池田信夫 与那覇潤 「「日本史」の終わり」(2) 第2章「戦争が国家を生んだ」 第3章「古代から日本人は「平和ボケ」」

 
 第2章「戦争が国家を生んだ」
池田:考古学時代には人類の15%(男だと25%)くらいの死因が殺されることだった。ピンカーがこれを最近本にまとめた。ルソー的な人類の祖先は平等で文明によって不平等が生まれ、それにより争いがおきたという見方はあやまりで、ホッブズ的な「万人の万人に対する戦い」が正しいらしい。ただし、個人と個人が戦うのではなく、集団と集団が戦うのだが。
 集団のなかでは殺し合わない。これが前章で述べた利他心。しかし集団どうしでは殺し合う。・・「偏狭な利他主義」である。
 類人猿でも殺し合うが、人類は武器をもった。他の動物は相手を殺す手段として歯と爪しかもたない。石器時代の石器の最大の用途は実は殺人であったはずである。
 これは宗教をうまく説明できる。宗教は戦争に備えるための心的なメカニズムを提供するものであるとすると、宗教をうまく説明できる。遺伝子を共有できる身内同士が殺し合わないための防御機構は愛情で説明できる。遺伝子を共有しない集団のために宗教が必要となる。
那覇:「ペットが死んだので家族で食べた」という話にほとんどのひとが強い不快感を示す。しかしこの感情を論理的に説明することは難しい。宗教とは共同体を創造するためのデバイスである。近代化とは共同体を創造するためのデバイスが宗教から別のもの(たとえば国民国家)に変わることである。
池田:S・J・グールドの「スパンドラル」説によれば、宗教とはスパンドラルである。音楽もまた宗教的トランス状態を作り出すものとして生まれてきた。共同体を守るメタ合理的な感情が遺伝的に組み込まれ、それが文化と「共進化」した。利己的な行動を肯定するように見える市場経済体制はわれわれには受け入れづらい。
那覇ナショナリズムも国家の生き残りのために創造されてきた。先進国で戦争が例外的なものとなってくると、スポーツがその代用品となる。
池田:愛情や信仰は進化の過程では合理的だった。しかし、いったんそれができあがってしまうと目的合理的でない衝動をうみ、戦争の原因となる。球技は戦争で石を投げ合った習性の名残である。スポーツはすべて戦争の名残であるとしていい。
那覇:共同体が戦争のなかで生き残っていくために生まれたデバイスが、平和の時代になっても生き残っている例としてはスポーツのみならず、宗教もナショナリズムもみなそうである。システム1が全人類に共通であるとすると、人類の様々な社会の違いはシステム2の部分からでてくることになる。
 西洋近代は条件反射的なシステム1を抑制する機構をかなりがっちりと作った点に特徴がある。大きな宗教戦争を経て、システム1で反発しあっていけば、社会が維持できなくなった。その時に、宗教的な本能を合理性で抑制しようとする動きがでた。宗教と政治をわける方向が探られた。だが、中国ではそれがなされなかった。前近代からすでに国家の統一ができていたので、システム1を抑制する必要性がなかった。だから政教分離がおきず、客観的なルールで人を裁く法治国家も生まれなかった。政治と道徳が一体化した徳治国家となった。
 西で「リヴァイアサン」が書かれた頃に、中国では陽明学が流行している。「心即理」。「人間の素直なまごころをそのまま発揮すれば、自動的にすべてが調和してうまくいく」という思想である。「小理屈のうまいインテリではなく、無知蒙昧だが素朴な「愚夫愚婦」の言動にこそ真理はやどる」とされた。
池田:人類が定住して農耕をはじめると、領土の争いが生じる。ヨーロッパで近代国家が生まれたのは、16世紀に戦闘の中心が歩兵から大砲などの兵器に移り、経済力が必要になったからである。しかし、中国では皇帝以外の人々を武装解除した。暴力を抑制する国家があってはじめて経済活動は可能になる。
那覇新左翼の運動も、国家の一員としてではなく戦争機械として生きたいという欲求から生まれたのではないか?
