池田信夫 与那覇潤 「「日本史」の終わり」(3) 第4章「中世に始まる「失敗の本質」」

 
池田:民主主義は普遍的な制度ではなく、特殊西洋的なものである。近代国家に必須のものでもない。不可欠なのは法の支配。民主主義とは法の支配を徹底するための手段の一つ。
那覇:世俗権力の分裂と宗教権力の統一が西洋を規定した。世俗権力も統一された点が中国を規定した。もしも五代十国の分裂状態が宋という王朝によって統一されなかったら、中国もヨーロッパと同じ状態になっていたかもしれない。別の見方をすれば、中国は随の時代にインフラを整備し、宋のときに国土を統一したら、あとは民草のことはほったらかしの競争社会であった。中国は歴史の大半で、ミニサイズの国家の並立ではなく、大きな大帝国のもとにあったので、相互に対等な複数の国家間での外交という発想がない。宋朝の成立とその後の発展が「西洋化」とは別の「中国化」という発展経路をつくった。
池田:コモンローは平和なところで成立する(たとえば英国)。大陸では戦争が続いたので、王様が中央集権的に市民法を押しつけることになった。戦争が激しいほど、集権的な官僚体制と市民法で統制することが必要になった。
 日本が明治期に世界一細かいプロイセンの法律を輸入したのは、この点を考えるときわめて不幸な選択だった。貞永式目のようなゆるやかなコモンローでいけばよかった。
那覇プロイセン的な中央集権化が古き良き日本を壊したという主張は農本主義者からもでている。社稷という日本の自給自足的な村落共同体という美風をこれが壊した、と。
 日本の右は、「アジアで唯一西洋化に成功した明治維新」を誇る傾向が主流だが、深部には上記の明治維新以前こそが美しい日本という発想がつねに伏在している。
池田:平和な国ではハイエクのいう自生的秩序ができ、戦争が激しいと人工的な中央集権国家ができてくる。
那覇丸山真男は、そういう自生的な秩序は政治的にはきわめて弱い体制なので、何かのときにはファシズム的なものに簡単に吸い寄せられていくと考え、自覚的に作為としてつくる体制の構築が必要と考えた。しかし、丸山のように体制がフィクションであると自覚しているものはいいが、無批判に西洋にあるものはいいものと思いこむ人たちが政治家や官僚になると、実態からまるで離れた法律を無理にでもまもらせるような方向にいく。それが恣意的に運用されると、「たまたま世間で騒がれて、目についたやつ」を一罰百戒的に処罰するということがおこなわれるようになる。
池田:中国の儒教もそういう世界。
那覇:道徳的か否かで処罰の軽重が変わる。
池田:だから中国は建前と本音が乖離した社会になる。
那覇:日本も同じ。「建前」なしでやっていけるときの日本人は本当に平和で幸せそう。それが農本主義? しかし、建前を持ち出さなければいけない状況になると、中国人は「建前」と「本音」がずれていることになれているので、適当にやっていくが、日本人は「建前」を本気で実現してしまおうとして、状況をさらに悪化させることをする。たとえば「大東亜共栄圏」。
 儒教個人主義というものがある。中国人は儒教的道徳はすぐには実現できない「建前」であることを知っている。それを知った上で自分はどうふるまうべきかを考える。
 しかし、日本人は明治期に教育勅語などでにわか儒教国家になると、いきなり「西洋は力による支配だが、われら東洋は徳による支配」などといいだす。実現できないことを掲げて暴走し、失敗するとくるりとまた転向する。すぐにそういう建前が存在していたことさえ忘れてしまう。丸山真男とは違った意味でだが、日本がいかに西洋化できていないかを説き続けた山本七平は晩年には中国化(儒教化)さえできていないと考えるようになった。
池田:丸山真男貞永式目を高く評価していた。山本七平と同じである。
那覇:江戸時代に地域割の体制になってしまったため、ある藩のなかでのもめごとは藩の中で、村のなかのものは村のなかでおさめればいいとした。みんな顔見知りで最後はなあなあでまとまることが当たり前であれば、「ルールによる統治」を創造する動機がなくなる。明治維新を日本人は「西洋化」と思っているが、実際には「徳治」の主宰者である天皇を表に立てて「中国化」しただけ。徳治と村治の系譜だけが近代日本に受け継がれたので、法治国家にはなれなかった。
