の人間、「洋学派」の人間としては(「私は良かれ悪かれ昔気質の明治の子である。西洋に追いつき、追い越すということが、志ある我々「洋学派」の気概であった。「洋服乞食」に成り下ることは、私の矜持が許さない。(「新しき幕明き」林達夫)」)非常に困る。それでいま池田信夫氏と与那覇潤氏の「「日本史」の終わり」などという本も読んでいるのだが、それは西洋なんてちっとも普遍的ではないよということをいっている。「科学」と「音楽」については西洋が世界を席巻しているように見えるのはなぜか、ということがそれ故にわたくしにはとても気になるのだが、もうこの年になれば、西洋と心中するしかないのだろうか?
 
「日本人と英語」の社会学 −−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか

「日本人と英語」の社会学 −−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか

 これも同じ朝日新聞の読書欄で紹介されていた。
 上で自分のことを「洋楽派」などと偉そうなことをいったが、英語の出来ない洋学派というのも困ったものである。それでこういう本が気になる。わたくしは昭和22年の生まれで、中学高校(麻布)では「君らは一生、英語を話すことなどほとんどないから、読めればいいのだ」と言われていた。そしてこれはあながち間違いでもなくて、英語を読むことは必要であったが、話すことはほとんど必要がない。とすれば発音などはどうでもよくて、医学のテキストなどが読めれば充分なのである。
 本書は日本人は東南アジアのなかでも一番英語が下手とか、これからのグローバル時代に英語は必須であるとかいった様々な神話に疑問を投げかけているものらしい。明治の開化期に先人が大変な苦労をして様々な用語を日本語化した。それで日本は非西欧圏において自国語で科学の学問が可能であるという例外的な国であるらしい。多くの国ではテクニカルタームが自国語化されておらず、英語なしには学問ができないらしいのである。
 というようなことが本書に書かれているのかは、まだ読んでいないのでわからないが、論文を書籍化した本らしく、あまり読みやすくはなさそうな印象である。