池田:歴史は憎しみとか恨みつらみとかの感情でほとんど決まるのであり、インテリの論理とか政策とかできまったことはない。
 
第3章「古代から日本人は「平和ボケ」」
池田:日本は必ずしも江戸から行動様式が変わったのではなく、もっと以前から「江戸時代」的だったのではないか? なぜか? 豊かで平和だったから。2万年前に大陸から切り離され、侵略されることなく、しかしその当時の最先進国中国の文化だけははいってきた。山本七平は「日本人はユーラシア大陸から少し離れた箱庭のような別荘で何の苦労もなく育ったぼんぼん」であると言った。厳しい戦いを知らないので「平和ボケ」になった。
那覇平安時代にケガレの観念や怨霊信仰から政争の敗者を処刑しなくなったことも大きい。徹底的に相手を殲滅することまではしないエートスが養われたかもしれない。
池田:梅棹忠夫の「文明の生態史観」はそれを指摘した。ユーラシアの西と東の端の日本とイギリスで成熟した社会ができた、と。
那覇:秦は最初の中央集権化された官僚機構をもった国家であった。
池田:稲作で共同で開墾と灌漑工事をしなければならないことが日本の村社会をつくった。
那覇:明治以降の政府の宗教政策は、日本史上例のないくらい、キリスト教的ながちがちの「宗教」をつくりだそうとした。
 丸山真男は西洋近代と悪戦苦闘したが、単に西洋近代を批判するだけは不毛である。それで自分は、西洋対日本という軸ではない「中国化」という言葉をあえて出してみた。西洋との比較ではなく中国との比較で日本を見るという視点である。
 日本は西洋を目指しながら、得られた結果は中国化ということをくりかえしてきているのではないだろうか。それはシステム2の脆弱さに起因する、と自分は考える。たとえば、全共闘の学生たちはシステム1だけで動いていた。
池田:だからといって、西洋的な意味での合理主義がどこまで普遍的なものであるのかも疑わしい。今の中国では西洋的な合理主義では理解できないことが多々おこっている。
那覇民主化すれば価値観も多様化するという西洋のリベラルデモクラシーが普遍的なものであるかは疑わしい。多元的な価値観はシステム2からしか生まれない。 
池田:「戦争か平和か?」という視点からみれば、中国も西洋も激しい戦争があった。日本は平和であった。
 一方、「多様か統合か?」という視点から見れば、西洋は戦争は激しいが地理的に複雑で文化的にも多様であった。これが、独立国家の分立競合の西洋を生んだ。
 日本では律令というものが形式的にはあったが誰も読んでもいなかった。近代まで統一的な法がなくても機能したのである。
 
 ヨーロッパが今のようであるのは、新教と旧教の間での壮絶な殺し合いの結果の産物であるらしい。30年戦争というのは単なる宗教戦争とばかりはいえないらしいが、そこでとにかく大量に人が死んだ。それに懲りてできあがった西洋の体制も、古き良きヨーロッパは第一次世界大戦の消耗戦とともに消え、さらに第二次世界大戦のジェノサイドによって傷ついた。どうも人間は人がたくさん人が死なないと懲りないし変われないものらしい。日本も、第二次世界大戦でこれだけの人が死んだということ、その時に経験した飢えが、その後を大きく規定しているはずである。
 しかし、それ以前の人類はもっともっと桁違いに殺し合っていたらしい。大量破壊兵器などというのが一切ない時代に、男の1/4は殺されて死んでいるというのだから、とんでもない話である。これは人間が道具を持つようになった結果らしい。われわれは歴史の教科書で人間は道具を使うようになって他の動物から分かれたというようなことを習う。そこでは石の斧を用いて調理し、他の動物と闘うなどと綺麗なことが書いてあるが、本当の使用目的は同朋殺戮であったらしい。他の動物の殺戮兵器は歯と爪であるらしいが、人間が歯と爪で争ってもそれで相手を殺すのは容易ではない。
 前章で池田氏は人間に普遍的な利他心ということをいっていたが、ここでは修正され、利他心は仲間内のみで生じ、仲間の外とは殲滅戦がおきるとされる。