池田:日本人は戦争が下手。
那覇:それは日本では、1)もうこれだけ賭け金をつぎ込んだのだから、タダでは帰れないとしてギャンブルから抜けられなくなる論理、2)拒否権発動者が多すぎる構造、3)「作為」を嫌うエートス、などがあり、それが合わさって損切りということができない。だから「自然にまかせる」ことになり、玉砕と空襲と原爆で死者の山ができて、ようやく「軍国主義」自体を損切りできた。
池田:日本人は結果よりも「動機の純粋性」を重視する。キヨキココロを倫理の基準にする。
那覇陽明学がその起源と考えていたのだが、システム1とは本来そういうものなのかなとも思う。結果重視というのはシステム2からしかでてこない。徳川体制は人為的な秩序であるのに、それを素朴な「日本のふるさと」で自然なものと考えてしまった。日本人はどうやってもリアリズムができない国民で、だから軍隊などもたせないほうがいいぞ、日本人は戦争をやらせたら絶対に失敗する国民なのだ、だとしたら平和主義でいくしかない、という点で革新の丸山と保守の司馬が一致した。
 排他的な土地所有権の概念は西洋近代を支えた最重要のインフラで、これが法の支配を定着させた。一方、中国では「王土王民」ですべての土地は皇帝に帰すべきものとされた。しかし所有権は王のものであっても、使用権と用益権は野放図に市場取引にさらされた。これは現代の共産中国の「土地公有」にまで尾を引いている。
 日本はこの点で西洋よりも中国に近い。明治期に領地の没収が可能であったのは、近世にはいり武士が城下町に済みはじめた時点がから封建領主からサラリーマンになっていたからである。
 これは「日本的経営」の問題ともかかわる。会社は株主のものといわれてもピンとこない。会社は従業員たちの共同体であり、利害関係者全体で運営するべきものとされている。近世の商家における家業でもそれは一族の総有ととらえられている。鎌倉時代御家人は大名家のサラリーマンではなく、自分の領地に土着した「封建領主」であった。自分の所有権にこだわる「一所懸命」のひとだった。
池田:しかし戦国時代に秩序が崩壊し、それを収拾した徳川政権が、ローカルにそれぞれをまかせたために法の支配が根付かず、日本が「近代国家」になれなかった原因となった。
 日本人は「仲よしクラブ」的な村落共同体に慣れすぎているので、暴力装置や法律が必要悪だという発想がない。理想的な法律をつくれば、内部に敵対関係のない秩序を国単位でもつくれるといった途方もないことを素朴に信じているきらいさえある。
 戦前の政友会、戦後の自民党は、その「仲よしクラブ」の運営者であった。しかしそれがうまくいったのは法がすばらしかったからではなく、法律外の調整メカニズムがうまく働いていたから。「江戸時代の庄屋さん」が「明治の元老」となり、戦後の「自民党の派閥長老」と利害調整機関が機能してきた。しかしこれは法的な裏付けがないものだから、機能不全に陥るとどうしようもなくなる。日本ではまだ問題を法的に解決しようとする志向が根づいていない。
那覇:紛争解決メカニズムこそがそれぞれの国の文明のかたちの根底にあるとすると、日本ではそもそも「社会には内部に紛争があるのが当然」という発想自体を欠いている点で、「根源的平和ボケ」のままである。紛争がない状態が「普通」で、紛争があるのは異常と思っている。
 中国化して商業振興と専制政治のセットでいくか、既得権としての農耕地を守り、封建諸侯の合議制度でいくかが本来争われるべきであるのに、それがなされないのままできた。
池田:一向一揆はローカルな「古層」を超える普遍的な価値が民衆に共有された運動だった。その主体は農民ではなく漁師・商人・職人などだった。日本ではノマドは時代を変える節目に登場はするが、一貫して少数派で、歴史を変えるかもしれないが主人公にはなれない。幕末の脱藩藩士もそうである。今の橋下市長も?。
 
