今日入手した本 伊福部昭「音楽入門」

音楽入門―音楽鑑賞の立場

音楽入門―音楽鑑賞の立場

本屋で偶然みつけたものだが、初版は昭和26年。本書は2003年の復刊本で、10刷とあるからそれなりに売れているらしい。今まで知らなかった。200ページ足らずの小著だが面白い。
エリック・サティの無類の傑作である「ジムノペディ」と有名なシュトラウスの「ツァラツストラはかく語れり」とを比べてみましょう。・・「ジムノペディ」は人類が生み得たことを神に誇ってもいいほどの傑作であり、シュトラウスの作品は題名だけが意味ありげで、内容は口にするのも腹立たしいほどのものなのです。」 なんていっちゃっていいのだろうか?である。世の中にサティの音楽しかなかったらやはり寂しいだろうと思う。「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」ということもある。
 徹底的なロマン派的音楽否定の路線なのだが、わたくしなどは伊福部氏の「オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ」などを聴くとどうしても「情念」といったものを連想してしまう。もっともここの「情念」は個人の情念ではなくもっと集団的な何かなのかもしれないが・・。
 わたくしは、伊福部氏の「交響譚詩」をはじめて聴いたときは「あっ、芥川也寸志の真似」と思ったくらいの無知蒙昧であるが(もちろん、芥川が伊福部の真似というか決定的な影響下に出発した)、伊福部氏や初期の芥川氏に共通する原始主義のようなものがロマン主義とどこかで通底していないのかということがよくわからない。
 ストラヴィンスキーの「音楽は何ものも表現しない」という言葉に伊福部氏は深く共感してるようなのだが、ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」が何かを表現していないのかもよくわからない。
 片山杜秀氏の解説「『音楽入門』とその時代」が秀逸。小林秀雄の「モオツァルト」を論じている部分など唸った。日本人に「音楽を文学的かつロマンティックに解そうとする姿勢」を植え付けるのに大きく貢献したのだ、と。「モオツァルト」はベートーベン的な大言壮語、大袈裟な身振り(第五交響曲的なもの)の否定の書なのだがと思うが、つまりベートーベンにロマン派音楽の始祖を見る視点で、ということはロマン派音楽の否定でもあるのだが、しかしロマンティック自体は否定できず、音楽が何かの心情を語ることも否定できないので、モツアルトの中にロマンティックを見出して、濡れていない立ち止まらない疾走するロマンティックは肯定するわけである。このどっちつかずの呼吸の微妙と曖昧が小林流であって、その後の日本の批評に長く悪い影響を残したのだと思う。片山氏は鬼才だなあと思う。