 本書では宗教は闘いへの燃料のようなものとして説明されている。もしも仲間内では利他心、仲間の外には利己心ということであれば、しかもその性向が進化の過程で遺伝子に組み込まれているとすれば、仲間と仲間の外を区分する機構は何かということが問題となる。人間は社会性の動物で単独では生きていけないとすると、生存のために必要な集団の内と外を区別するものである。チンパンジーなどもある規模の集団で生きるらしいが、そのメンバーは必ずしも固定したものではないらしく、出入りがあるようである。要するに一緒にいる奴は仲間、一緒にいないものは敵。そして人間においては仲間意識を高め、戦意を向上させるものとして宗教は発生したとされる。音楽もまた同様の起源から生じたのであろうと。
 ペットを食べるというような話しに人間は強烈な情緒的反応を示す。P・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」では、人間とアンドロイドを区別する試験「フォークト=カンプフ感情移入度測定法」とかいうのがあって、その中に犬を煮て食べるといったことにアンドロイドは何の反応も示さないことが、アンドロイドと人を区別するとされていた。人間は共感能力を持つがアンドロイドではそうではないということらしかった。しかし人間は仲間内にしか共感能力を持たないのかもしれない。どこかで、犬とか猫とかをペット化することに成功していなかったら人間は滅びていたであろうというような話を読んだ記憶がある。犬や猫はわれわれの仲間なのである。自分を絶対に襲ってくることのない安心できる仲間。
 グールドのスパンドラル論文(「サンマルコ寺院のスパンドラルとパングロス主義のパラダイムー適応主義者の目論見への批判」)は、なんでこのようなものが進化論とかかわるのか理解できないしろものである。もちろん進化をどう考えるかということが論じられてはいる。しかしサンマルコ寺院のスパンドラルがそれを考察するための適切な例であるかどうかが理解できないのである。スパンドラルというのは寺院などのドームを持つ形態の建築には必須の構造なのであるらしいが、同時に寺院の装飾のためにも格好の場を提供する。それでそこにさまざまな聖画などが描かれることになる。そうするとそれを見る人は、スパンドラルというのは宗教的装飾をほどこすために作られたと思う。
 そこでグールドが何がいいたいのかといえば(わたくしから見ると)、何でもかんでも進化で説明できると思うなということなのではないかと思う。進化が説明できるのはスパンドラルという構造までであって、そこに聖画が描かれることになったのは偶然である、と。パングロスというのはヴォルテールの「カンディード」にでてくるどんなことがおきてもそれが最善の出来事なのであると説明してしまう博士でライプニッツをからかっているらしいが、要するに進化ですべてを説明しようとすると、今ある事態が最適の状態ということになってしまうのが気に入らないということなのだと思う。
 グールドの書いたものは、読んで非常に面白いが、時になんだかいかがわしい感じがすることもあるのは、彼が非常な物知りであるのと同時に二つの敵をもっていることに由来するのだと思う(ドーキンスはグールドにくらべれば知識の幅が狭いし、E・O・ウイルソンにいたってはただ一生懸命にお勉強をしているだけという感じである)。前面の敵は創造論者で、背後の敵が進化万能論者である。世界は聖書に書いてあるとおりに創られたと主張するものはダーウイン進化論の守護神としてのグールドの絶対に許容できないところである。しかし、あらゆることを進化によって説明しつくそうという動きも同時に看過できないものとするのである。ごく雑駁にいってしまえば、人間のもつ美しさのようなものは進化では説明できないとしたい。だから彼は創造論者の敵でありながら、宗教自体は擁護する(NOMA原理)という不思議な人となる。またまた雑駁にいえば、部族の宗教、世界を説明する原理としての宗教は否定するが、個人の内面にかかわる宗教、倫理の源泉としての宗教は擁護する姿勢のように見える。つまりダブル・スタンダードとなる。だから苦しい。「神と科学は共存できるか?」という本などはわたくしから見ると、あのグールドがなんで一体こんな見苦しいものを書かねばいけないのだといった印象である。