 民主主義は普遍的な制度ではなく、特殊西洋的なもので、近代国家に必須のものでもなく、不可欠なのは法の支配というのはいつからそうなったのだろうか? 民主主義は普遍的な制度ではないにしても、少なくとも世界がそれをめざすべき目標とされてきたのではないだろうか? もしも、民主主義が普遍的な制度ではないのなら、法の支配だって特殊西洋的なものとはいえないのだろうか? 法の支配が行われてきた西洋以外の地というのはあるのだろうか? 民主主義の前提は個人で、個人は西欧の産物である。法の支配もまた個人を前提にしているのではないだろうか? 池田氏も与那覇氏も間違いなく西欧の生んだ個人の信奉者であるはずで、どうもこの辺りがわからない。自分などというのはどうでもよくて、自分が所属する共同体のほうが大事という価値観はごくありふれたものであるけれども、池田氏だって与那覇氏だって、そういう価値観にはまったく魅力を感じていないだろうと思う。西欧は「共同体よりも個人」という価値観がかなり大きな力をもった唯一の地域なのではないかと思う。
 「世俗権力の分裂と宗教権力の統一が西洋を規定した。世俗権力も統一された点が中国を規定した。もしも五代十国の分裂状態が宋という王朝によって統一されなかったら、中国もヨーロッパと同じ状態になっていたかもしれない」というのも確かにそうなのかもしれない。しかし歴史の上で実際におきたことは宋による統一である。それが統一されなかったらなどという議論がどのような意味があるのかよくわからない。
 岡田英弘氏や高島俊男氏の本を読んでも、中国における国家というのはわれわれがイメージする国家とは全く異なる。流通の主要な地点を押さえさえすれば、後は関心がない感じである。現代中国で農村部にはまともな戸籍がないときくと驚くけれども、国がそんなところにまで関心ないのであろう。
 「日本が明治期に世界一細かいプロイセンの法律を輸入したのは、きわめて不幸な選択だった、貞永式目のようなゆるやかなコモンローでいけばよかった」というのもそうなのだろうけれど、明治政府はプロイセンの法律など鹿鳴館と同じで、単なる飾り、日本も近代化、西洋化しましたよという対外的宣伝のためのものと思っていたのではないだろうか?
 山本七平氏の本を読んでいて、武士というものが出現してはじめて、形式より実質という日本を支配するイデオロギーが前面にでてきたのではないかと感じた。それまでは京にいる貴族ものとされていた土地であっても、実際に額に汗して開墾した人間から見れば土地はどう考えても自分のものであるはずと思う。そういう一所懸命の武装農民の間の争いを解決する指針をしめしたのが貞永式目であると山本氏はしていた。
 少し前に「会社は誰もものか」といった議論がでてきたとき、会社は株主のものだなどというわれて、「え?、嘘だろう! 会社は社員のものでしょ?」とわたくしをふくめ多くのひとが感じたのはないかと思うのは、このイデオロギー?が日本にいかに広く行き渡っているかを示しているのだと思う。
 小室直樹氏に「痛快! 憲法学」というとても面白い本があって、ごりごりの文明開化の人である小室氏がシマジという名の無知蒙昧で浪花節に生きる編集者に西欧本来の憲法を説く形で書かれている(ここに「憲法も民主主義も、けっして「人類普遍の原理」(日本国憲法前文)などではありません。これら2つは近代欧米社会という特殊な環境があって、はじめて誕生してものですから、憲法を知るには、欧米社会の歴史と、その根本にあるキリスト教の理解が不可欠なのです」とある)。これを読んでつくづくと感じたのは、わたくしもまたシマジくんと同じ浪花節の人なのだなあということで、内田樹さんが説くのも、日本はこれからも浪花節でいこうぜ!ということなのだろうと思う。
 プロイセン的な中央集権化が古き良き日本を壊したという主張は農本主義者からもでていて、社稷という日本の自給自足的な村落共同体という美風をこれが壊した、というのもこの路線であることがいわれる。恥ずかしながら、社稷という言葉を知ったのは片山杜秀氏の「未完のファシズム」か「日本思想という病」のなかの片山氏の「今中・無・無責任」でだったと思うが、いくら浪花節派であるといっても、「原理日本」とか簑田胸喜みたいなのは絶対にいやなので、その程度には個人主義者であるわけである。
