池田信夫 與那覇潤「日本史の終わり」(5)西洋近代はなぜ生まれたか

 
池田:従来は、西洋が基準になっていたが、最近では他の地域にくらべてみるべきもののなかった西洋がなぜ18世紀以降急成長をとげたかという見方が主流となってきている。
那覇:技術がその原因ではない。中国にはすでに同等の技術はあった。科学精神は西洋のみで出現した。それが原因という見方はある。「法の支配」(契約文化)・・人間の行動を人格や道徳ではなく「ルール」で縛る・・の有無が関係するという見方もある。長期の取引は法の支配がないところでは成立しづらい。
池田:最近では、キリスト教を批判した啓蒙主義ではなく、キリスト教が西洋近代を生んだというひとが増えてきている、プロテスタンティズムが個人と自己責任を生んだから、と。
 激しい戦争が西洋に特有の国家システムを生み、その国家の形態が西洋の発達を促した。法的なインフラのない国では取引が成立しない。スミスのいう「国家は経済に介入するな」はきれいごとである。
 中国は「世界=経済」で国家の大きさと経済圏が一致した。「世界=経済」では、経済圏の規模が国家を超えたので、国家間での競争がおきる。その方がパフォーマンスがよく、それが資本主義を生み出した。
 人口の多いところでは勤勉革命がおきる。人口が少なければ機械化でいかざるをえない。そこには啓蒙思想・科学革命によるテクノジーが効いてくる。キリスト教と科学と都市国家と軍隊という特殊西洋的な要因が偶然うまく結びついた。つまり原因は複合的である。
那覇:あらゆる税は悪い税というのは近世の百姓一揆以来の日本の庶民の感覚である。「税金を上げない限りは、お上を信用する」をいう虫のいい依存体質。江戸時代に土地から離れ、城下町に住んだことで武士はサラリーマン化したが、科挙という制度は取り入れなかった。
 
 西洋近代はなぜ生まれたかという問いに対して、さまざまな要因が偶然うまく結びついてというのではほとんど答えにならないように思うが、一般に本書では、今までの通説が最近はそれは違っているとされていますと指摘され、最近はこういう見方があるのですよという紹介がされるというパターンが多い。それはそれで勉強になるのだが、なんだかお勉強の成果のお披露目のようにみえてしまう面も否定できない。それに、自分の問題を論じるのではなく、第三者の問題を大所高所から論じているような他人事感もただよう。
 こういう問題が論じられるのは、われわれは西洋化している、あるいは西洋化していると思いこんでいるが、実は西洋化していない、そのどちらであっても、西洋の徹底的な影響下にあるということが出発点となるはずである。
 つまり明治維新以来の西欧受容の問題である。本書でも日本人は自分は西洋化していると思いこんでいるが実は実態は中国に近いのだよという視点や、日本は西洋とも中国とも違うといった見方が提示されていて、面白くはあるのだが、明治以降の西洋受容が日本にもたらしたさまざまな問題という観点からは、論点回避的に見える部分も多い。
 事実として、1)明治期に日本が西洋を受け入れようとしたこと、2)それは進んでというよりも、そうせざるをえないと考えられたためであったこと、3)そのため受け入れた西洋に次第に反発を感じるようになっていき、ある時それが爆発したこと(大東亜戦争)、4)敗戦後は一転してやはり反=西洋は間違っていたと思い直し、今度はアメリカを参照モデルとして再出発し、5)しかし、アメリカへの従属感への反発も同時に潜在し、それがところどころで爆発し(たとえば60年安保?)、6)同時にアメリカへの憧れと劣等感も存在し(たとえばアメリカ大リーグにいったプロ野球選手の動向についての加熱した報道)、7)アメリカへの対等の要求と日本の独自性の主張の間で混乱状態にあること(沖縄の基地問題平和憲法)といったことがあるようにわたくしは思うのだが、そういうこちらの問題意識と微妙にずれたところで本書の議論は進んでいくように思える。
 わたくしが西洋近代ということを考える場合に、なにより先に頭に浮かぶのが「個人」という問題である。「個人」というのは西洋の発明であるという偏見をどうしても拭うことができない。たとえば芸術家というのが西欧において以上に重大視されている地域は他にないと思う。ベートーベンが典型であろうが、それはほとんど創造の神に等しいあつかいをうけている。ノーベル賞などというものがあれほど騒がれるのも、その系であろう。
 もっと端的にいえば小説である。小説も西洋の発明であって、あれは一見つまらなく見える市井の人間でもその内面を覗けば一個の神に等しいものを持っているという信念なしには成立しえない。そしてこの「個人の尊厳」という見方は一度定着すれば紆余曲折はあるにしても大きな流れで見ればこれからも(少なくとも西欧圏や日本では)覆されることはないように思う。ネット上にブログなどというのがたくさんあるということも、その表れの一つであるはずである。
 わたくしに今わからないのが、現在のイスラム圏では個人というのがどのような位置づけになっているのだろうかということである。あるいは中国と一言でいうが、西洋近代に接触する以前と以後ではそこに生きるひとの人間観はかわってしまっているのではないかというようなことである。どうも本書では、中国や日本というのがかなり固定的に捉えられているような印象がある。
 第一に池田氏だって與那覇氏だって西洋近代思想の洗礼の産物であり、本書で多く紹介されている学問の成果にしても西洋の手法によるのであり、西洋批判あるいは西洋相対化という議論さえもその出自は西洋にあるように、わたくしには思える。
 現在のロシア、あるいは中国、あるいはイスラム圏では、いままで自明とされてきた西洋的原理(たとえば民主主義)に疑問符を投げかけているような動きが多々あるように見えるが、それにもかかわらず、「個人」を否定することはないように見える(イスラム圏はそうではないのだろうか?)。
 本書では民主主義というのが必ずしも自明の価値、いつでもどこでも追求すべき価値ではないのだということが強調されている。しかし「個人」というものに疑問が呈されることはない。それが疑問になれば、池田氏や與那覇氏がそれぞれの考えを述べるということ自体も成立しなくなる。つまりこのような本が出版されるということが、そのまま西洋近代の世界の征服を示している。
 もちろん明治期以前の日本では、書物が書かれず出版もされなかったなどということはない。しかしある書物をどう見るかということは、明治までと明治以降では変わってきているはずである。明治以降は著者の比重が重くなった。そういう個人への過度の重視への反省ということもまたおきてきている。しかしそれも西洋あるいは西洋の辺境からの所産であり、非西洋からの動きではないように思う。
 ということでわたくしは、やはり西洋が世界を席巻しているという見解を捨てることができない。本書はそのような見方を相対化するものとして種々、面白い視点を提供している。
 もしも本書でいわれるようにプロテスタンティズムが個人を生んだのであれば、プロテスタンティズムが世界を席巻したのである。山本七平プロテスタンティズムに相当するものを日本に発見しようとして鈴木心学を発見してきた。しかし鈴木正三が個人は世界と対峙するというような見解をもっていたとは思えない。
 というようなことで、読んでいくうちに、本書の議論とわたくしの関心が微妙にずれているように思われだしたので、まだ途中であるが本書への感想はここまでで終わりとしたい。
 

「日本史」の終わり (PHP文庫)

「日本史」の終わり (PHP文庫)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)