 ここで池田氏は宗教を「スパンドレル」であるといっているのであるが、スパンドラルのどちらの側面をいっているのかよくわからない。建築上の必然の産物という観点であるのなら、宗教は進化の直接の産物ということになる。一方、その上に書かれた聖画をさすのであれば、それは必然のものではなく、「集団(仲間)で生きる上に有用に働くものは生き残りに優位に働く」という進化の一般論がたまたま宗教というかたちで出現しただけということになる。
 さらにいえば宗教には集団を結びつける糊としての宗教と個人の内面に働きかける宗教の二つの面があるが、宗教の始原は前者であって、「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」とか「悪人正機」などというのは後から出てきた。グールドは前者を否定しするが後者は残したいわけである。
 「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」などというのは、進化の戦略としては具合が悪いことはいうまでもない。「集団統合のための宗教」が「個人の内面に働く宗教」へと「進化」するものなのか、そうなるべきかもまたわからないところである。
 日本で宗教の問題が非常にわかりにくいのは、宗教がほとんど個人救済の側面だけと捉えられているからで、集団統合のためという宗教のもう一つの側面が全然身に沁みないことに起因するのだと思う。
 医者になったばかりの頃、多くの臨床家が宗教あるいはそれに繋がることに抱いている劣等感に驚いた。医療は人間の物質的な側面にはかかわるが、あるいは物理的に命を長らえるためには何かできることもあるが、生きることの意味とか意義とかいったもっと「高級」な側面には手も足も出せない、それは哲学とか信仰といったもっと次元の違う分野が担うべき医療とは関係ない問題であるといった感覚を多く臨床家がもっているように思えた。哲学にしても宗教にしても、そのようなことに格別の答えを持っているわけではないかもしれないということには思い至らないようなのが不思議だった。医療をしていることは人間もまた動物の一種であることを認めていることのはずである。そして、それと関係のない何かを人間が持っていると思うのであれば、キリスト教的な、神が人間のみに魂をあたえたとするようなもう一つの原理を導入しなければいけなくなるはずである。それとも“魂”というようなものも脳の活動の産物なのであるから、中枢神経系を持つ他の動物と人間は何ら異なるところはないが、脳の活動はあまりに複雑であり、われわれの理解を大きく超えているので、“魂”などという仮説を導入せざるをえない段階にわれわれはまだとどまっているということだったのだろうか?
 インテリである池田氏は当然宗教の恐ろしい側面、集団統合のための宗教を知っている。しかし、「共同体を守るメタ合理的な感情が遺伝的に組み込まれ、それが文化と「共進化」した」というような言い方はあまりに一般的で、ほとんど何もいったことにはならないと感じる。われわれの遺伝子に組み込まれているのは「狩猟採集時代」「定住しないノマドの時代」の生き残りに最適化された行動様式であろうから、せいぜい百人単位の「共同体」である。もっと大きくなってしまった「共同体」ではそのままでは機能しないものである。それで、宗教が遺伝には規定されていないもっと大きな集団を守るための疑似遺伝子として働いたというようなことなのだろうか? これはドーキンスミームなのだろうか?