 近々、池澤夏樹氏個人編集の日本文学全集の一巻として「吉田健一」の巻がでるが、池澤氏はその巻を論じて、吉田氏がいたことでわれわれは小林秀雄を乗りこえることができたというようなことを言っていた。上の言い方に従えば小林秀雄農本主義者であって、吉田健一が西欧派である。
 長谷川郁夫氏の「吉田健一」に以下のようなところがある。『河上徹太郎は晩年の回想「出雲橋界隈」のなかで、“山繭三人男”(小林秀雄青山二郎永井龍男・・引用者)について「簡単に言へば江戸ッ子の感性が知性になつたといつたものかな」と語っている。かれらは共通して「インテリ嫌ひ」で、ことに小林は「今の文壇の文士どもは、インテリぽくてしやらくさい、それがシャクの種だ」というのが口癖だった。昭和初年代は、イデオロギーや観念に取り憑かれた、しかも半可通の文学青年が溢れでた時代である。三人組はそんな連中の青くささを軽蔑し、都会派気取りのモダニストたちの野暮ったい田舎くささを生理的に嫌悪するあまり、誇りたかきバーバリズムを実践したといえるのかも知れない。』
 田舎くささを嫌悪する農本主義者などというのは矛盾でしかないが、江戸時代が農本主義の時代であったとすれば、都会にも農本主義者がいてもいいわけである。小林秀雄から見れば若き日の吉田健一など「都会派気取りのモダニスト」の典型に見えたであろう。しかもその吉田氏は「野暮ったい田舎くささ」など微塵もないひとであったから、ただもう変な人間にしか見えなかったであろう。
 「生理的に嫌悪」というのはシステム1の反応であろう。小林秀雄が嫌ったのはシステム2のみのひと、頭だけで語るひとであったわけで、「美しい花」を愛でる感性がないくせに、偉そうに「花の美しさ」を論じるひとを許せなかった。ところで吉田健一は文学の中に「花の美しさ」を見出すことにかけては無類の才をもっていたひとで、一方、小林秀雄は「インテリ嫌ひ」でありながらも「思想」というものへのこだわりを生涯捨てられなかった人であった、と思う。
 小林秀雄は文学の畑のひとでありながら、文学をそんなに好きではなかった人なのではないか?という疑問が消えない。思想を語る手段としての文学、あるいは思想という言葉が強すぎるのであれば、感性とか感覚といってもいいのかもしれないが、「本物」へのこだわり、武芸者的な真剣勝負のような世界、はっと目を合わせて「お主、できるな」というような世界、宮本武蔵のような修行の世界、そういういものが小林氏の文業の根底にあると思う。それは文学とは別の世界ではないかと感じる。「我ことにおいて後悔せず。」 これが日本の文学をいささか歪んだものにしてきたことは間違いないはずで、吉田健一のした仕事は日本の文学を門構えのついた文学ではないただの文学へと引き戻す試みだったのだと思う。
 橋本治小林秀雄論の面白さは、天性の近世のひとでありかつインテリでもある、希有な不思議のひとである橋本治小林秀雄のなかに自分の同類を発見していく過程にあるし、その三島由紀夫論の面白さは日本のインテリの不幸の典型をそこに見て、満腔の同情をもってそれを描いている点にある。
 日本の右翼方面が「アジアで唯一西洋化に成功した明治維新」を誇るのは矛盾でしかないわけで、そこには西欧への劣等感が歴然と存在している。中国や朝鮮をうまく西欧化できていない国として下にみていたのだが、そういう西欧化なしに成長してきているのをみて、あわてることになった。そうであるなら、これからは、右の方面が明治維新以前こそが美しい日本という方向に回帰していく可能性は相当に高いのではないかと思う。
 日本の戦後の一方には、何らかの「丸山真男的なもの」がつねに存在してきたと思うが、丸山がシステム2でシステム1を克服する方向を目指したのであったとしても、現在に残っているのは、極めて心情的な「平和」への志向(つまり江戸時代的なものへの郷愁)であり、完全にシステム1的なものだけになってしまっているように思える。。
 わたくしが日本の判例を見ていていつも不思議に思うのは、悔悛の情の有無で刑量が変わることである。裁判というのは行われた犯罪に対する判断をするもので、その後に犯罪者がどのように思うようになったかということは関係ない話ではないのだろうか? 死刑の存続をふくめ日本の裁判は国家による仇討ちの代行という色彩が極めて強いと感じる。江戸時代である。
