今日入手した本 総特集「福田恆存」
- 作者: 河出書房新社
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2015/05/22
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (8件) を見る
こういう本ももっていると便利かなと思って。
まだちらっとしか見ていないけれど、どちらかといえば演劇人としての福田恆存に比重がかかっているのかもしれない。
少し見た中では片山杜秀氏の「粘り強く孤独に、つとめて理性的に 福田恆存の演劇はいかなる声を欲したのか」というのが面白い。こういう文体を発明したのかと思って読んでいったら、最後に聞き手・小畑嘉丈とあって、書いたのではなく話していたのだった。
「だいたい、私なんか今、ろくに考えないで、勢いで喋ってますけど、つまりそのシュチュエーションの中で言葉というのは躍るんですよ。踊る言葉が人間を作るんです。」といったことを書いているのだと思って最後まで読んでしまった。片山氏は、福田恆存はシェイクスピアではなくてチェホフという方向で論をすすめる。「(福田訳のシェイクスピアの語彙が難しいというひとがいるが)そのくらいの難易度の日本語をスピーディに語り、また聞き取れて、丁々発止にやりあえてこそ近代人なんですよ。言葉は踊って互いに噛み合わず虚しいばかりということもある。それに耐えるのが近代人の孤独なんですよ。・・(チェーホフの戯曲は)ああ言えばこう言うを繰り返しているのだけれど、ちっとも噛み合っていない。空虚だ。すれちがいだ。むなしい。・・これが福田恆在の描きたい近代、つかまえている近代そのものですよ。」 だが、福田恆存は紀元節復活運動をしていたひとである。近代人の孤独は乗りこえるべき対象とされていたのではないだろうか? だからこそのシェイクスピアだったと思うのだが。チェホフだって、「チェーホフのいひたかつた、たつたひとつのこと、他人の真実を信ぜよ―それができぬために、ことば、ことば、ことば」なのだから、他人の真実を信じることができないことは不幸なのである。
片山氏は「刑事コロンボ」の声を担当した小池朝雄から福田恆存論を始めるというとんでもないことをしている。「ムーミン」のスナフキンの西本裕行、「すばらしい世界旅行」のナレーションの久米明、その三人がいずれも福田のやっていた劇団『昴』に所属していたことから、論が展開するわけである。
わたくしは福田恆存にかぶれていたころ、確か三百人劇場でだったか『昴』の劇を観たことがある。「億万長者夫人」だったかもしれない。あらかじめ脚本を読んでいったのだが、びっくりしたのが、脚本を読んだときにはここで客席(笑)となるはずのところで、誰も笑わないことだった。台詞まわしがあまりに下手なのである。学芸会だと思った。福田恆存に疑問を持つようになったきっかけの一つだったかもしれない。
片山氏は小池氏らの台詞まわしに福田の演劇論のエッセンスを見る。でもわたしが『昴』の劇を観たときには、とてもお金を取って観てもらうようなものには思えなかった。新劇の一種としか思えなかった。
いろいろな見方があるものである。