 国民国家というのが「幻想の共同体」であるとしても、それはナショナリズムとして多くのひとを支配している。「愛国心とは、ならず者達の最後の避難場所である」のかもしれないが、たまたま国民国家が形成されたからそうなっているのであって、古来、ならず者達の避難場所は無数にあったわけである。本書での用例にしたがえば、ならず者とはシステム1でのみ行動するもののことをいうというのだろうか? システム1を“感情”、システム2を“理性”あるいは“知性”などというとあまりに安易になってしまうが、本書では、この言葉がかなり安易というか杜撰に用いられているように感じる。
 人間以外の動物はシステム1だけで動いているのだろうか? いうまでもなくこれはカーネマンの造語であるが、非常に短い時間でおこなわれる判断であって、多くの動物の生き残りに有効であったからこそ現在まで遺伝的に保存されてきている。われわれは大体において蛇のようなぬるぬるしたものを嫌い、パンダのようにふさふさもこもこしたものを可愛いと感じる傾向があるが、そのような傾向を遺伝的に持つことが生き残りに資したということらしい。したがってそれをシステム2で克服して意志的に蛇を可愛いと思うひとがいてもいいわけだが、それは蛇も愛玩動物化しうる環境になったからこそ可能になったことであって、周囲に毒蛇がうようよいるところでは成り立ちえない。まわりでコソっと音がしたら、警戒態勢にすぐ入る動物が生き残るのであり、さて何の音かななどとのんびり「考えて」いるものは生き延びられない。
 西欧で「リヴァイアサン」が書かれた頃に、中国で陽明学が流行したという時期の一致については指摘されてはじめて知ったが、「人間の素直なまごころをそのまま発揮すれば、自動的にすべてが調和してうまくいく」という思想は日本においてもまた非常に根強いものがあると思う。「論よりも義理と人情の話し合い」であって、「理」よりも「情」、「日暮硯」に描かれているのもそのような世界である。「お前、それを本心から言っているのか?」とか「じっと胸に手をあててよく考えてみろ」などという言葉が通じる世界なのである。
 そして学問をやればやるほど「小理屈のうまいインテリ」になっていって、無知蒙昧だが素朴な「愚夫愚婦」のもつ「まごころ」を失っていく。だからインテリは潜在的に「大衆」に劣等感&恐怖感のようなものをもっている。吉本隆明の「大衆の原像」という言葉がもった破壊力はそれによる。山本周五郎の「青べか物語」に出てくるような人たちにはインテリは手も足もでないのである。しかし「人情」の町、浦粕=浦安も今ではディズニーリゾートの町である。
 昔「農業は人類の原罪である」という本を読んだことがある。進化論関係の本で、農業以前の狩猟採集時代には原則として食べ物を蓄えるということがでず、農業によって初めて余剰ということが生じたことの意味を論じていたものだったと思う。わたくしのような文明が好きで野蛮が嫌いなものにとっては狩猟採集時代はまったく魅力のないものであるが、領土がなければ戦争もおきないのは確かであろう。
 暴力を抑制する国家があってはじめて経済活動は可能になり、その経済活動の余剰として文明が生まれるのであれば、文明が好きで戦争は嫌いという主張自体成立しないのかもしれない。「フリーランチ」はないのであろう。
 「歴史は憎しみとか恨みつらみとかの感情でほとんど決まるのであり、インテリの論理とか政策とかできまったことはない」のであれば、池田氏や與那覇氏はなぜこのようなことをここで論じているのであろうか? インテリはまわりでおきていることに力を及ぼすことはできなくても、なぜそのようなことがおきているのか理解できれば満足する存在なのだろうか?
 典型的なインテリであったマルクスの著作が後世にあれだけの影響を及ぼすことができたのは、インテリのシステム2に影響するとともに、大衆のシステム1に火をつけたからなのであろうか? あるいはインテリ自身も自分のシステム2によってマルクスを受け入れていると思っていたとしても実際はシステム1がまず受け入れ、システム2での受容はその後からついてくるのだろうか?
 そもそもシステム1にも働きかけない思想は広がりを持つことはないのだろうか?
 與那覇氏は「新左翼の運動も、国家ではなく戦争機械として生きたいという欲求から生まれたのではないか?」などという身も蓋もないことを言っている。全共闘運動華やかなりし頃、それぞれの派は革命的マルクス主義者同盟とか社会主義青年同盟とか名乗っていたが、マルクスを読んでいるひとはあまりいなかったらしい。マルクス主義という言葉が「権威への抵抗」というような文脈だけで用いられていたのかもしれない。それは「情念」の解放を意味したなどというとまさにシステム1の作動である。
 しかし池田氏の専門の経済学での議論は将にシステム2での論であると思う。それがわれわれの生活に決定的な影響をあたえるのだから、「歴史はインテリの論理とか政策とかできまったことはない」とはなかなか言えないように思う。ケインズの書いた経済関係の本などわれわれの情念に訴えるところは少しもないのではないだろうか?