 「建前」なしでやっていけるときの日本人は本当に平和で幸せそうであるというのは、習慣法だけでいければ幸せなのである。つまり貞永式目の世界。
 昔から建前とか本音というのを英語でいうと何というのだろうと考えているのだが、最近、中国からきたひとが普通に「本音」という言葉を使っているのでびっくりした。
 日本人は「建前」を本気で実現してしまおうとする、たとえば「大東亜共栄圏」とあるのだが、本当に戦時中、大東亜共栄圏などという言葉をみな信じていたのだろうか? あれはもう西洋はこりごりだ、非西洋組だけで一緒にやっていこう(いきたい)というだけの掛け声なのではないだろうか?。
 教育勅語などというのをみな信じていたのだろうか? 「西洋は力による支配だが、われら東洋は徳による支配」などといいだすとしても、それはもう西洋はこりごりといっているだけなのではないだろうか? そうはいいながらも、明治以降の日本を規定したのは教育勅語ではなく、明治期に輸入されたヴィクトリア朝的なキリスト教道徳なのではないかとわたくしは思うのだが。
 江戸時代に作られた檀家制度の影響もまた大きいのではないだろうか? 宗教が根こぎにされ、和尚さんは単なる地域の世話役になってしまった。
 山本七平氏の本を読んでいると日本の零細な家庭工業的企業をいつも実に大きな愛情をもって描いている。これは書店主である山本氏が直接知っていた製本屋さんなどがモデルなのであろうが、小僧、丁稚、番頭といった世界である。これは「日本的経営」の問題ともかかわるわけで、会社は株主のものといわれてもピンとこない、鎌倉時代御家人世界が続いているのだから、自分の領地(会社)に土着した小なりといえども「封建領主」なのである。部長も課長も「一所懸命」のひととなる。
 日本ではまだ問題を法的に解決しようとする志向が根づいていない。それは、世界のあらゆる紛争も話しあえば解決するはずと思っており、「社会には内部に紛争があるのが当然」という発想自体を欠いているのなら当然で、それを「根源的平和ボケ」と呼ぶのなら呼んでもいいけれども、過去を変えるわけにはいかないので、可能なことはそういう状態にあること、それが世界では例外的な思考方であることを自覚するところまでがせいぜいなのであろう。
 一向宗が拡がった地域にはその地方固有の民話のようなものがきわめて乏しいということを中井久夫氏の本で読んだことがある。日本における普遍の萌芽がそこにみられたのであろう。しかし、その主体が農民ではなく漁師・商人・職人などだったとすると、結局は農業という特殊が普遍を凌駕したわけで、日本は未だに農業国なのである。あるいはあらゆる職能が農業的に運営される。
 大学などで極めて「進歩的」な言説で知られる教授が自らの教室の運営においてはきわめて「封建的」なことがしばしばあることはよく知られるところである。大学の医学部は医局という法律的には何の根拠もない私的な制度がきわめて大きな力を持っているが、医学部の講座制というのは明治期にプロイセンの制度を受け入れたまま現在にいたっているらしい。大学紛争(闘争)時代に「医局解体」を叫んでいたひとが、後年教授になって、「医局というのは必要だ、俺は若い頃なんて馬鹿なことを言っていたのだろう」と反省しているなどというのはよく聞く話である。医学博士号というのは何の役にも立たないものであることはよく知られているが、それでもやはり大学教授になったりする場合にはないと困ることもあるらしい。「学位ボイコット」を叫んでいたひとが、いつの間にか学位をとっていて、気がついたら大学教授になっていることも時に見聞した。古い徒弟奉公の世界は簡単には消えていかないのである。
 あちら話というのがある。西洋ではどうこうだから日本は・・という形での日本批判で、あちらとは西洋である。本書を読んでいて、あちらが西洋から中国に拡がってきたのかなという感じをもった。インテリというのはあちら話が好きなのだなあと思う。
 次章は第五章「中国は昔から「小さな政府」」。
 

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