 西洋近代は条件反射的なシステム1を抑制する機構をかなりがっちりと作ったが、それは大きな宗教戦争を経て、宗教的な本能を合理性で抑制しようとした、とされる。ということは、システム2が機能することもあるということではないのだろうか? あるいはこれも生き残りたいというシステム1が機能したことになるのだろううか?
 日本のシステム2の脆弱さは、過去における悲惨な過剰な殺し合いの欠如、すなわち「平和ボケ」によるとしても、われわれは過去を変えることができないのだから、如何ともし難い。「民主化すれば価値観も多様化するという西洋のリベラルデモクラシーが普遍的なものであるかは疑わしい」ということは今の中国を見ていても感じるが、そこがかなりの情報統制をおこなっているところを見ると情報がオープンになると、やはり西洋のリベラルデモクラシーは魅力的であると為政者も思っているのであろうか?
 一番わからないのが今のイスラム圏の動向で、そこでは西洋のリベラルデモクラシーが完全に否定的にとらえらえているように外からは見える。そしてそのイスラム圏に西欧から向かう若者も少なくないようなのである。昔読んだフクヤマの「歴史の終わり」では、西欧システムが歴史の最後の覇者となったことを論じ、それは西欧のシステムのみが人間の自尊心に満足を与えることが可能であるからというようなことがいわれていたように記憶している。今問題になっているのは、ひょっとすると西欧のシステムは人間の自尊心に応えることができないものとなってきており、イスラムの行き方のほうが人間の自尊心に満足を与えることができると感じるひとが増えてきているように見えるということなのではないだろうか?
 わたくしは、「多元的な価値観」ということをポパーから学んだ。多元的というのは価値相対的ということとは正反対であるというのがポパーの主張であった。「価値相対的」というのは、あれもあっていいし、これもあっていいし、それぞれはそれぞれにいいところがあるのだから、相互に優劣はないというもので、いわゆる「ポストモダン」がその代表であるのだろう。
 一方、「多元的」というのは、人間の有限な能力からいって、いろいろな価値観のどれが正しいかを決めることはできないが(そこから寛容という考えが生まれる)、しかし本当はどれかが正しい価値観であるはずなので、その正しさに少しでも近づいていくためには相互に批判的な議論を続けなければいけないというものであった。ポパーによれば、これはかなり進化論との類比で理解できるのであり、遺伝子はある変化をおこすことで、世界にむかってこの変化は正しいですかと問うのである。批判的な議論とはまさにシステム2の役割であり、そうであれば、「多元的な価値観」はシステム2への信頼からしか生まれない。
 ポパーの信者である点でわたくしは西洋的価値観の信奉者である。だから「理屈ではない、同じ仲間なのだから、そうすべき」というような共同体の論理が嫌いである。そうであると、江戸時代的とか中国的とか(最近ではイスラム的も)嫌いということになる。しかしいくらわたくしが嫌いであろうと、そういうものが力をもってきていることはどうしようもない。
 それに、そもそもわたくしも共同体嫌いではありながら、江戸時代的の一部である「まごころ」のようなものには抗し難い魅力を感じていることも事実で、「カラマーゾフ」のアリョーシャは魅力的なのである。それと同時に自分の中にイヴァンも(そしてドミートリイも)感じるのがインテリのあるべき姿なのではないかと思っている(イヴァンだけでは困る)。ドストエフスキー自身が西欧を呪いながら西欧に憧憬し続けた人だった。
 どうも本書の議論は人間はそうすっきりと割り切れるものではないぞという視点が乏しいように見えるのが不満である。二人ともイヴァンであることを誇りにしているように感じる。
 次が第4章「中世に始まる「失敗の本質」」。
 

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